6.新たな人生(2)誘拐実行
杏子は海を見ていた。シーズンの終わった海は閑散としていた。毎年夏になると家族でやってきて祖父母たちの手伝いをするのが杏子は好きだった。高校生になると一人で夏休み中、祖父母の家の手伝いをしていたことを思い出す。
父方の祖父母は小さな民宿を経営していた。夏には海水浴客が、冬には釣り客がそれ以外でもサーフィン客が訪れていた。数年前、祖父が怪我で寝たきりになり、すぐに祖母も病に倒れた。二人して施設に入ったことを契機に後継者がいない民宿は幕を下ろしたのであった。
杏子は民宿の玄関の鍵を開けて建物に入った。懐かしい匂いを嗅ぎ、玄関に掛けられている写真に目をやった。思わず、自分の無邪気な笑い顔に目を逸らしていた。
父と母が定期的にここにきて掃除や片付けをしているようで、建物の中は比較的きれいだった。杏子が訪れたのは何年ぶりか、祖父母が元気なうちに来なかったことを後悔していた。杏子は部屋を一つ一つ点検していく。
ここに吉村愛莉を誘い出し軟禁する。そして虎之助に電話をかけ、身代金を請求する。受け渡しは海岸でお金を受け取ったら吉村愛莉を開放する。誰も傷つけず、怖がらせず、ただ、お金だけを受け取るだけ。受け取る金額は、三千万円。きっと、虎之助にとってはすぐに用意できる痛くも痒くもない金額で、杏子にとっては、人生の再出発に必要な金額だった。それさえあれば、自分の人生は逆転できる。そう、確信をしていた。
「真、お祖父ちゃんの民宿に皆で行かない?ほら、あの写真の子たちを誘ってさ。今頃だと近くの市場で美味しい魚が食べられるじゃない。レンタカーでも借りて行こうよ」
「お祖父ちゃんの民宿か・・・いいね。あの子たち来てくれるかな」
普段無口な杏子が饒舌になり、真を誘ってくるなんて普通ならあり得ないことだった。愛莉に夢中になっている今の真には、杏子の裏の思惑を想像できる冷静さはなかった。
「お祖父ちゃんの民宿があるからって誘えば、自然じゃない」
「そうだね。じゃあ日程は相談してくるね」
「一つだけ約束して欲しいの。できるだけ早く実行したいのと、二人には誰にも言わずに来て欲しいって」
「なんで?」
「だって、人が増えたら面倒じゃない」
「そうだね。姉ちゃんらしい発想だけれど、俺もその方が都合いいや」
杏子は真を納得させた。真は彩夏と愛莉を誘った。お金がかからない旅行だということで二人は誘いに乗ってきたのだった。彩夏は一人暮らしなのでそもそも誰かに言う心配はなかった。愛莉はいつもの休みを利用しての一泊旅行だったのと急に決まったことだったため、誰にも言う間がなかった。
「私、旅行なんて学校の修学旅行以来ですしレンタカーに乗るのも初めてです」
「私も旅行なんてこっちに出てきてからは初めてかも。真さんありがとう」
愛莉と彩夏に感謝されて真は悦に入っていた。真の運手する車は海の見える道路に出た。
「わあ、海が見える。素敵」
愛莉のはしゃいでいる顔をミラー越しに見て、真は誘って良かったと心から思った。
民宿に着くと杏子が笑顔で迎えてくれた。ただし、杏子は愛莉の顔を直視することはできなかった。しかしそれを不信がる者はこの場にはいなかった。
杏子は近くの市場で買ってきた新鮮な魚介類を使って鍋を用意していた。惣菜店で買ってきたサラダや煮物などを皿に盛り付け、何とか格好をつけようと奮闘していた。
「姉ちゃん何か手伝うことある?二人もこっちで手伝うって言っているけれど」
「大丈夫よ。これ持って行ってくれる?」
杏子はなるべく愛莉とは顔を合わせたくなかった。できるだけ会話も避けるようにしていた。
「こんな大勢で鍋をつつくのなんて初めてです」
愛莉の言葉に隣の部屋から聞き耳を立てている杏子だった。
「私なんて実家だとこういうのばっかり食べていたわ。でも、こんなに豪勢なのは初めてね」
「二人とも喜んでくれて良かった」
「こんな立派な旅館があるなんて、真さんが羨ましいわ」
愛莉の可愛い声が杏子の決意の背中を押す。
「誰も継ぐ人がいないから、勿体ないのだけれどね」
「真さんが継いだら良かったのに。お姉さんと一緒に」
「ダメダメ、姉貴とはそんなに仲良くないし、こういう仕事には向いていないから」
彩夏の提案に真は少しだけその気になりかけた。だが、姉と一緒というのには気が進まないようだった。杏子にとって今はそれどころではない。
「そうですか?私なんて母も亡くなってしまって一人だから、こういう雰囲気も羨ましいです」
杏子は愛莉の謙虚で自分たちを羨ましがる発言にいちいち腹を立てていた。
「何言っているのよ。こんな貧乏くさい民宿を羨ましがるなんて、嘘くさい」
杏子は一人、悪態をついていた。愛莉の『一人だから』という発言にも気を留める余裕はなかった。
杏子は三人が食事をしている隙に民宿を抜け出した。黒い海が見える場所まで来るとプリペイド携帯電話を取り出した。ボイスチェンジャーで声を変え杏子は虎之助に電話をかけた。すぐに留守電になる。
「もしもし、娘の愛莉を誘拐した。助けてほしければ身代金三千万円を持って、今から言うところに持ってこい。五分後にまたかける」
それだけ言って一旦電話を切った。虎之助は非通知や知らない電話には出ないことはわかっていた。だが、留守電は必ず聞くことも知っている。虎之助の慌てている様子を想像し、杏子は興奮してくるのであった。
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