5. もう一人の私(4)もう一人の私

 愛莉はアイドル歌手FGのコンサートへは毎年来ていた。母が好きだった影響で、人混みが苦手な愛莉がアイドル歌手では唯一来ているコンサートだった。父が用意してくれた席に落ち着くと、係の人が愛莉の前に膝をついた。

「愛莉様、お財布を落とされましたよ」

「ありがとうございます」

 考える間もなく受け取ってしまった。この財布は以前使用していたものと同じデザインのものではあるが、自分の財布は既に手放していることを思い出した。

「あの・・・」

 係の人を呼び止めようとするも、愛莉の言葉はコンサートの開演の合図でかき消された。後で返そうと思ってバッグに仕舞った。

 コンサートが終わり待たせていたハイヤーに乗り込んですぐに、間違って渡された財布の存在を思い出した。ハイヤーは渋滞に巻き込まれていた。引き返せる状況ではなかった。財布の中を確認すると、健康保険証が入っていた。確かに名前は『吉村愛莉』だった。しかも、生年月日も同じだった。しかし、住所欄には自分の住む住所とは全く違う記載がされている。届けてあげよう、と咄嗟に閃いていた。

「運転手さん、今から言う住所に行ってくれませんか?」

「はい、畏まりました」

 子供の頃から知っている運転手で、いつも愛莉を気遣ってくれる優しい人だった。

「理由を聞いてもよろしいですか?」

 その六十代の運転手は遠慮がちに聞いてきた。

「ええ、実はお財布を届けようと思って・・・」

 財布を渡された経緯を話すと運転手は笑顔になった。

「お嬢様はお優しいから」

「そんなことはないですが、お財布を落とされたのでしたらお困りでしょうから」

「少し渋滞しておりますが、よろしいですか?」

「ええ、私の方は何も予定がないですから、それよりそちらは大丈夫でしたか?私の我儘なのに」

「全くご心配には及びません。この分だとその財布の持ち主は電車で帰るだろうから、渋滞がむしろ好都合かと思います」

「電車ね。だったら私も電車で行こうかしら?」

「それはお止めになってください。私が叱られますから。何でしたら、私がお届けしても・・・」

「いいえ、それには及びません。私が届けたいのです」


 財布に書かれている住所につくと、そこは小さなアパートの前だった。

「このアパートですね。部屋の番号はわかりますか?」

「ええ、ここでしばらくお待ちいただけますか?」

「畏まりました」

 愛莉は車から出て、そのアパートの階段を上がった。健康保険証に書かれている部屋の前に来ると何だか緊張してくる。自分と同姓同名で生年月日も同じ人間がいる。その人と対面することになるとは、思ってもみない事態だった。

「あの・・・私に何か御用ですか?」

 インターホンを押そうとしたその時だった、急に声をかけられ、愛莉は一瞬ビクッとなった。

「あっ、あの、吉村愛莉さんですか?」

「はい、私が吉村愛莉です」

「あのこれ、お財布を落としませんでしたか?」

「あっ、私のです。わざわざ届けに来てくれたのですか?ありがとうございます」

「いいえ、あの・・・実は私も吉村愛莉と言います」

「えっ、同姓同名?」

「ええ、しかも誕生日も一緒で・・・」

「嘘、そんなことがあるの?」

 愛莉の驚愕した表情に届けに来た愛莉の方は落ち着きを取り戻していた。愛莉はコンサート会場で財布を渡された経緯を話していた。

「あの、お時間があったら部屋でお茶でもしませんか?」

 財布の持ち主の愛莉は動揺しつつも笑顔で誘ってきた。

「ごめんなさい。今は車を待たせているの。もし、よろしかったら連絡先を交換してくださいませんか?」

「はい、勿論です。もっと沢山お話がしてみたいです」

 二人は連絡先を交換した。財布を届けに来た愛莉にとっては、自分から連絡先の交換を依頼したことなど、生まれて初めての体験だった。


 家に帰ると、帰りの遅い愛莉を心配した百合から大仰な出迎えを受けた。

「心配しましたよ。とっくに閉演時間は過ぎているのに帰らないから」

「ごめんなさい。待っていてくださったのね」

 愛莉は百合に間違って財布を渡された顛末から、もう一人の愛莉という女性の存在の話を詳しく聞かせた。

「嘘みたいな本当の話ですね」

「そうなの。私もまだ興奮しています」

「何か裏があるのかな・・・」

 百合は興味本位を口にしていた。

「裏?」

「そうですよ。サスペンスドラマならご両親が一緒で何か事情があって引き離された双子とか・・・」

「それはなさそうね。あちらは私より小柄だし、輪郭も骨格も違いましたから」

「それは二卵性ってことも・・・」

「百合さんは想像力が抱負ね。今度会う約束をしたから、確かめてみようかしら」

 愛莉は百合と話をしながら、他人事のようにワクワクしてくるのであった。

「でも、私の母にあのこと以上の事実が隠されているとは思えないわ」

「そうですよね。仮に双子だったとしても引き離す理由がないですよね」

「そうね。江戸時代の日本なら双子は忌み嫌われる存在だったらしいけれど・・・」

「それに、金銭的に困っている家庭ならまだしも、ご主人様なら喜んで双子を育てたのではないでしょうか」

「そうなのよ。父は私が双子だったらとか、姉妹がいればよかったのに、という話をよくしているから。あら、何だか私も楽しい空想の世界に入ってしまったようだわ」

「あれこれここで話していても始まらないですね。すみません。私から言い出したことでした」

 愛莉と百合はお互いに顔を見て吹き出していた。

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