5. もう一人の私(3)本との暮らし
「本屋さんか、小学生の時以来かも」
百合の言葉に愛莉は驚きを隠せなかった。
「嘘ですよね」
「嘘なんかじゃないです。だって私、本なんて読まないし」
「最近まで大学生でしたよね」
「そうです。まあ、試験対策や論文書くのに読んでいたけれど、自分から漫画以外で本なんて買ったこともなければ、借りたこともないです」
本屋の店内で堂々と本を買ったことがないと言い切れる百合に、愛莉は尊敬の目を向けていた。
「えっ、私、何かまずいことを言いましたか?」
「いいえ、凄いなって思って」
本を手にしている客たちは百合の言葉が聞こえていたと思われるが、皆一様に無視をしていた。
「あっ、ごめんなさい。少し静かにしないとね」
百合は小さな声で誤った。愛莉は百合に微笑む。
本屋を出てマンションまでの道のりを二人で歩いた。
「本って何がいいのですか?」
「何が・・・そうですね、本の世界に入れるからかしら」
「本の世界ですか?」
「はい、本を読んでいると自分のことなんてどうでもよくなりますから」
「それって、現実逃避では?」
「そうかもしれませんね。でも、本の世界から現実の世界に戻ってくると、現実の世界が違って見えるから」
「そういうものですか。いつから本が好きなのですか?」
「字が読めるようになった頃からかしら。小学生になってすぐ、買ってもらった本に夢中になったのを覚えています。それからどんどん読んでいったわ」
「私なんて絵本ですら自分でちゃんと読んだことがないかも。姉がいるのですが、姉によく読んでもらっていました」
「お姉さんがいらっしゃるのね。羨ましいわ」
「そうですか?いたらいたで鬱陶しいですけれど」
愛莉は百合と話をしていると、本を読んでいる時以上に世界が広がってくるのだった。
「どんな本が好きなのですか?」
「どんな本ね・・・色々なジャンルの本を読むのが好きなの。最近では時代小説に嵌っています」
「時代小説ですか、徳川家康とかが出てくる?」
「徳川家康が主人公の小説も読みました。最近では主人公が江戸時代の町娘だったり、八丁堀の同心だったりするのが好みです」
「へえ、面白そうですね。ご自分で書くとかはなさらないのですか?」
「自分で書く?」
「はい、小説とか」
「考えたこともなかったわ」
「書きたいとも思わなかったのですか?」
「ええ・・・」
「沢山の小説とか読んでいたら、書きたくなるものだと、思っていました」
百合に言われてハッとしていた。自分は本を沢山読んでいるのに書こうと思ったことは一度もなかった。子どもの頃を除いては。
「まあ、書くのって面倒くさそうですものね。それに、愛莉さんはお金持ちだから、書いてお金にする必要もないのですものね」
「そうですね」
愛莉はしばらく黙って歩を進めた。何かを察したのか、百合はその後は何も口にしなくなっていた。
愛莉は思い出していた。小学五年生の頃だったであろうか、読書感想文のコンクールで賞をもらったことがあった。その後も作文の時間が好きだった。ある時、将来の夢という題の作文を書くことになり、愛莉は『作家になる』と書いた。それを父に見せた。
「作家なんてくだらない。作家になっても金にはならないぞ。まあ、愛莉の場合は働かなくていいのだからそれもいいのかもしれないな」
そう、父に言われた言葉が蘇ってきた。それ以来、愛莉は文章を書くという行為を、無意識に避けていたのかもしれない。
「お金のために書くのかしら・・・」
「そりゃそうじゃないですか?だって、書いてお金にしないと生活ができないですからね」
愛莉の独り言だったのだが、百合は真剣に言葉を返してくる。
「お金にならなくても書いている人っているのかしら・・・」
「そりゃあ、いますよ。小説を書いて有名になってお金持ちになりたいっていう夢を描いている人って沢山いると思いますよ」
「書きたいから書くのではなくて?」
「それはそうなのでしょうが、人に認められたい、喜んで貰いたい、イコール、お金が儲かる、生活が豊かになる、というのが社会?経済?何だろう、まあ、人の営みなのですかね。すみません。頭悪くて上手い言葉が見つからない・・・」
「そうですね。書いたとしても誰にも見せないのでは意味がないのかも・・・」
「まあ、日記なんて誰にも見せないものですから、でも、そうか、今はブログというインターネットで公開する場があって他人に読んでもらって、それを生きがいにしている人もいますしね」
「私が書いてもいいのかしら・・・」
「駄目なんてことは絶対にありませんよ。お嬢様の本ブログ、なんて面白そうですが」
「お嬢様は余計ですけれど、何か書いてみようかしら・・・」
「是非、書いてください。少なくとも私は読みますから」
「百合さん向けに私が読んだ本の紹介をするのも楽しそうだわ」
「そうですよ。私みたいな本が苦手な子が興味を持つように書いたら、案外人気が出るかも」
「そのブログってお金になるのかしら?」
「そうですね。お金にする方法はあるにはあるのですが、ブログだと大変だと思います」
「そう・・・」
「愛莉さんの場合は、お金にする必要がないのですから、楽しんで好き勝手に書けばいいのではありませんか?」
愛莉は別にお金を得る方法を探しているわけではなかった。ただ、自分が何かをすることで少しでもお金にできる方法があるのであれば、それをしてみたいと、ふと思いついてしまったのであった。
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