5. もう一人の私(1)母との思い出
タワーマンションの最上階から見下ろす夜景は、確かに綺麗だった。お台場の観覧車もレインボーブリッジの光も美しい。だが、愛莉は何度それらを見つめても一向に心が晴れないのだった。家政婦として新しく来てくれるようになった百合がこの夜景を見て、心から感激して喜んでいる姿に、嫉妬を覚えたくらいだ。自分には何かが欠けているのではないかと見せつけられた思いに駆られていた。
「愛莉様、この度は本当に申し訳ございませんでした」
百合は深々と頭を下げた。
「私の方こそ、ごめんなさい」
愛莉も負けずに頭を下げる。
「やめてください。本当に私が浅はかだったから・・・」
「そうではないわ。私が・・・」
「愛莉様。本当に申し訳ございませんでした。今回のことは百合がお金に目がくらんだことで愛莉様の私物に手を出してしまったのが事実です。もう二度としないと言っておりますので、どうかお許しください」
公子が二人の間に入ってきた。
「わかりました。また、よろしくお願いいたしますね。百合さん」
「はい、ありがとうございます。よろしくお願いいたします」
公子が出て行き再び愛莉と百合の二人きりになった。
「あの・・・一緒にお散歩していただけないかしら?」
愛莉は恐る恐る百合に聞いた。
「是非、母からも愛莉様と一緒に同行するのは構わないって言われていますから」
「それは良かったわ。そうだ、これからは愛莉様という言い方は止めてください」
「えっ、でも・・・、はい、わかりました。愛莉さんでいいですか?」
「本当は私の方が年下なのですから、呼び捨てでも構わないのに・・・」
愛莉と百合は愛莉がいつも歩いているという道を散歩した。レインボーブリッジの入り口が見えるところまで来ると愛莉は足を止めた。
「私ね、レインボーブリッジを歩いて渡ったことがあるのよ。それも一人で」
「えっ、そうなのですか?結構な距離があるのでは?」
「そうね。さすがに帰りはハイヤーを呼びましたけれど」
愛莉の意外とアクティブな振る舞いに驚かされる百合だった。そこを引き返してテラスのあるレストランに入った。ペットの同伴を許されているその店で、愛莉は愛しそうにペットたちを見ていた。
「愛莉さんは動物がお好きですか?」
「ええ、大好きなの。子供の頃の夢はね、動物園の飼育員になることだったわ」
「えっ、意外」
「そうお?でも、母が病気がちだったのと、父も動物が苦手だから飼うことはできないのだけれどね」
「お母様ってどんな方だったのですか?あっ、すみません。余計な事でした。忘れてください」
「いいのよ。誰かに話しをしたいってずっと思っていたから。聞いてくださる?」
「はい」
「母は自分では何もできない人でした。私を二十一歳、今の私の年齢で産んでお父様に養われて、私と同じで大学にも行かず、仕事もしないで二十七歳で亡くなった。父と母がどこで知り合ったかは知りません。どんな母かと聞かれても、知らない、というのが本当のところかもしれません」
「・・・」
百合はどう返事をしていいか戸惑ってしまった。
「何だか暗くなってしまったわね。母はね、とにかく優しい人ではあったわ。父と私にはというのが正解だけれど。自分でお金を支払ったことが無かったから、物の値段というものを知らない人で、何が贅沢でそうではないのかさえ、判断できない人だった」
「物の値段・・・」
「私もそうなのだけれど。だから、本屋さんには自分でお金を払いたいって、父にお願いしたの。本屋さんの支払いもカード払いができるけれど、それだと何だか嫌だったから」
「嫌?」
「そう、本の値段をちゃんと知っていたいなって思ったの。意味はないのかもしれないけれど」
「愛莉さんは冷静にご自分のことを捉えていますね」
「それはわからないけれど。母の両親という人のことも知らないし、父の家族にだってお会いしたことがないから、私にはルーツがないの。頼れる人も父だけだし、あっ、そうではないわね。前のお手伝いさんと公子さん、そして百合さんが、私の身内みたいなものね。あっでも、ご迷惑かもしれないわね」
「迷惑だなんて。これからも是非に頼りにしてください。いや、私はまだ頼りにはならないけれど、母なら何でもしてくれますから」
「公子さんは本当にスーパーお母さんよね。公子さんみたいな方がお母さんだったら良かったのに、って私、考えてしまうのよ」
「えっ、そうですか?毎日家にいるとガミガミと口煩くて、お金には厳しいし、本当にウザイ存在ですよ」
「そう言えるのってやっぱり親子だからね。羨ましいわ」
「そんな。何だかすみません」
「私の母は幸せだったのかしら?」
「お父様とのご関係は?すみません。立ち入り過ぎですね」
「いいのよ。そうね、母は父のことが大好きだったみたい。父も母のことを本当に愛していたわ。でもね、それは親子のような関係でもあったの」
「親子ですか?」
「そう、恋愛感情というよりは親子の愛情みたいな・・・」
「でもきっと、絶対に幸せだったと思いますよ」
「そうね」
「好きな人の子どもを産んで、愛されて。それって女としての幸せの基本かも」
「女としてか・・・。私にはまだ愛する人がいないから、そう思うのかもしれないのだけれど、私は母のようにはなりたくはないの」
カフェを出て二人は黙って家までの散歩を楽しんだ。
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