3. 籠の鳥(1)母はスーパー家政婦
百合は台所に立ってグラタンを作っていた。子どもの頃から家事全般を母から仕込まれているため、家の中のことは何でもできた。特に料理はパン作りやピザの生地作りまで、手の込んだ作業もお手のものだった。特にグラタンのホワイトソースは一から作る。それが百合のストレス解消になっていた。
「百合、またホワイトソース作っているのね。何かあったの?」
「ママ、これから仕事?」
「そうよ、あなたはお休みだったの?」
「うん、実はね、会社辞めた」
「嘘、いつ?」
「昨日で」
「何で何も言わないのよ。相談くらいしてよ」
「だって、ママ、最近忙しそうじゃない」
「パパには相談したの?」
「うん、辞めるって話はしたかな」
「パパの縁故入社だったじゃないの。大丈夫なの?」
「大きい会社だから別にいいんじゃない」
「仕事が終わったらパパに電話してみるわ」
母親は仕事に向かった。百合の両親は別居中だった。百合が高校生の頃から父は別に部屋を借りていた。理由はよく知らない。仲が悪いわけでもなさそうなのだが、一緒に暮らさない方がお互いのためなのだと、母は言っている。
今年の春、大学を卒業した百合は父と同じ住宅メーカーに勤めたのだが、三カ月で辞めた。三つ上の姉は公務員で既に家を出て一人暮らしをしている。何でも長続きする姉と違って、百合はピアノもスイミングも習い事全てが続かなかった。仕事もそうだと、いい加減、自分のことが嫌になってくる。ホワイトソースを上手に作っても、気は全く晴れなかった。
百合は母親が最近出版した本がテーブルの上に置いてあったので手に取った。『スーパー家政婦の簡単家事講座』という題名の本だった。
「スーパー家政婦か、ママはすごいね」
独り言をつぶやき、ページを捲った。
「これなら私だってできるかも」
百合の目がキラッと怪しく光った。
「ねえ、私にも家政婦の仕事できるかな」
夜になり帰ってきた母を捕まえて百合は早速相談をしてみた。
「そうね。あなたには無理ね」
「どうしてよ。私は家事全般何でもできるわよ」
「それは知っている。私が仕込んだのだから。でもね、家事ができるからって家政婦の仕事ができるとは限らないのよ」
「やってみないとわからないじゃない」
「あなたみたいに自分勝手で我儘な子には無理よ」
「そこを何とか、私に後はないのだから、お願いします」
最後は土下座をして母に懇願していた。
「わかったわよ。じゃあ明日一緒に行きましょう」
「いいの?」
「ちょうど誰か次の人を見つけないといけないところだったから、一度だけチャンスをあげるわ」
百合の母、公子は十年前から家政婦として仕事をしていた。どこかに所属しているわけはなく個人で請け負う形で働いている。最初からこんなに長く続けるつもりはなかったのだが、やってみたら公子の性格にマッチしているのか、気が付いたらのめり込んでいたのだった。
「公子さんは本当に料理がお上手ね」
料理教室で知り合った十歳年上の女性はしきりに公子を褒めてくれた。
「ありがとうございます。でも、私なんかよりスミさんの方が何でも知っていて、こんな教室に来る必要なんてないじゃないですか」
「私の知識は古いからね。流行の料理もできないと仕事にならなくて」
「何のお仕事ですか?」
「家政婦なの。住み込みで働いているのよ。でもここだけの話・・・」
その家は旧家でしきたりも厳しく、何よりその老婦人が気難しくて使用人がすぐに辞めてしまうような環境だという。
「家政婦さんですか。素晴らしいわ」
「そうお?」
「だって、私なんて専業主婦で何をやってもお金にはなりませんからね。私も家政婦ならできるかしら。でも、私なんて駄目ですね」
「あら、そんなことはないわよ。ねえ、一度お手伝いに来て下さらないかしら」
その一言から始まった仕事だった。
公子は大変そうなその仕事が魅力的に感じられたのだった。家では誰にも評価されずに、自己満足だけが支えとなっていた。家事がお金になるのであれば苦労は厭わない。そう思って厳しい注文にもせっせと答えていった。公子はその家の女主人に気に入られるまでになるのに、それほど時間はかからなかった。その家に通っているうちに、公子の評判は上がり、他の家からの仕事も舞い込むようになった。公子の仕事は絶えることがないどころか忙しくなるばかりだった。
公子の仕事が順調になるにつれ、夫婦の間には溝ができていた。最初は気にもしていなかったのだが、その溝は思いの外厄介で深いものだった。公子が気付いた時にはすでに埋められなくなっていた。
「家事がお金になるなんて、変な世の中になったものだ」
夫の言葉に反論する気力も公子はなくなっていた。
「仕事が面白いなんて、遊び半分の仕事だからそんなことが言えるのだろうな」
公子は家政婦としての仕事もうちでの家事も、自分としては完璧にこなしているつもりだった。下の娘も高校生になり手が離れている。これから仕事を増やしていこうと、張りきっている矢先に入った思いがけない妨害だった。
「あなたには迷惑をかけていないじゃないですか」
帰りの遅い夫に温かい食事を出し、掃除も洗濯もやらせることはない。ゴミ出しですらしていないのに何が不満なのか最初は全く分からなかった。
「休みの日に家にいないで何が主婦だ」
それまでだって休みの日に外出をしていることはあったのだが、買い物やコンサートに出かけることは許されて、仕事だと許されない。そんな不条理な話に公子は怒りを通り越して心から呆れかえるばかりだった。
しばらくして夫は家を出ていった。自分で作ったしまった常識が邪魔をして、妻を理解することができない。夫も苦しんでいるようだった。今は物理的距離を取るほかに解決策は見当たらない、そう公子も納得しての別居だった。
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