2. お金のかからない暮らし(3)お金のかからない暮らし

 愛莉は古いアパートで一人暮らしをしている。母が生きていた頃は公営住宅に住んでいたのだが、一人だと住み続けることはできなくなった。それを知った総菜屋のお客さんが自分の経営するアパートに住むことを勧めてくれた。築四十年以上は過ぎている古いアパートだが大家である七十代の未亡人が、毎日掃除をするなどメンテナンスを欠かさないので愛莉にとっては快適な住まいだった。

「愛莉ちゃんお帰りなさい」

「おばあちゃん、ただいま」

 愛莉は大家のことをおばあちゃんと呼んでいた。孫が近くにいない大家が望んだことだった。大家の子どもたちは遠方に住んでいるそうで、数回しか会ったことが無かった。

「今日はひじきご飯を沢山貰ってきたから、お裾分けするね」

「あらあら、いつもありがとう」

「こちらこそ、ありがとうございます」

 ここに引っ越してきたばかりの頃は、世間常識も知らず照美と大家に全てを任せてしまっていた。だが、普通は十八歳の娘が一人暮らしをするのには、かなりの制約があるらしく、最近になってやっと自分が恵まれていたことを理解するようになっていた。家賃も格安で敷金礼金というものも払った覚えはなかった。

 大家の自宅はアパートの隣にあった。普通の一戸建て住宅でそれほどお金持ちには見えなかった。大家はお金にはきっちりとしていて他の住民が少しでも家賃の支払いが遅れると厳しく叱責しているところを見たことがあった。それ以来、愛莉は絶対に支払いを遅れないよう注意している。


 部屋に入ると食材や惣菜を冷蔵庫に入れた。家電や家具は誰かからの貰い物ばかりだった。洗濯機は古着屋の社長が買ってくれた。冷蔵庫と炊飯器は総菜屋の照美が買ってくれた。他にも食器棚は総菜屋の隆宏が、本棚は真菜がそれぞれ買ってくれた。その他、食器などは母と暮らしていた時の物ばかりだし、ベッドや布団も大家さんが新品の物を用意してくれたのだった。そんなこんなでお金のかからない暮らしをスタートできたのだった。


 前の公営住宅から持ってきた唯一の家具は母の洋服ダンスと整理ダンスのセットだった。

「立派な婚礼家具ね」

 引越をしてきた時、大家に言われたのだが、意味がよくわからなかった。後になって照美に聞いてみると、結婚する際、花嫁が実家から婚家に持っていくのが婚礼家具だという。結婚はしていなかった母がどうしてそれを持っているのかはわからずじまいだった。婚礼家具と大家は言ったが、そうとは限らないとも照美に言われたのだが、なぜかこの家具は母の婚礼家具であったのではないかと、愛莉は妙な確信を持っていた。家具の色は白でこの部屋にも前の部屋にも不似合いだった。もっと広くて素敵な家に置いてあった方がしっくりくるのは確かだった。母が磨き上げていたせいか、今でも状態はかなりよく、リサイクルショップで売れるのではないかとアドバイスされたこともあったのだが、それでも子どもの頃から見慣れたその家具はどうしても手放せなかった。

 その整理ダンスの上に、母の小さな仏壇を置いた。毎日コップの水を変え、お線香をあげる。生花も欠かしたことはなかった。


 母は二十五歳で愛莉を産んでいた。その頃には総菜屋で働き一人だったと聞く。愛莉は一度だけ父親のことを母に問い質したことがあった。保育園の頃だった。

「愛莉のお父さんはどこにいるの?」

「愛莉のお父さんは天国にいるわ」

「天国?」

「そうよ、愛莉が生まれる前に死んでしまったの。でもね、愛莉が産まれてくることをとっても楽しみにしていたのよ」

 そう、母から言われて、愛莉の心に温かい風が一瞬だが通り過ぎたのだった。その後、父がどういう人だったのか、どうして亡くなったのかは、聞いてもはぐらかされるだけだった。中学生になると父の話はしてはいけないことだと認識するようになっていた。

 母はよく働いた。朝早くから総菜屋で働き、家では内職を欠かさなかった。愛莉もそれを手伝っていた。

 愛莉はうちが貧乏だとはそれほど感じたことがなかった。外食に行く機会はクラスメートの誰よりも少なかっただろうし、皆が持っている玩具や流行りのゲームが持てなくても、それほど羨ましいとは思わなかった。愛莉には本があったからだ。本は学校の図書館で借りることができたし、真菜からはお下がりの本や漫画を沢山貰うことができたし、何より自分で絵本を作ることに夢中になっていたからだ。それは今でも変わらない。


 今日は古着屋でのアルバイトはお休みだった。そんな日はスケッチブックに色鉛筆で絵を描く。女の子が虹を見上げている絵だった。絵を夢中になって描いていると無心になれた。愛莉にとっては大切で掛け替えのない至福の時だった。母が亡くなり周りの人たちはとても心配してくれて毎日誰かが家を訪れてくれた。それはそれで嬉しかったのだが、愛莉は一人の時間が嫌いではなかった。今、こうして一人で好きなことに夢中になれている自分を心から幸せだと思えるのだった。

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