エピローグ

 世界は別に優しくない。

 ニュースは毎日悲しい現実を語り、耳には暗い言葉ばかりが届く。

 希望になんて溢れてないし、夢を語ったって虚しいだけだ。

 一人で声を上げたって、声はどこにも届かない。

 でも、一人じゃないから。

 君が声を上げてくれるなら、優しくない未来も、少しは変わるかもしれない。

 だから、怖くても声を上げるんだ。

 少しでも、優しい世界が広がるように。




       ◆




 次に気が付いた時、サイレンの音は聞こえなかった。


(どっちだ……?)


 体中が痛かった。

 どこがとも言えない程、あちこちが痛い。脳には油彩画よりもしつこく何重にも塗りたくった疲労が蓄積していて、何かを考えるのも億劫だった。

 けれど、右手が、温かかったから。


「…………」


「あっ」


 どうにか瞼を押し開けた。


「……目、開いた……っ」


 彼女が、涙でぐしゃぐしゃにした顔で僕を見下ろしていた。その顔に夕闇はかかっておらず、僕は今がどの時間なのか分からなかった。


「……僕、また、倒れたのか……?」


 夢うつつの心持ちで呟く。

 実際、何度も巻き戻った時間の中でも、全身の疲労感と鈍い痛みで、巻き戻るなり倒れたことがあった。その時は学校の保健室に寝かされ、彼女の姿は……多分、なかったと思う。

 その時と、雰囲気も状況も似ている。白っぽく光る天井、背中に当たる硬い寝台。ガタガタと小刻みな振動と、ピッ……ピッ……と続く電子音だけが、記憶にないけれど。


「あんなに、走ったのに……」


 何度も心に浮かんだ弱音が、また勝手に零れる。こんなことを考えては、彼女を犠牲にしたまま時間が進んでしまう。ダメだと思うのに、涙が眦から零れ落ちそうだった。


「また、走らなきゃ……」


 涙も拭えないくせに、意地を張るように口にする。自分の声が耳から入ってきた途端、冷気が肌を裂くような痛みを感じた。

 錯覚だと分かっている。

 でも、辛い。

 そう思った時だった。



「走らなくていい」



「…………?」


 彼女の声が、優しく否定した。


「もう走らなくていいよ」


 涙の膜ですっかり歪んでしまった視界に、彼女の美しい顔が大きく映る。


「逃げて、ごめん」


 彼女は気丈にも涙を止めて、真っ直ぐに僕を見つめて言った。


「君の声を聞けなくて、ごめん」


 僕の右手を握り続ける手に、力がこもる。


「助けてって言えなくて、ごめん」


 そのあまりの辛そうな顔に、僕は混乱した。


「……なん、で……?」


 僕が倒れただけで、彼女がこんなに悲しそうな顔をするはずがない。そう考えて、僕は彼女以外のものがやっと視界に入るようになった。

 ここは、どう見ても学校の保健室ではない。というか、むしろ建物内ですらない気がする。彼女の背後に見える窓は小さく、明らかに車窓だし、壁には見慣れない機械類がびっしりと並んでいる。頭上では男性の話し声が幾つも聞こえるし、何だか慌ただしい。

 まさか救急車の中だろうかと考えた辺りで、僕は信じがたい事実に思い至った。


「まさか、戻って、ない……?」


 ここが救急車の車内なら、その可能性は高い。学校で倒れたとしても、救急車を呼ばれる可能性はまずない。何故なら、学校にいる時の僕にはまだ、肉体的疲労も外傷もないからだ。

 ここが保健室でないなら、と考えた時だった。


「もしかして、また、時間を繰り返してた?」


 彼女が、恐れるような声を出した。彼女が、四年生の時に話したことを真実として受け取っていたことにまず驚いたが、彼女の懸念はどうやら僕の体の方だった。


「だとしたら、まさか……これも、もう何度も」


「ち、違うよ」


 僕の体を上から下まで見てまた顔を歪めた彼女に、僕は言下に否定した。

 僕が同じ時間を何度も繰り返していることを信じているのなら、彼女を誤魔化し切ることは容易ではないだろう。何より、今の僕にはまだ小難しいことを考える余裕はなかった。

 でも、こんなことになったのは、初めてに違いないから。


「……ごめん」


 気丈にも堪えていた顔をまたくしゃくしゃに歪め、彼女が零す。とめどなく溢れる涙を拭ってあげたいのに、体は少しも動いてくれなくて。


「ごめん……っ」


「謝らないで」


 その涙が少しでも止まるようにと願いながら、僕は言った。ずっと、彼女が僕をこっそり呼び出してまで聞きたかったことの答えを。


「僕、君にお礼を言いたかったんだ」


「……私は、何も……」


「『助けて』って」


「!」


「君は、言ってくれた。だから、みんなが助けてくれた。動いてくれた」


 気楽に笑いかける、というにはまだ辛かったけれど、僕は精一杯微笑んだ。


「君が言ったとおりだ。君のおかげで、運命が見えたよ」


「…………ッ」


 彼女が四年生の時に話したことを、どれだけ覚えていて、どれだけ本気だったかなんて、関係ない。彼女の言葉には力があって、彼女の言葉に、行動に救われたんだということを、伝えたかった。

 あの時に感じたほど彼女は完璧でもなければ、強くもないかもしれない。自分で言ったことを実際に実行するにも、迷いがあるし怖気もつく。

 それを弱さだと言う人もいるだろう。批難する人や、嘘吐きだと文句や嫌味を言う人もいるだろう。僕の中にだって、嫌になるくらいそんな感情があると知ってる。世の中には、それで繋がるものも、強くなるものもあるって分かってる。

 でもそんな言葉がなくても、僕らは繋がっていける。自分を守るために無関心でいる必要なんかなかったんだ。


 たとえば、たった一言。

 小さな小さな「助けて」の声が聞こえるのなら。

 がむしゃらに走った先に手が届くのなら。

 ポケットの中に隠したささやかな優しさを、取り出すだけでいい。

 その時には、きっとまた「運命」が見えるから。


「……ありがとう」


 握りしめた僕の右手に額を乗せて、彼女がそう言った。

 温かい雫が、幾筋も幾筋も、僕の肌を心地良く滑り落ちた。

 彼女の心の温度を伝えるように、冬の終わりを教える慈雨のように。

 優しく、やさしく。

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優しい世界 仕黒 頓(緋目 稔) @ryozyo_kunshi

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