Case.13 僕の場合、あるいは君の
君が走る。
僕も走る。
君を助けられるまで、何度でも追いかける。
何度でも。
何度だって。
その結果、代わりに何かを失うことになったとしても。
それでも、僕は走るんだ。
◆
「君にも、言ってほしい。そうしたら、僕は……」
ダメだと思いながら、僕は感情のままにそう続けていた。途端、彼女が泣き出しそうに顔を歪めて踵を返してしまった。
「待って! なんで――」
もしかしたら、本音を話し合えるんじゃないか。そんな淡い期待が萌していた僕は、彼女の反応に少なからずショックを受けた。
けど、今の僕にはそれも些細なことだ。
「お前、ちょっとせっかち過ぎじゃないか? いくら告白される状況ったって、相手の気持ちもそっちのけで急かすのはさすがに」
「君の座右の銘って、何?」
それまで沈黙を守っていた井上が、呆れたように口を挟む。それを遮って、僕は前回の巻き戻しから考えていたことを単刀直入に聞いた。
案の定、井上は目を丸くした。
「は? 何それ?」
「うん。なさそうだな。なら君の座右の銘は、今日から『一日一善』だ」
「は?」
「そして、今日の分の『一善』を彼女に使って。それが、君の動く理由だ」
「…………」
脈絡のない話題転換と唐突な決定に間の抜けた声を上げた井上だったが、この言葉にはゆっくりと目を細めた。僕の深意を、値踏みするように。
「……意味わかんね」
「彼女を助けてほしい。彼女が危険なんだ」
「それで何で、俺が動くんだよ」
「僕の声と手が届くところにいたから」
「…………はあ?」
僕の回答に、井上が今度は険悪に眉を吊り上げた。
「ふざけてんのか」
声に、怒気がこもる。どうやら、手近にいたから都合よく使おうという意味合いに取られてしまったらしい。
でも、勿論そんな意味じゃない。僕はただ、彼女の言葉を信じただけだ。
『運命を見えるようにする方法って、知ってる?』
兎小屋の前から、色んな人に助けを求めるために移動していた短い時間で話していた、彼女の自論。
『運命が目に見えないなら、見えるようにすればいいんだよ。君の上げた声に、反応する人たち。それがみんな、君の運命だ』
人が運命だなんて、ちょっと違うんじゃないのかとあの時は思った。けれど今は、それもいいかもしれないとも思う。
そして今この時の運命の、一番目は井上だ。
「君が言ってくれたんじゃないか。みんな、きっかけが欲しいんだって。自分一人では、動き出せないから」
「……俺が? そんなこと、言ったか?」
井上が、覚えがないという風に首を捻る。そしてそれは、当然のことだった。だって彼とその会話を交わしたのは、もう何回も前の「今」にしか――僕の中にしか残っていないのだから。
「僕は彼女を追いかける。井上も、彼女を助けてほしい」
真っ直ぐに井上の目を見て、僕は助けを求めた。
それから、一分一秒も惜しくて、肝心なことも言い忘れて走り出した。
でも実際、どんなに時間をかけて説明しても信じてもらえないだろうし、誤魔化しつつ同行させようとすれば、勘の良い井上はきっと拒絶する。
これでいいんだ。
僕は校門を飛び出すと、何十回も走った道をまた走った。肉体よりも脳の方に疲労が蓄積している感覚は否めなかったけど、走った。
どんなに大声で回りに助けを求めたって、彼女に追いつけなければ意味がない。
でも途中で下校中の小学生に追いつけば、その度に「縁石には乗るなよ!」「歩道の真ん中歩け!」と口煩く叫んだ。
住宅街の中、赤い車の窓ガラスに映った自分の顔を凝視している男を見付けた時には、考えるよりも先に飛びついていた。
「――独りじゃ、ないなら……」
「助けて!」
「ッ……、……!?」
自分を鼓舞するように呟き続けていた男は、僕の突然の要請に、まるで死刑宣告でも受けた囚人のように顔を蒼褪めさせた。僕を凝視しながら口をパクパクと動かす姿は、不法侵入した僕への驚きや怒りよりも、どこか恐怖しているようにさえ見えた。
(そうだ。恐怖だ)
ただ残忍な心のままに、小学生の一団を轢き殺そうというわけでは、ないのだ。
それなのに僕は、この男が悪だと決めつけて、止めさせようとした。
そんなの、伝わるはずもない。
「助けてください! 女の子が、危ないんです!」
「……は、……は?」
男が、僕の必死さに困惑したように後ずさる。当然だ。この男とは今が初体面で、彼はこの後に自分が何をするかも知らなければ、そもそも彼女の存在すら知らない。
それでも。
「安全運転をしてくれれば、それだけで助けられる命があるんです。だから、お願いです……!」
「……な、な、にを……?」
支離滅裂なお願いだと分かっている。それでも、僕には時間がない。
膝に頭がつくくらい体を折って、精一杯助けを求めると、また僕は走り出す。
公園ですれ違った犬の散歩中の主婦にも、同じように助けを求めた。彼女は終始戸惑っていたけど、犬の方が何度も吠えて、走り去る僕を追いかけてくれた。
その次は、始終イライラしている男。出される足を避けることも出来たけど、僕は馬鹿みたいに真っ直ぐに突っ込んで、派手に転んだ。やっぱり、少しは腹が立ったけれど。
(全部、無視しないって決めたんだ)
目が合った人も聞こえる声も、自分には関係ないと目を逸らさないで。全部拾って、声をかけて、動いて。
「助けてください!」
「はあ?」
僕は立ち上がりながら、男にしがみついた。男が薄い眉を吊り上げて、不機嫌を丸出しにする。
「お前、俺が人殺しにでも見えるって言うのかよ!?」
「そんなんじゃないッ」
男のドスの利いた声に、一瞬肝が縮み上がった。それでも、もう何回も聞いた声だ。
何回も転ばされたからこそ分かる。彼はただ機嫌が悪いだけなんだ。僕が何を言っても、この後はイライラしながらその場を足早に去るだけだ。殴られたり、蹴られたことも一度もない。
「今走っていった女の子――彼女を助けてください! あなたの力も必要なんです!」
赤い車の運転手も、主婦も、サラリーマンも、みんな事故現場で何度も見た。この男も、何度か顔を出した。その時の顔は痛ましく歪んで、他人の不幸を喜んだり好奇心を覗かせたりなんかしなかった。
だから。
「お願いします! 彼女を一緒に追いかけて!」
「っ、放せ!」
乱暴に振り払われた。でも、挫けない。
僕はまた深々と頭を下げると、また走り出した。
『みんながみんな助けてくれるなんてことはないよ』
彼女の言葉を幾つも胸に想起しながら、走る。
『君が踏み出せないのは、それを既に知ってるからじゃない? 自分に繋がる全てに、期待し、怯え、顔色を窺って、対処しきれないような
協力も反感も、良しも悪しも、全部自分に繋がっている。それは四年生の時も今も、嫌という程味わった。
正しいことが必ずしも万人に受け入れられるとは限らない。面倒臭いことや苦しいことは誰だって避けるし、見たくないものや汚いものには蓋をする。誰か一人が足掻いてるだけじゃ、きっと届かないことは無数にある。
でもそれは、目に見えない、存在も証明できないような運命が邪魔をしてるんじゃない。
『だって、この世界に生きているのは、君だけじゃないもの。君以外の想いも、いっぱいあるの。まず、それを知らなくちゃ』
僕以外の想い。そんなの、彼女に言われるまで考えたこともなかった。けど言われてみれば、この世界で僕と僕以外の想いのどちらが多いかなんて、明白だ。
そしてそれら全ては、目に見えない、けれど複雑な糸で絡まるように繋がっている。それが運命だとしても、たった一つの意図を解いて結び直しただけじゃ、きっとダメなんだ。
求めるものの変化が大きければ大きいほど、関わる全部の糸を綺麗に解いて、結び直さなければならない。それがどんなに難しいことか。
現に今まで声をかけた相手は、誰一人として快諾なんてしてくれなかった。それでも、声に出さなければ、動かなければ始まらない。
今その答え合わせに必要な合言葉が、「助けて」なんだ。
(もう少し、あと少しで追いつく……!)
そのために、交差点のベンチの前で所在なげに佇立するサラリーマンの前にも立ち止まった。
「助けてください! 今走っていった女の子が危ないんです!」
「は……? なに……?」
サラリーマンが、困惑を顔に滲ませて僕を見る。でももう、時間がなかった。
「!」
走ってきた道の向こうから、あの赤い車が見えた。自信なさげに、ふらふらと走っている。
あの車に追い越されたら、何もかも終わりだ。
(そんなこと、絶対ダメだ)
サラリーマンの返答も待てず走り出す。歩道の先に、縁石に近付く小学生が見えた。彼女が何かに気付いたようにその小学生に近付く。
その向こうから、居眠り運転をしているという白い車が、ふらふらと彼女に近付いてきた。
「待って! 止まって!」
彼女の背中に向かって叫ぶ。でも、きっと聞こえていない。
『でも、大丈夫』
彼女が笑う。僕の記憶の中で。
『みんな、ポケットの中には優しさを隠してるんだって。ポケットに手を入れるのは、きっとそこにまだ良心や優しさが入っていることを確認するためなんだよ』
四年生のわりに小難しいことばかり言っていた彼女が、思えばこの時だけ子供っぽい自論を持ち出したのだった。
あの時に見た、もっともらしい理論とか裏打ちされた証拠なんか関係ない、彼女らしい笑顔を、僕は取り戻したい。
(あと、少し……!)
走る。
走る。
走る。
彼女が、縁石に乗った小学生を引っ張って歩道に戻す。
セーラー服が、車道側に傾く。
あと、もう少し。
「危ない! 逃げて!」
「!」
そこに、頭上の連絡橋から柿原の大声がかかった。
(なんで……)
今回の繰り返しでは、まだ柿原には何も言えていない。というより、柿原にはいつも事故が起こった後にしか声をかけられなかった。
でも、その声は彼女に届いた。
彼女が踏ん張って体勢を保つ。その数秒に、僕の手が届いた。彼女の細い腕を掴んで、力いっぱい歩道側に引き戻す。
「くッ」
力を抜いた人一人の体は重い。それもまた何度も実感してきた。でも今度は違う。
今までは、彼女が小学生を助ける前に引き留めていた。だから代わりの犠牲者が出た。
でも今回は、小学生を助けた後だ。これで彼女が歩道側にいれば、もう被害者は出ない。
(やっと、助けられた……)
これで良い。これできっと、望む結果が得られる。時間が進みだす。
「ッダメ――!」
彼女がいつも、縁石から転がり落ちる時に力を抜いてしまう理由が、分かった気がする。強烈な安堵と諦念が、四肢の自由を利かなくさせる。
背後から車のエンジン音が近付いてきても、避ける動作を取れない。目の前の車道からも、赤い車が僕に向かって突っ込んできている。
(あの男の人は、やっぱりダメだった……)
当たり前の結果だとは思うし、落胆はなかった。
それに、僕が勝手に車道に飛び出したのだから、人身事故になってもあの男の人に全面的な責任が行くことはないはずだ。それは、周りの人たちがちゃんと目撃してる。追いついたサラリーマンも、蒼褪めている主婦も、あの怖い男性も。
恐怖は、不思議となかった。脳に蓄積した疲労と達成感が、感覚を麻痺させているのかもしれない。
(助けてって、言えて良かった)
そっと目を閉じる。
二つのエンジン音が重なって、ブレーキ音のような甲高い摩擦音が建物の間に反響する。だというのに、何故だか彼女の息を呑む声が鮮明に聞き取れた。
そこに、大量のガラスが砕け散るような破壊音が爆発した。
僕の、すぐ背後で。
「…………え?」
振り返れば、白い車がズザザッと赤い車に側面を押されて、縁石まで戻されていた。ガガッとホイールが擦れる音がそれに続き、赤い車がまだ持っていた推進力が、反動となって自身の車輪を持ち上げる。
赤い車体が、ゆっくりと傾く。あるいはそれは、僕だけにスローモーションで見えていただけかもしれないけれど。
そして。
「ッ!!」
ガジャァン! と。
逃げることも出来ず、僕の体を押し潰した。
僕の足元で直下型地震でも起きたような衝撃が走って、世界がぐるんと掻き混ざって、痛みよりも先に視界がブラックアウトした。
「……ひっ」
それを目の前で見る羽目になった彼女の、叫び声が遠く耳の奥に木霊する。その光景の凄惨さがどれ程のものか、共有できるのは僕だけなのに。
(あぁ……今こそ、彼女を抱きとめるべきだった、気がする)
大丈夫だよと、君が気にする必要はないんだと、言ってあげたい。でも今の僕は、指どころか瞼さえ重くて、舌も痺れて動かない。
(痛い、のかな……)
言葉に出来ない衝撃が全身にのしかかってから、感覚が鈍い。
(このまま、また戻るのかな? それとも……)
時間が巻き戻るなら、もうすぐだろう。けれど今の自分がどちらなのか――まだ頑張れるのか、諦めてしまったのか、もう分からなかった。
(何も、考えられない……)
彼女の泣き声が聞こえるから、無事だということに間違いはないはずだ。子供の乱れた泣き声も、悲鳴も、男性の動揺した声も聞こえる。
でも、それらももうどんどん遠くなる。
(あぁ……終わる……)
もうすぐ、終わる。それが何の終わりなのかも、考える余力もなくなった頃。
「――いや……」
彼女の掠れて儚い、けれど迷いのない声が聞こえた。はっきりと。
「こんなのいや……絶対、いや」
次には確信のこもった声が、僕の体をゆらゆらと揺さぶった。
「起きて……ねぇ、目を開けてって!」
ゆらゆら、ゆらゆら、彼女が僕の体を揺する。
応えてあげたいのに、何も出来ない。
「なんで、こんなこと……ち、血がっ」
どうやら、頭のどこかから出血でもしているのを触ってしまったらしい。耳が聞こえて、脳が動いているから、頭蓋は無事なのかと思っていたけど、希望は薄いかもしれない。
「あ、あの、あんまり触らない方が……」
「今、救急車を呼んだから」
遠慮がちな男女の声が、動揺する彼女にそれぞれかけられる。彼女がそれらにどんな反応を示したかは、僕には分からないけれど。
「――た、助けて、ください」
その言葉が、死という糊で固まりかけていた僕の瞼を震わせた。使い果たしたと思った力を、普段は意識もしない瞼を押し上げるためだけに使う。
砂埃なのか、僕の視界が掠れているのか、白っぽい世界に、幾度となく追いかけたセーラー服の背中が見えた。
小さく、細かく、震えている。
(笑ってほしいって、思ったのに……)
あんなに頑張ったのに、少しも上手くいかない。
「彼は、私を庇って……だから……っ」
泣かないで。これは僕が、他でもない自分のために選んだことだから。
そう伝えたいのに、喉からはひゅうひゅうと息が漏れるばかりで、声にならない。
「お願いします! 彼を助けて……助けたい、から、だから……!」
彼女が、小さな背中を更に小さくして叫ぶ。それは声をかけた二人に向けてだったかもしれないし、先程の衝突音を聞きつけて集まってきた他の野次馬にだったかもしれない。
「車、押して戻した方がいいんじゃない、すか」
そう声を上げたのは、ぶっきらぼうな男のものだった。聞き覚えが、ある。
「……あ、あぁ。そうしましょう」
最初に聞いた男の声――きっとベンチに座っていたサラリーマンだ――が、戸惑いながらも応じる。
「えっと……じゃあ、僕はこっちを」
「じゃあ、俺はこっちを押すんで」
サラリーマンが僕の頭の方――多分ボンネット側に、言い出した男が反対側に回る。
そこに、三つ目の男の声が割り込んだ。
「じ、自分も……! あの、中から押します、ので……っ」
それは赤い車の運転席側の窓に顔を押し付けた、四十歳前後の男だった。
野次馬に来ていた全員が同じように動揺したのが僕にさえ分かったけれど、サラリーマンは意を決したように頷いた。
「じゃ、じゃあ、せーの、で押しましょう」
言うが早いか、三、二、一、の掛け声の後、三人の揃った声で「せーの!」と続く。その度に、微かに足先に振動が伝わる気がした。
けれど予想したよりも痛みがないのは、もう完全に神経が潰れて感覚がないのか、それともちょうど縁石か何かが間に入って、大怪我を免れたのか。
その後も何度も「せーの!」の声と共に、横転した車体が揺れた。
「お、俺も押す!」
そこに、四番目の男の声も割り込んだ。まさか、井上だろうか。
「おい、柿原はそっち押せ!」
「えぇっ!? 何で私……分かった!」
どうやら、柿原も既に連絡橋から降りてきていたらしい。見えないけれど、気配だけは感じる。そして、遠く救急車のサイレン音もまた聞こえ始めていた。
「……私も、柿原さんの方、押す」
震える足を叱咤するように、彼女もまた立ち上がる。
(変な感じだ……)
車の下敷きになった僕を助けるために、もう六人もの男女が車に取りついていた。何度繰り返しても、皆、見ているだけの人たちだったのに。
(これが、僕の『運命』なのかな)
今まで見えなかった、僕に繋がっていた運命。
(なんだか、すごく、いい気分だ……)
どうにか開いていた瞼が、再び否応なく下がってくる。そこにまた「せーの!」の声が聞こえて、薄暗かった視界がぱあっと晴れた。
ビルの谷間に、茜色の夕陽が沈んでいく。その最後の一欠片が、僕を真っ直ぐに射抜いていた。
そうだよ、と言われた気がした。
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