Case.12 私の場合
私は走り出した。
彼は泣きそうな顔で引き留めた。
でもそこで止まれるほど、私は強くはなかった。
泣いてるのを見られるのも、本音に勘付かれるのも嫌だった。
ましてや、自分が本当は少しも強くないということを思い知るのも、知られるのも。
ただの意地で、意固地で、幼稚な強がりだった。
それが、あんなことになるなんて。
想像もしなかったの。
◆
「それで……その、ずっと聞きたいことがあったの。あの時、君が、何を考えていたのか」
私は意を決して、そう聞いた。
彼に助けられた五年生の時から、ずっと聞きたかったことだ。胸の奥底に
(助けてって言えばいい、なんて)
小学四年生の私は、さも造作ないことのように彼に言った。得意げな顔をして、気取って助言した。
それが一体どれ程難しいことか、知りもしないで。
現に私は、言えなかった。
五年生になって、仲の良い友達は全員別のクラスになって。別に他の誰かと一緒にいたいとか、他のグループに入りたいとは思わなかった。一人が苦だと思ったことはなかったから。
でも、協調性がなくて口ばかりが達者な女子なんて、新しいクラスでの立場なんて明日の天気よりも簡単に予測できた。
でも、別にそれでも良かった。
酷いイジメに遭ってるとか、怪我をするとかいったことはなかったし、私物を隠されたり、二人組の相手がいないくらい、大したことではない。ないと、思い込むことが出来ていた。
でも野外教室のレクリエーション活動の時、私はついに思い知った。
独りは心細い、と。
みんな、置いていかないで。ついていけない私に気付いて。振り返って。
でも、少しも声にできなかった。どんどん私を置いていく班員の背中を見て、足さえも動かせなくなった。
助けて、と。
今言うべきなのに。今言わなければ、きっとずっと言えなくなる。
助けて。
でも、私は言えなかった。初めて来た山中の、夕暮れが迫る森の中の山道で、独り無視され、置いていかれる恐怖。
道の隅に蹲って、後から通り過ぎる別の班を見送っても、声を上げることが出来なくて、立ち止まって、立ち竦んで。
手が届かないことが、思うようにいかないことが、誰かに助けを求めることが、こんなに辛くて苦しくて難しいことだなんて知らなかった。
私以外の、沢山ある想い。それを全部綺麗にほどいて結び直すなんて、到底不可能に思えた。何も出来なくて、結局、最悪な結末しか待っていなかった。
それはひとえに私の努力不足、なのだろうか。
『君は独りで何もかも背負い込み過ぎだよ』
あぁ、なんて無責任な言葉だったろう。
兎小屋の前で蹲って、今にも泣き出しそうな顔で固まっていた彼に、なんてことない好奇心で声をかけた。
彼が心配だったからでも、話を信じたからでもない。ただ、話を聞いているうちに、似ているなと思ったのだ。
独りで抱え込んで、全てのことは自分一人で解決しなければならないと思い込んでいる。それは自信の裏返しでもあるけれど、時に弱味をさらけ出せない狡さでもある。
でも十歳だった私はまだそこまで考察できているわけもなくて、ただ閃いたことを自慢げに説教したかっただけに過ぎない。
だって、私が何も変わらなかったから。
もしかしたら、見下していたのかもしれない。情けなく足掻く彼を。だってまだ、そんな気持ちを味わったことがなかったから。苦しみなど、察しようがなかった。ただの、安全圏からの助言。気楽なものだ。
(でも、彼は動けた)
私は隣で見ているだけだったけれど、彼は私の言葉を真に受けてから、走り回った。その姿に、私は内心酷く満足していた。それがどんな感情に起因するものか、深く考えることもなく。
そして私は、このザマだ。
『……死んじゃえばいいのに』
無意識にそう呟くくらい、私は全部が嫌になっていた。その「全部」が何かも、まるで分かっていなかったくせに。
(私は、彼に偉そうにあんなことを言える人間じゃなかった)
彼の方が余程強くて、正しかった。
そんな彼に知った風に説教をしたことが恥ずかしくて、酷く惨めで、私は彼の好意を素直に受け取ることが一度も出来なかった。その真意を、自分から聞くこともせず。
でもそれは、果たして正しいことだろうか。
このまま彼の好意から逃げ、自分の惨めさから目を背け続けることは、惨めなことよりも恥ずかしいことではないのか。
これをこのままにしたら、私はきっとずっと後悔する。
だから、ケジメを付けたかった。
返るものが善意でも悪意でも、私は知りたかった。
あの時、無責任に放った私の言葉を、どう思ったのか。
本当は軽蔑してて、野外教室の時も、仕方なく声をかけたんじゃないか。その後だって、嫌々接していたんじゃないかって。本当は、彼もまた裏では私のことを、既に見放していたんじゃないかって。
何より、こんな風に疑ったままでいたくなかったから。二度と会うことがなくてもいいから、真実を知りたかった。
「考えて、って?」
一瞬呆けていたようだった彼が、我に返ったように私を真っ直ぐに射抜く。そのあまりの鋭さに私の方が息を呑むほどだったけれど、堪えて続けた。
「四年生の時、台風が来て、兎小屋に被害が出たことがあったの、覚えてる? あの時に、私が言ったこと」
「うん。覚えてるよ」
まるで私がそう言うのを知っていたかのように、彼が迷わず頷く。その力強さに負けそうになりながら、私はついに本題を切り出した。
「……あの時は、偉そうに君にあんなこと言ったくせに……。私は、言えなかった。口先だけだった私のこと、君は、どんな風に見ていたんだろうって、思って……」
臆病な私を。
偽善的な私を。
頭でっかちで、何も出来ない私を。
きっと、彼は気付いている。
だというのに。
「そんなことないよ。口先だけなんて思ってない」
彼は、私の目を真っ直ぐ見て、断言した。
「君があの時声をかけてくれて、僕は本当に嬉しかったんだ。状況を変えたくて、でも変えられなくて、独りで悩んでいた時に……君の声は、僕の背中を押してくれた」
「……そんなこと」
「それに、周りを信じられなくなっている時に声を上げることは、難しいことだって……分かるから」
まるで自分も味わってきたかのように、彼が言う。その言葉があまりに真に迫っていて、私は知らず一歩後ずさっていた。
その差を埋めるように、彼が一歩踏み出す。でも私は、それが怖かった。
来ないで。言わないで、と心の中で念じた。
けれど彼は続けてしまう。
「君の言葉は、嘘じゃなかった。僕は君の言葉で救われたんだ。だから」
お願い。その先を言わないで。私には、何も出来ないから。
「君にも、言ってほしい。そうしたら、僕は……」
「…………ッ」
私は、堪らず逃げ出していた。
「待って! なんで――」
背後で彼が叫ぶ。でも構わず走った。校舎の角を曲がり、そのまま校門も飛び出す。
井上が誤解しているように、私が恋する乙女だったら良かった。そうだったら、きっと彼の言葉をもっと純粋に受け止めることが出来た。彼の手を取って、助けてと言えたかもしれない。
でも私はそんな奴じゃないし、彼の手を取るにはバカみたいなプライドがマリアナ海溝並みに深く私の前に刻まれていて、とてもではないが飛び越えられない。
結局、臆病だからだ。
(受け止めるって、決めたのに……!)
彼の行為が悪意であるわけがないと、本当は分かっていた。ただ、自分の矮小さを見せ付けられるのが怖かっただけだ。
あまりに惨めな自分を思い知ってしまえば、二度と立ち上がれなくなるような恐怖を、ずっと漠然と抱いていたに過ぎない。
そしてそれは、あながち間違いではなかった。
(泣くなバカ!)
自分を憐れむ涙など、流したくない。知られたくない。だから、逃げるしかなかった。
逃げて逃げて、小学生も追い越して、いつも犬を撫でさせてもらっている主婦も素通りして、辛そうに座るサラリーマンも見えないふりをした。
何かの拍子に転んだお婆さんを助けたのは、自分が少しでもマシな人間になりたかったからだ。善意なんかじゃない。
だから、また逃げるように走った。彼の声が何度「待って」と叫んでも、止まれなかった。だって、弱い私では立ち向かえないと分かってしまったから。
走って走って、逃げて逃げて、現れた連絡橋の上に同じセーラー服が見えて、びくりと足を止めた。
その瞬間だった。
不意に、白い車と子供の映像が脳裏を稲妻のように駆け抜けた。
蛇行しながら歩道に近付いてくる車。ふざけて縁石の上を歩く小学生。
接触、衝撃、悲鳴、飛び散る赤い飛沫――。
「……ッ」
それが何かと考えるよりも前に、飛び出していた。
「どいて。広がらないで」
怒るように、目の前の小学生を商業ビル側に突き飛ばす。その反動で、私の体が縁石の外に傾いた。
その視界に、いま空目したばかりの白い車が突如として現実となって現れる。否、最初から車道を走っていたのだ。がむしゃらに走っていた私の視野が狭まっていて、気付かなかっただけで。
(あれが……?)
気持ち悪い浮遊感に包まれながら、どうにか体勢を立て直そうと左足に力を入れる。その時、十一月の夕暮れの冷えこんだ風が、私の背中目指して向かってくる気配を感じた、気がした。
最後の理性で、背後を振り返る。
赤い車が、私めがけてゆらゆらと走ってきていた。
死ぬ。
そう思った時、頭に想起したのは、何故か彼の言葉だった。
『何度も、繰り返すんだ。今から、明日の朝、仔兎が死ぬのを見る所まで、何度も』
けれど先程見た映像は、そうとしか言いようがない。
(信じてなんか、いないくせに)
愚かで浅はかな自分が嫌になる。自分は違うと他者を見下して、そのくせ何も出来ない。何にも懸命になれない自分が。
(嫌、だな……)
そう、思った時だった。
「危ない! 逃げて!」
頭上の高いところから、絹を裂くような悲鳴がした。聞いたことのある女の声。忠告に従うよりも先に、声の主を探して顔を上げる――その腕を、後ろに引っ張られた。
「!?」
だれ、とそちらを見る必要はなかった。
私の腕を引っ張った反動で、今度はその人物が入れ替わるように車道に飛び出したのだ。私の足が縁石にぶつかって、歩道に倒れる。
その寸前、その人の横顔が視界を流れた。
彼だ。
(……なんで、笑って……?)
けれど、声にはならなかった。
そこに、車線を無視して白い車が突っ込んできたからだ。
「ッダメ――!」
たった今離れたばかりの手を掴もうと、反射的に手を伸ばす。けれど、既に歩道に転がっていた私の手が、彼に届くはずもなく。
白い車が、彼をはねる――直前、背後から来ていた赤い車が、白い車体の側面に突っ込んだ。
ガシャン!
と、窓ガラスを叩き割ったような大きな衝突音が道路いっぱいに響き渡って、その痛みを訴えるようにクラクションがパーッと鳴り続ける。
「…………え?」
目の前で巨大な鋼の塊同士が衝突するという非現実的な光景に、私はすぐには何が起きたか理解できなかった。
(まさか、赤い車が、助けてくれたとか……?)
だがたとえ助けるとしても、こんなやり方では自分も対向車もただでは済まない。そんな危険な方法を、まともな人間が採るだろうか。
だがそんな悠長な思考は、全てが終わってからのことだ。
ズザザッと白い車が反対車線を押し返され、縁石に当たって止まる。だが赤い車には明らかにまだ推進力が残っていた。相殺され切らなかった力がギシギシと軋んで、ついにはその反動が赤い車の車輪を浮かび上がらせる。
そしてそれは、すぐ傍らでそれを見上げていた彼の顔に向かってぐらりと傾き。
ガジャァン! と。
逃げる間もなく、彼の体を押し潰した。
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