Case.11 僕の場合 ⑤ ―最後の悪足掻き―

「……えっと」


 誰だっけ、という言葉は、辛うじて呑み込んだ。

 四年生は三クラスだけで、同じ組でなくともほとんどの顔と名前は見知っているのだが、今は混乱し過ぎていて、咄嗟には名前が出てこなかった。


「ウサギ、見てたの?」


「…………」


 無邪気な問いに、けれど僕は是とも否とも答えられなかった。だというのに、少女は僕の横に並んで立つと、にこやかに小屋の中を覗き込んだ。


「赤ちゃんが生まれたんだよね? 早く抱っこしたいなぁ」


「ダメだよ!」


 僕は思わず声を荒げていた。この一週間、何度も聞いた類の言葉だったのに過剰に反応したのは、ただただあの惨状が脳裏にこびりついて離れないからだ。

 けれど、そんなことは彼女にはまるで関係ないことだ。返る沈黙に、僕はハッと顔を上げて彼女を見た。


「あ、あの……ごめ――」


「ダメなの?」


 少女が、真っ直ぐに僕を見る。その瞳は責めるようではなかったが、僕は疚しいような気持ちになって目を逸らした。


「あ……うん、あの、ウサギは生まれてすぐは、構いすぎるとダメなんだって」


「そうなの? じゃあ、今は見てるしかできないんだ?」


「!」


 そう問い返した彼女の言葉に、他意なんかない。何もないと分かっているのに、僕は心臓が引き絞られるように痛くなった。

 一度は引っ込んだはずの涙が、また目頭に戻ってくる。


「……うん。手を出したら、ダメなんだ」


 僕はたまらず膝を抱えて俯いた。ズボンが汚れるのも構わず、地面に体育座りをする。

 それがいかにも不自然な態度だと、彼女だって気付いたはずだ。それでも、彼女は会話を続けた。


「手を出すって?」


 僕はそれを鬱陶しいと思いながら、一方で聞いてもらいたいとも思い始めていた。

 仔兎を助けたくて、何度も同じ時間を繰り返しているなんて、荒唐無稽な話だ。クラスの男子に言えば絶対にアニメの見過ぎだと言われるし、女子からは作り話にしては独創性がないとか言われるのがオチだ。どちらにしろ、誰も本気で聞いてはくれないだろう。

 でも、こんな僕にまだ付き合おうと言う彼女になら、少しだけでも、聞いてもらえるんじゃないかと。

 彼女はクラスの中でも、少し独特な生徒だった。たとえば同調を良しとする女子たちの輪にあっても、彼女は上辺だけの付き合いはしなかった。誰かが新しいリボンを付けてきて、皆がそれを褒めても、彼女は自分の意見を口にした。


『ドット柄は、もう少し大きい方が可愛いかな』


 三年生の時だったと思う。その言葉を、僕は印象強く覚えている。


「……たとえば、たとえばの話だけど――」


 僕は縋るような思いで、そんな風に切り出した。

 最初は、仔兎は雨に濡れると死んじゃうから、それをどうにか防ぎたいと考えていたこと。でも何をしても、強風でダメになってしまうこと。

 そして彼女の疑問は、当然のところにも行き着いた。


「前にも、あったっけ?」


「……ない、けど」


「でも何だか、見てきたみたいに話すし」


「…………」


 別に、誤魔化しても良かった。でも、誤魔化す余力もなかった。

 何より、もうこの苦しい思いを聞いてもらいたいという気持ちの方がまさってしまった。


「……何度も、繰り返すんだ。今から、明日の朝、仔兎が死ぬのを見る所まで、何度も」


 訥々と、僕は今までに分かっていることを拙い言葉で説明した。

 いつもこんなことが起こるのではないこと。時間が巻き戻るのは、多分嫌なことがある時だということ。それが終わるのは、嫌なことがなくなるか、僕が何もしなくなった時だということも。


「もう、いいやって思うと、終わるんだ。もう何もしたくないって思うと……。でもその度に、すごく嫌な気分になるんだ。出来なかったことをずっと見せつけられてるみたいで、ぼくには何にも出来ないって言われ続けてるみたいで、すごく……苦しい」


 運命は必ず収束するとか、世界には修正力があるという考え方は、もっと大きくなってから知ったことだが、僕はそういう考え方が大嫌いだった。

 それは結局、何をしても無意味ということだ。だから僕は、これが特別な力だとか、自分は選ばれたのだと喜ぶ隙間もなく、嫌いになった。もう絶対に何にも心を囚われたくないと思った。

 必要以上に執着しないように、感情を荒立たせないように、僕は神経質なほど周囲と距離を置いた。表面上は仲良く友達付き合いをしても、心の中までは決して開かなかった。

 それが自他にとって良いことかどうかは、別にして。

 そのお陰で、あの兎の件以来今まで、ずっとこの現象は起きていなかったのに。




       ◆




(何で、よりによって彼女なんだよ)


 事故現場に到着した救急車とパトカーのサイレン音を呆然と聞きながら、僕は奥歯を噛みしめた。

 彼女とは小学校が一緒で、でもそんなに親しいわけでもなければ、クラスが同じになった回数も少ない。

 でもこんな時、話を聞いてもらいたいと思うのは、彼女だけで。

 でもその彼女を、僕はずっと避け続けてきていて。

 この交通事故にも、気付かなければ、もしかしたらそのまま時間が過ぎていったかもしれなくて。


(最低、だ)


 助けたいと思ってるのは、結局自分のためなんじゃないかという疑念が、繰り返す度に強くなっていって。


(……もう、嫌だ――)


 心が、僕の意志に逆らってそう呟く。

 その時、不意に彼女の声が脳裏を駆け抜けた。



『嫌だなって思ったからじゃない?』



 あの時、兎小屋の前で、彼女は疑問も追究も差し挟まず、ずっと黙って聞いてくれていた。そして僕が自分自身に嫌気が差して、ついに嗚咽しか出てこなくなった時、彼女は気負うでもなくそう呟いた。


『君にとって、それは間違っていることで、悲しいことだと思ったから、正しいことをしたいと思ったんじゃない?』


『…………』


 雨、大丈夫かな。

 仔兎、大丈夫かな。

 台風が来ると聞いて、早く帰るようにと担任に言われて、僕はそう思いながら下校した。兎小屋に後ろ髪を引かれる思いで、でも、実のあることは何もしないで。


『……でも、どうにもならない』


 あの時足を止めて、仔兎のために何かしていても、結局何も変わらなかった。何も、助けられなかった。


『んー……。思うに、君は独りで何もかも背負い込み過ぎなんじゃない? ほら、たった一言、言えば良かったんだよ』


『……なんて?』


 からりと笑う彼女に、僕は訝しみを含んでそう尋ねた。

 こんなに辛いことを、何をやってもどうにもならないことを、一体どんな言葉が救ってくれるというのか。

 いじけるような僕に、彼女はこんな簡単な問題も分からないのかというようにあっさりと答えた。



『「助けて」って』



 彼女はさも当然のことと言うように笑ったが、僕にはさっぱり分からなかった。


『助けてって、誰に言うの?』


『みんな』


『みんなって……』


 先生には何度も相談したけれど、一度も助けられなかった。


(そう言えば『助けて』とは、言ってなかった気もするけど……)


 だが、きっと言っても助けてはくれないだろう。だってそれを言う時はまだ、仔兎に危険はないのだから。


『誰も、助けてなんてくれないよ』


『それは勿論、みんながみんな助けてくれるなんてことはないよ』


 僕の悲観的な言葉に、彼女はあっけらかんと同意した。そして裏表のないその顔で『でも』と続けた。


『みんながみんな助けてくれないなんてこともない』


『それは……』


 そうかもしれない、と僕は思った。

 例えば先生や、クラスの全員が応えてくれなくとも、世界はそこだけではない。クラスの外に出て、別のクラス、別の誰かに声をかければ、また違う反応があるかもしれない。学校がダメなら、更に外の世界へ。


『助けて、くれるかな……?』


 たかだか十歳の子供一人には到底出来ないことでも、誰かが、助けてくれるなら。


『この世界は、君が思う程冷たくも怖くもないよ。声を上げれば、動いてくれる人だっている』


 何の疑いもない眼差しで、彼女はそう断言した。その十歳とは思えぬ聡明さと達観した物言いが、一年後、彼女自身を苦しめることもまだ知らない、純粋な言葉だった。





(……嫌だな)


 そうだ。このままじゃ、嫌だ。

 僕はまだ、彼女にあの時の恩を返していない。彼女の言葉は本当だったと、伝えていない。

 そしてきっと、彼女は自分の言葉を後悔している。五年生の野外教室の時、一度も「助けて」と言わなかった彼女は。

 だから、卒業して会えなくなる前に、僕と話をしたかったんだ。四年生の時の、兎のことを。彼女の言葉を。


『あの時は、偉そうに君にあんなこと言ったくせに……私は、言えなかった。口先だけだった私のこと、君はどんな風に見ていたんだろうって、思って』


 だから、彼女はあんなことを聞いたのだ。小学生の時分から聡明で、自分に絶対の自信があった彼女が。自分が信じられなかった言葉を、僕がどう感じたのか、怖くなって。

 だから、僕はこう答えなければならなかったんだ。

 君の言葉は、嘘じゃなかった。僕は君の言葉で救われたんだ。

 だから。


(君も、言って良かったんだ、なんて)


 とても、言えない。

 きっと彼女は、五年生になってから何度も、何度も何度でも、言おうとしたはずだ。そしてその度に、呑み込んだ。

 助けて、と。

 どうしても口にすることが出来ず、独りで耐えるしかなかった。

 それを臆病だと、どうして批難できようか。

 だって現に僕は、目の前の事故現場に次々と集まる野次馬の背中に向かって、そのたった一言が言えないでいた。


 た す け て。


 そう、言ったつもりだった。何度も。

 けれど、声は少しも音にならなかった。


(あの時は、言えたのに)


 仔兎を助けようと奔走した時は、言えた。隣に彼女がいたからだ。

 担任の先生に、他のクラスの先生に、用務員のおじさんに。去年、兎の飼育係だった五年生の先輩にも声をかけた。


 助けて、と。


 仔兎を助けたいの。このままでは死んでしまうから。雨と風に負けてしまうから。でも、僕が手を出すと、親兎が怒ってしまうから。

 助けてほしい。知恵を貸してほしい。

 彼女の励ましをポケットに詰め込んで、僕はそう言って夕方の学校を走り回った。

 最後には、用務員のおじさんと、兎の出産時に四年生の担任をしたことがあるという国語の先生が、手を貸してくれた。


 親兎をまずゲージに入れて、用務員さんが学校の宿直室で一晩過ごせるようにした。その後で、軍手をはめて人間の臭いが移らないようにしてから、仔兎を藁ごとゲージに移した。こちらは、国語の先生が自宅に連れて帰った。

 授乳については、兎は午前中に一、二度しか行わないから、空腹についての心配はないとも教えてもらった。

 二人とも、僕の言葉を全面的に信じてくれたわけじゃないことは、今なら分かる。生徒が泣き腫らした顔で必死に頼むから、僕を安心させるために行動してくれた、パフォーマンスに近かっただろう。


 翌朝、兎小屋に行くと、浸水した雨水が藁を巣箱の上まで押し上げた跡があって、一時間目はクラスの皆で兎小屋の掃除をした。

 あの時に、皆と笑って掃除が出来たのも、先生やクラスメイトを恨まずに済んだのも、彼女がいてくれたからだ。

 助けてと、言えたからだ。


 だがその数日後、母兎は子育てをしなくなり、結局仔兎は衰弱死してしまった。担任からの説明は「兎の子育てにはこういうこともある」の一言だけだった。原因は分かりきっていたが、他の先生や用務員さんなどと話して、子供たちには詳細は伏せると決めたのだろう。

 その時にはもう、時間の巻き戻しはとうに終わっていた。再び親兎だけとなった兎小屋の前で何時間蹲っても、頭痛も吐き気も起きなかった。

 だから、僕は運命という言葉が嫌いだ。


 それでも、彼女が僕にとって恩人であることは、大袈裟でなく事実だった。

 そのことが、こんな時になって身に沁みる。

 独りでは、目の前にこんなに人がいても、助けてのたった四文字が言えないのだから。


(でも、言えなければ……)


 僕だけの力では、彼女を救えない。彼女を助けても、他の誰かが犠牲になる。このまま言えずにいれば、弱い僕はきっと諦めてしまう。

 それでは、ダメなのだ。


「……たす、けて……」


 僕は、もう一度勇気を振り絞って言った。今度は、声になった。でもか細い声はあまりに弱々しくて掠れて震えていて、とてつもない不安に襲われた。

 誰も振り向いてくれなかったら。誰かが振り向いてくれたとして、次に何を言えば。何かを言っても、誰も信じてくれなかったら。デタラメだと、悪意ある目を向けられたら。

 たらればの恐怖は、意を決した後でもやはり僕の心臓をぎゅっと引き絞った。それでも、僕は言うと決めたのだ。


「……お願い」


 蹲っていた膝を立て、もう一度口を開く。


「誰か」


 ぐわりと、強烈な吐き気と頭痛が僕を襲う。

 それでも。それでも。


「た――」


 あぁ、意識が、ブラックアウトする。


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