Case.10 僕の場合④ ―終わらぬ繰り返し―

 それから、僕は何度も同じ時間をやり直した。彼女を助けるために。

 けれど何度やり直しても、彼女を本当の意味で救うことは出来なかった。


 始まりの数回は、とにかく彼女を引き留めることに注力した。彼女が次の言葉を言うのを強引に遮ったこともあれば、続きは一緒に帰りながら聞くと言ったこともあった。

 けれどどんな方法を取っても、彼女は誤解して走って行ってしまった。井上が先に茶々を入れることもあった。

 彼女を引き留めておけないと考えた後には、彼女が去った後、井上に柿原の携帯番号を聞き出して彼女に危険を知らせるように頼もうとしたこともあった。けれど授業をエスケープしている柿原が、クラスメイトからの連絡に出るはずもなかった。

 だから結局、必死で走るしかなかった。


 不幸中の幸いというか、時間が巻き戻れば体力も走る前に戻っている。肉体的な疲労は残っていなかった。だが何度も全力疾走を繰り返したことを記憶している脳には、拭いようのない疲労が蓄積し続けていた。

 時には、足が震えて、走り出せない時もあった。走り出したつもりが倒れ込んで、嘔吐して、そのまま気絶したこともある。

 サイレンの音が遠く霞んで聞こえる度に、心が挫けそうになった。まるで届かない未来に、諦めてしまいそうになる時も、あった。

 けれど諦めてしまえば、彼女の死はそのままになってしまう。

 それだけは、決してしてはならない。


(でも……)


 ただ彼女に追いつくだけでは意味がないことは、僕はもう何度も思い知っていた。

 赤い車か、白い車が事故を起こす寸前に彼女を引き留められても、代わりに縁石を歩いていた小学生が事故に巻き込まれるのだ。一人の時もあれば、二人や、三人の時もあった。

 特に赤い車は、ブレーキをかけなかったのか、小学生を三人ともほぼ即死させることもあった。もっと酷いのは、頭から血を流しながら、長く苦しむことだ。事故を免れた他の子供たちは、その声に耳を塞ぎ、あるいは小便を漏らし、へたり込んで赤子のように泣き続けていた。

 僕はそれを、彼女の腕を掴んだまま、なす術もなく眺めた。彼女を守るために――自分の願いと良心のために、自分よりも幼い子供たちを犠牲にしたというその事実を、ただ。

 そしてその時には、彼女は決まってこう言うのだ。


「……さいてい」


 そして僕の頬を叩く。最低だ、ともう一度繰り返して。

 車が事故を起こす前に僕に引き留められた彼女は、知らないはずのに。本当は自分がかれるはずだったということは。


(覚えてる……? わけ、ない)


 彼女は知らない。知っていたら、走るはずがない。

 どちらにしたって、結局僕は諦められない。

 何度も、何度でも、彼女に追いついて、彼女を守るために。彼女を守るために犠牲になる命がなくなるまで。

 でもそれは、その回数の分だけ、彼女か、彼女の代わりに犠牲になる子供の死を目撃するということで。


(……諦めない)


 何度自分にそう言い聞かせようとも、心と意志が直結していないことは、僕自身が十二分に理解していた。


(つらい……)


 僕が時間を巻き戻したいと思ってもこの現象が起こせるわけではないし、まだやれると思っていても時間が進んでしまうことも、何度もあった。


(諦めない)


 この現象は、僕自身にもどうにもならない心の奥の奥にある感情に反応するようだから。


(つらい)


 その感情が決意の中にきざす度に、僕は戦慄するのだ。


(諦めたく、ないのに……)


 自分の心の弱さに。浅ましくて、すぐ楽な方に逃げようとする、意志の弱さに。

 辛くて、心が折れてしまいそうだ。


(……こんな時、だったな)


 四年生の時に起こった巻き戻しでも、僕は行き詰って、独り苦しんでいた。

 自分だけの力ではどうにもならなくて、でもこんなことは誰にも言えなくて、小学生の語彙では言い換えて相談することも出来なくて。

 そんな時に、僕の異変に気付いて声をかけてくれたのが、彼女だった。




       ◆




「何してるの?」


 七月上旬だというのに肌寒い夕方、突然そう声をかけられた。

 その日は、明日には台風が直撃するだろうという予報を裏付けるような空模様だった。でも僕は空を見上げることもなく、校庭の隅にある兎小屋の前で蹲っていた。

 今週は仔兎が六匹も生まれたばかりで、係も学年も関係なく、休み時間になる度に生徒たちが小屋の前に群がっていた。今はそのピークも過ぎ、下校時刻も過ぎて他に生徒の姿もほとんどないが、僕は四年生で、兎の飼育係で、何もおかしいことはなかったはずだった。

 傍から見れば。


(どうしよう……助けられない……)


 けれど僕は、もう何度もその時間をやり直していた。

 最初は、何も出来ずに朝を迎えた。

 朝の餌やりに行くと、藁を敷き詰めた兎の寝床が水浸しになっていて、その中で仔兎が冷たく伸び切っていたのだ。驚いて先生に報告に行くと、台風のせいで雨水が浸水して、避難出来なかった仔兎が濡れて死んでしまったのだろうということだった。

 兎は雨に弱いということを、僕はその時初めて知った。

 昨日の掃除当番は僕だった。仔兎のために、小屋の中の日陰に藁をいっぱい寄せて、完璧にしたと思ったのに。


(こんな程度じゃダメだったんだ)


 台風が来るということは、母親からも言われて知っていた。けど僕は、台風といえば暴風警報が出て、休校にならないかなということくらいしか考えていなかった。兎を避難させるなど、思いつきもしなかった。


(どう……どうしよう……)


 職員室を出て、兎小屋に向かいながら、脳裏にはずっと死んだ仔兎の映像が張り付いていた。


(ぼくの、せいだ……)


 次には恐ろしい考えで頭が埋まり、目の前が暗くなった。

 僕はペットを飼ったこともなければ、学校での飼育係も初めてで、当然『死』というものに触れるのもまた初めてのことだった。

 しかもその原因が自分にあるとなれば、恐ろしさで息が苦しくなるのも致し方のないことだと言えた。

 けれど息苦しさは次第に頭の奥にも響き出し、兎小屋に戻る前に堪えきれず蹲った。そして次に目を開けると――まだ遠いはずの兎小屋が、すぐ眼前にあった。


(なんで……?)


 この頃にはまだ時間が巻き戻っているという確固たる自覚がなく、どこかで聞いた既視感デジャヴュとか白昼夢とはこのことか、くらいに考えていた。

 実際、時間が巻き戻ってしまえば、不思議なもので、それまで経験したことは一瞬のうちに過ぎ去ったような感覚に置き換わってしまう。そして同じ時間をなぞるように繰り返すうちに、前回の時間が本当に過ごしたものなのか分からなくなるのだった。


(また……ぼうっとしてた、のかな)


 こうなってすぐの時を家族などに見咎められると、いつもぼーっとして、と怒られるのだ。僕は慌てて周りを見渡して、それからまずどうにか現状を理解することから始めるのが常だった。


(仔兎……まだ生きてる)


 空は今にも雨が降りそうな曇天で、雲は夕日を映したオレンジ色。校舎につけられた丸時計の針は、午後四時半を少し過ぎた頃。

 普段なら部活動を行う生徒がまだいる時間だが、台風に備えて、今日は早めに帰るようにとホームルームで言われたこともあり、校庭は閑散としている。


(どうしよう……と、とにかく、雨が浸からないように、高くしなきゃ)


 それから、僕は仔兎を守るために奔走した。

 返したばかりの兎小屋の鍵を再び借りに行き、掃除道具を引っ張り出し、小屋の中を改造した。寝床になっている小さな箱の上に藁を敷き詰め、仔兎たちを順に移し、周りにあるだけの塵取りや板で囲いを作った。


(これで、大丈夫、かな……?)


 自信はなかったけど、僕に出来るのはこんなことくらいだった。後ろ髪を引かれる思いながら、僕は長くなった影を踏むように下校した。

 そして翌朝。


(……だめ、だった)


 囲いのつもりで立てた塵取りや板は強風に飛ばされたらしく、小屋の隅に転がっていた。守られるはずだった藁はほとんど残っておらず、その上に安らかに眠っているはずの仔兎もまた、床に転がっていた。明らかに雨水が浸水した床の上に、伸び切るようにして。

 そこに命がないのは明白だった。


(そんな……)


 そこからは、試行錯誤の繰り返しだった。

 三度目は呆然としている間に頭痛が起きて、前回と大して変わりのない対策しか出来なかった。

 次は、仔兎を確認するなり、担任のところに走った。報告したあとで、原因をもう一度よく聞き、対策は何が良いかを聞いた。

 仔兎が死んだ後では何をしても無意味だろうと訝しがられたが、構わず食い下がった。

 まず兎小屋の三方は二重の金網で囲ってあるだけだから、雨水が入ってこないように、下部一メートルを板などで囲う必要があると説明された。だがこれには材料や道具がいるし、僕一人の力ではまず完成させることが出来ない。そして、事後だと思っている教師には、急ぐ理由がない。

 今すぐ出来る対策は何かないかと聞けば、やはり巣箱を高い位置に上げるか、その周りをビニールシートなどで囲うかと言われた。あと、地面に穴を掘っているなら、それを埋めることも大事だと言われた。

 僕は急いで職員室を出て、兎小屋に走った。途中で躓くように転んで、気付けば夕方に戻っていた。


 顔をしかめて頭痛をやり過ごし、まず兎小屋の中にある穴を塞いで回った。小屋の外にまでは掘って出られないようになっているが、小屋の中は兎のストレス対策とかで、ちょこちょこ穴が開いたままになっている。

 それをスコップで平らにし、藁を敷いて隠した。小屋の床全面を埋められるだけの簀子があればいいが、現状では半分もない。

 雨が入ってくれば親兎たちも逃げるだろうと見込んで、僕は巣箱の下の簀子を三段重ねにすることにした。

 でも、これもダメだった。


 三段重ねにした簀子を少しずつずらして、階段状にしたつもりだったけれど、親兎が飛び乗った際にバランスが崩れたのか、水浸しの床の上に、崩れた簀子と巣箱がひっくり返っていた。

 僕は、目を背けて泣いた。

 でも、その次はもっと酷かった。


 今度はひっくり返っても仔兎が雨に濡れないよう、家からスチール製の菓子の空き箱を持ってきた。

 箱を巣箱の上に設置し、その中に藁を敷き詰め、藁ごと六匹の仔兎を移した。蓋は、迷った末に少しだけずらした。完全に密閉して、窒息してしまったらと思うと、怖くて閉め切れなかったのだ。

 それが、惨事を招いた。


 翌朝、菓子の空き箱は、置いたままの場所にあった。だが蓋は外されていた。風で吹き飛ばされたのかと恐る恐る覗き込めば、中には千切れた肉片と血が散らばっていた。


「な――」


 僕は、それ以上声が出なかった。

 肉片は、どれも小さくて、全体的に産毛が見えた。そこから続く血は箱の外へと引きずったような掠れた跡もある。

 最初に過ったのは、野良犬か野良猫が小屋に入って、仔兎を食べてしまったのではないか、ということだった。

 だが回らない頭で周囲を見渡しても、金網に穴が開いた様子もなければ、地面を掘って入ったということもない。勿論、僕が開けるまで、小屋の鍵はきちんと閉められていた。

 けれどそれ以上は、何も考えられなかった。


(そんな……まさか……)


 次に脳裏に蘇ったのは、仔兎が生まれた時に用務員のおじさんが注意した言葉だった。


『兎は、生まれてしばらくは無闇に触らないことが大事です。もし人間が手を出すと、母兎が子育てを辞めたり、仔兎を食べてしまうこともあります。皆さん、先生が良いと言うまで、小屋の外から、静かに見るだけにしましょうね』


 兎の飼育係は、四年生の各クラスが一学期ごとに担当すると決まっているが、その他の細々した世話や引継ぎは、用務員のおじさんが補佐してくれていた。分からないことは担任に聞くが、その担任もまた用務員に聞くのだとは、みんな知っていた。

 だから、まだ産毛もきちんと生え揃わないうちは掃除は控え、餌やりと水替えだけをするようにと言われていた。


(ぼくが、触ったから……?)


 答えは、聞けなかった。

 職員室に戻る前に時間が巻き戻ったからでもあるし、そもそも足が動かなかった。景色が朝から夕方に戻って、遠く下校する生徒たちの声が響いてきても、まるで動けなかった。


(助け、られない……)


 この頃にはもう、時間が巻き戻っていることに疑いはなかった。そしてこのまま次の朝を迎えれば、時間は正しく進み始めただろう。

 つまり、僕はもう完全に、諦め始めていた。

 声をかけられたのは、そんな時だった。


「どうして泣きそうなの?」


 不思議そうな声に、僕はゆっくりと振り返る。僕と背丈の変わらない少女が、夕日を背にして立っていた。


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