Case.9 僕の場合③ ―三度目―
頭痛と吐き気を堪えて目を開けると、目の前に彼女がいた。
「それで……その、ずっと聞きたいことがあったの」
おずおずと、彼女が上目遣いに切り出す。そこに、黄昏迫る空もなければ、横転した赤い車もない。耳の奥にはあのクラクション音がいつまでも消えずに張り付いているような気がしたが、ただの残響だ。僕にしか聞こえない、まだ僕しか知らない音。
だから、次に続いた言葉が終わるよりも先に、手が動いていた。
「あの時、君が、何を考えて――」
「良かった……!」
彼女の両手を掴んで、胸の前に引き寄せる。
(温かい)
どくどくと、僕の手の中で、彼女の細く滑らかな手が脈打っている。びくりと動く所作にすら、僕は涙が出そうだった。
(生きてる……ッ)
その当たり前のことが信じられなくて、目を閉じれば数分前の惨劇が蘇って、呼吸さえ苦しかった。
だから、彼女がどんな顔をしているか、気付く余裕もなかった。
「っ!?」
バッと、一拍遅れて彼女が僕の手を振り払う。びっくりして見上げれば、取り戻した両手を自分の胸に抱きしめた彼女が、目を見開いて僕を凝視していた。
「何で……」
震える声と瞳が、戸惑う僕と含み笑いする井上とを一度だけ見比べて、一転、失望に変わる。
「……君は、違うと思ってたのに」
「え……?」
けれどその眼差しも言葉の意味も僕には分からなくて、知らず彼女に手を伸ばしていた。
けれど今度は、無機質な仕草で避けられた。
冷たい目が、蔑むように僕を見る。
「馬鹿にしないで」
「っ?」
そして、待ってと声を上げる間もなく踵を返して走り去ってしまった。
「な、何で……」
「お前、がっつき過ぎだよ」
状況が呑み込めず戸惑う僕に、井上が失笑しながら声をかける。だがそう言われても、まだ僕は何のことか理解できていなかった。
「何が……何のことだ?」
「いくら呼び出されて舞い上がったって、相手が告白し終わるまでは流石に待たないと」
「は? 告白?……あ」
奇妙な慰めに訝しんですぐ、前回の井上の説明を思い出す。
(そう言えばこいつ、そういう勘違いしてここにいたんだっけ)
だが今は、そんな誤解に構っている時間はない。
僕は井上への言い訳もせずに彼女の後を追いかけた。
中学校を飛び出して、下校中の小学生を追い越し、赤い車に乗り込もうとするところの男も過ぎ――。
僕は慌てて足を止めた。
「今の……っ?」
走り過ぎた視界に過った赤い車に、見覚えがある気がした。赤いセダン。
「まさか……」
あの車だろうか。だが二度も見ている車なのに、セダンタイプという以外、僕は車種どころかメーカーすら覚えていなかった。
それでも、夕日に不気味に照り返るその赤色は、凝視するほどに同じに見えた。
(ど、どうしよう……)
この車が、十数分後に彼女をひき殺す車だという確証はない。だけどもしそうならば、この車をここで数分でも足止めすれば、彼女に危険が及ぶことはなくなるのではないか。
(でも、どうやって……)
あなたの車は交通事故を起こすかもしれないから、今日は車を使わないでください、と説明するのか?
だがそんなことを急に言われて、信じる者がいるだろうか。僕なら詐欺師か、宗教勧誘か、不審者だと疑う。
(……でも、言わなきゃ止められない)
理由とか不審とか体裁とか、色々なことが頭にはあったけど、ここで動かなければあの車は走り出してしまう。ふらふらと、彼女のところまで。
「……あの!」
僕は意を決して踏み出した。
けれど、反応はなかった。男はドアに手をかけた姿勢のまま、独りぶつぶつと何かを喋り続けている。
(何を言ってるんだ……?)
僕は、警戒しながら男の声が聞き取れる位置まで歩み寄った。
「――独りじゃ、ないなら……」
ドアの窓ガラスに映った自分の顔を凝視しながら、男はそんなことを言っていた。
「怖い……怖くない……みんな、みんな一緒なら……」
ぶつぶつと、まるで自分に言い聞かせるように。
けれど僕には、当然ながら何のことかさっぱり分からなかった。
こんな夕方に車で向かうなら、仕事というでもないだろう。第一、そんな思い詰めた顔ですることなど、僕には思いもつかない。
(それでも行かなきゃいけないから、あんな運転をしたのか?)
心配で運転を誤るくらいなら、しなければいいのに。あるいは、酒でも飲んでいるのだろうか。もしそうなら、止めるには十分な理由だ。
「あの!」
僕はほとんど叫ぶようにして男の腕に手をかけた。それでやっと、男は振り向いた。
「っ……、……!」
そして背後に立っていた僕を見た瞬間、悪魔にでも睨まれたかのように後ずさった。目を見開き、口をぱくぱくと動かし、けれどそこからはどんな言葉も出てこない。
お前は誰だとも、突然何だとも、勝手に敷地に入るなとも。
ただその顔からは、驚きや怒りというよりも、恐怖に近いものを感じ取れた。でもまさか、四十歳近くにも見える大の男が中学生の僕を怖がるなんて、あるわけがない。
僕は一瞬の混乱を呑み込んで、言葉を続けた。
「あの……ふ、ふらふらしてますけど、お酒とか……飲んでるんじゃないですか?」
「……は?」
男がやっと言葉を発した。見開いた目はそのままだが、身長差から見下ろされるその瞳は、大人相手という以上に理由の分からない怖さがあった。
思わず息を呑んだが、ここまで来て引くことはできない。僕は怖さを呑み込んで続けた。
「車の運転、は……その、危ないから――」
「は……放せっ」
更に一歩踏み込もうとした矢先、ついにその手を振り払われた。その手は明らかに震えていて、僕はついに戸惑いに申し訳なささえ覚えた。
「あの……」
「しないよ、運転なんか!」
それでも引き留めなければと声をかけた僕に、男が怯えるように逃げて叫ぶ。それはどう見ても熟慮した結果の答えというよりは防衛本能による脊髄反射だったが、それでも構わなかった。
「あ、ありがとうございます!」
車に背中を貼り付けて蒼褪める男に勢いよく頭を下げて、僕は再び走り出した。
(これで、彼女は!)
死なずに済む。助けられた。
自分がそれを成し遂げられたことに、早くも胸が躍った。
彼女を事故に遭わせる車が動かなければ、彼女は無事だ。あとは彼女に追いついて、誤解を解けばいい。いや、解けなくてもいい。彼女が生きてさえいれば。
でも、それは無意味な希望だった。
「…………な、んで……」
商業ビルと駐車場を繋ぐ連絡橋の下、赤い車が事故を起こすはずだったその場所に、赤い車はなかった。
けれど彼女は倒れていた。裂傷だらけの顔に破れた服をまとって、自分の血溜まりに沈んで。
「何で……!?」
そのすぐ脇には、スピンしたのか、黒いタイヤ痕をつけた白い車が、フロントガラスを粉々にして路肩に止まっていた。クラクションが、いつまでも鳴り響いている。
どうして彼女を引き留めなかった、と。お前はどこで無駄なことをしていたんだ、と。
野次馬のあと、最後にやってきた僕を責めるように、いつまでも。
「何で……? あの車は止めたのに……何で……今度は、白い車……?」
状況への理解が追いつかず、頭の中に次々と浮かんでは弾ける疑問が口から垂れ流しになる。
それに答えたのは、少ない目撃者から広がったらしい野次馬たちの間の話し声だった。
「居眠り運転だって?」
「小学生が歩道の縁石を歩いてて、そこに車が近付いて……」
「女の子が、それを庇ったらしいよ。それで……」
サラリーマンやOL、主婦などが小声で話す中、遠く聞こえていたサイレンがどんどん近付いてくる。それに応えるように、犬の割れた鳴き声もどんどん大きくなる。
けど僕の頭の中に鳴り響いていたのは、たった一つの言葉だった。
(なんで……なんで……なんで……っ?)
彼女は事故に遭わないはずだったのに。赤い車は来なかったのに。これでもう、時間は先に進むはずだったのに。
「まただ……」
内から外から響く音に、ずきずきと頭が痛みだす。その間にも救急車とパトカーが次々に路肩に止まって、警察官が目撃者らしいサラリーマンに事情を聞いて。後ろからは、犬の散歩中らしい主婦が通り過ぎて。連絡橋の上の柿原は、もう姿が見えなくて。
「また、何も出来ない……」
今までにも何度も味わった無力感が、僕の頭を締め上げて、体を鉛のように重くする。また立っていられなくなって、いよいよ両膝を折る。
時間が巻き戻る理由や原因を分かっていなかった子供の頃は、この感覚がとにかく心細くて怖かった。
巻き戻るたびに何度も泣いて、震えて、それが何度も続いても変わらない時には、泣くことにも疲れて諦めることもあった。諦めると、時間がその先へと繋がるのだ。
でもその後は、長く自分の無力感に苛まれた。それでも、それは心に蓋をしてしまえば前に進めるものだった。
(……でも、これはダメだ)
諦めて進んでいいものではない。
(絶対に、助ける……!)
込み上げる吐き気とともに視界がブラックアウトする寸前、心に刻み付けるように言葉にする。
けれどそれは、とても難しいことだと、僕は知っていた。
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