Case.8 僕の場合② ―二度目―

 次に目を開けた時、僕の目の前には彼女がいた。


「それで……その、ずっと聞きたいことがあったの」


 薄暗かった視界は瞬き一つで明るい茜色に代わり、脳が状況に追いつかない。頭がぼうっとして、遠く耳鳴りがする気がする。

 だから、次に続いた言葉にもすぐに反応することが出来なかった。


「あの時、君が、何を考えていたのか」


「…………」


 いまだぼんやりとする僕とは反対に、彼女の眼差しが鋭く僕を射る。その覚悟を決めたような瞳に、僕はやっと戻ってきたのだと理解した。


(時間が、巻き戻ってる)


 記憶違いでも、デジャヴュでもない。慣れない子供の頃はこんな風に何度も同じ時間を過ごすことがあって、随分混乱して泣いたものだが、今はどうにか折り合いをつけている。


(理由も原因も、解決方法もよく分かってないけど)


 強く納得できないことが起こると、僕は一定の時間を何度でもやり直す。

 そしてその納得できないことを納得できるまでやり直すか、諦めると、時間がその先へと進みだす。

 その二つは、多分確かなことだ。

 けれどその二つとも、自分の意志で自由に決めることは出来ない。それを理解してから、ぼくは何事にもなるべく執着しないように心掛けてきた。

 その甲斐あってか、中学に入ってからは、一度も発現していなかったのに。


「……おい」


「!」


 二度目となる時間に思考が追いついていなかった僕に、井上が焦れたように声をかける。そこで、僕は我に返って彼女を見返した。

 けれどすぐに答えが出るはずもなく、僕は時間稼ぎをするようにオウム返しに尋ねていた。


「考えて、って……?」


 それがいけなかった。


「気持ちだろ? お前の気持ち」


 じれったいように、井上が勝手にその先を決めつけてしまった。けれど僕はそれに追いつくことができず、間の抜けた声を上げていた。


「は?」


「ちがっ、そんなんじゃ……!」


 先に理解したのは、彼女の方だった。


「え?」


 視線を戻した僕に、顔を真っ赤にして否定する。けれどその先の言葉が続けられる前に、彼女は踵を返して走り出してしまった。


「あっ」


 一度目とは違う展開の速さに、僕は彼女を呼び止める声を上げることも出来なかった。

 走ってはダメだ。車にはねられるかもしれないんだ。

 そう言って呼び止めなければならないのに、突然笑い出した井上の言葉に気を取られて、追いかけられなかった。


「告白するつもりで呼び出しておいて、今さら何を誤魔化そうっていうんだろうな? マジウケる」


「……告白? 彼女が、僕に? 有り得ない……」


 僕の戸惑いに、井上が笑顔の上に不愉快さを滲ませて頷いた。


「だよなー。あんな陰キャ。告白しようって思えるのがもうスゴイよ。クラスでも浮きまくってるのに、身の丈も考えないでさ。いつまでも言い出さないから、折角手伝ってやろうとしたのに」


 僕に話しているのか独り言なのか、井上が弾丸のように次々と言葉を重ねる。その言い方も好きではなかったけれど、最後の嘆息はとてもではないけれど聞き捨てならなかった。


「あーあ。もうちょっとで面白いネタになったのになぁ」


「……おもしろい? まさか、そんなことのために、彼女にこんなことをさせたのか?」


「こんなことって?」


「彼女の行動を……振り絞った勇気を、嘲笑うために、だ」


 一度目とは違う怒りが、ふつふつと僕の中に満ちる。それを感じ取ったように、井上がスマホを操作しながら舌打ちした。


「人聞きが悪いなぁ。俺は助けてやっただけだ。お前のことが気になってるみたいだったからな。きっかけを作ってやることは、悪いことか?」


「それは……」


 悪い、とは言えなかった。でも、そこに悪意があるのなら、良いことでもないはずだ。


「でも、誰だって、自分の気持ちを他人にとやかく言われたくはないものだろ? 誰かの助けが欲しいと思ってても……、それはお前みたいな利己的な奴の言葉じゃない」


「じゃあ一生言わない方が良かったっていうのか? 言いたくても言えない奴だっているのに? 絶対後悔したと思うけどな」


「こう、かい……」


「みんな本当はきっかけが欲しいんだよ。自分じゃ動き出せないから。だから俺が背中を押してやったんだ!」


 井上が、まるで追い詰められた鼠のようにまくし立てる。でもそれはあながち間違いではないように思えて、僕はすぐには反論できなかった。ただ悪足掻きをするように、ぽつりと答える。


「……そういう考え、好きじゃない」


 でもそれは、少しも力のない言葉だった。だから、認めるようにして続けるしかなかった。


「でも、その言い分には、一理あるよ」


「…………」


 井上は、それ以上何も言わなかった。僕もまた、事実から目を背けるようにその場から逃げ出していた。


(今は、彼女を止めないと!)


 井上と口論している時間なんてない。彼女に追いついて、とにかくあの場所に行かないようにしなければ。

 僕は中学校を飛び出すと、ひたすらに走った。

 近くの小学校から吐き出される小学生を追い越し、赤い車に乗り込もうとするところの男も過ぎ、公園を横切って、犬の散歩中の主婦を追い越して。

 ベンチのある交差点が向こうに見える直線の道路で、やっと彼女の背中を捉えた。


「待って!」


 準備運動もなく全速力で走ってきたせいで、息が荒く上がっている。叫んだ声は汚く割れていたけれど、それでも僕はまた叫んだ。


「待って! 違うんだ!」


 行かないで。その先は危ないんだ。

 本当はそう言いたかったけど、彼女には何のことか分かるはずもない。今は、彼女を引き留める言葉が必要だ。

 けれど。


「ッ!?」


 ガラの悪そうな青年とすれ違った瞬間、世界が掻き混ざった。次には額と両手、膝に鋭い衝撃が刺す。

 転んだ――否、転ばされたのだと気付いたのは、歩道に手をついて後ろを振り返ってからだった。


「だ、誰?」


 知らない男が、僕を恐ろしい目で見下していた。まるで百年来の仇敵に出くわしたかのように、僕を睨んでいる。

 その下にある足は、普通に歩くだけなら絶対に出ない方向に突き出ている。つまり、僕の進行方向を妨げる位置に。


「なんで……」


 でも、僕には、意味が分からなかった。目の前の男のことなど、何も知らないからだ。この男に何か危害を加えた覚えもなければ、会ったこともないのだから。


「……ふん」


 男は、僕の戸惑いに鼻を鳴らすだけで、何も応えなかった。そのまま、無言で踵を返す。

 もしかして、不良が気に食わない奴に意味もなく突っかかったりする類の、ただの嫌がらせだろうか。


(何で、よりにもよってこんな時に……っ)


 理不尽に対する怒りが、腹の底から湧き上がる。だがその感情が何らかの形で発露する前に、視界の隅を赤い車が横切った。ふらふらと、蛇行するような危なっかしい運転。


(あの車……)


 どこかで……と考えた瞬間、時間が巻き戻る寸前に見た横転した車を思い出した。あれも赤色のセダンだった。


「まさか……!」


 嫌な符号に、僕は擦り剥いた痛みも忘れて駆け出した。


(あの車……あの車が彼女を……!)


 彼女が轢かれるとしたら、きっとあの車の運転のせいだ。あの事故現場に着く前に、彼女を止めなければ。


「待って!」


 目の前の交差点を曲がり、ベンチから立ち上がりかけていたサラリーマンの前も過ぎて、道の向こうに彼女の後ろ姿を捉える。丁度、下校途中らしい小学生の一団に混ざるところだった。


「どいて。広がらないで」


 ぶっきらぼうな言い方で、目の前の子供たちを乱雑に建物側に押しやる。その反動で、彼女の体が車道側に一歩二歩と踏み出した。

 そこに、赤い車が大きく車道を外れて歩道に突っ込んできた。


「ッダメだ!」


 叫ぶ、その目の前で、赤い車が彼女の矮躯を押し潰した。


「ッ!!」


 雷が落ちたような衝撃音が、ビルと駐車場の間に反響して、ぐわんぐわんと幾重にも鳴り響いた。その直後に、壊れたようなクラクションが鳴り放たれる。


 パ――――。


 恐れていたことが起きてしまった。彼女じゃなければいい。そう思っていたことが、目の前で、残酷なまでのリアルさで否定されてしまった。


「そんな……」


 声が震えて、それ以上言葉が出なかった。こうならないように、時間を巻き戻ってまで、必死に走ってきたのに。

 こんな現実を、自分の目で見るために戻ってきたわけでは、決してないのに。


「間に合わなかった……」


 ついには立っていられないほどに足が震えて、僕はその場にへたり込んだ。誰かが救急車を呼ぶ声が聞こえなくなるほど、頭痛が急激に酷くなる。

 足元から、指先から感覚が崩れるような不安定さが僕を襲う。頭蓋骨の内側でどくどくと血流が激しく脈打つ。続く吐き気は、どちらが原因だろうか。


(こんな、こと……)


 もう二度と見たくない。そう思う反面、もう一度戻れることに、僕は安堵もした。

 僕が諦めなければ、時間は何度でも巻き戻る。彼女が死ぬ現実を受け入れない限り、何度でも。

 涙と、朦朧とする意識で滲む視界の中、ビルと駐車場とを繋ぐ連絡橋の上に、見慣れたセーラー服を見た。


(柿原……?)


 やっぱり、彼女は見てたんだ。そう思考したのが、最後になった。


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