Case.7 僕の場合① ―始まり―

 彼女が走ってゆく。

 僕は追い付かなければならない。

 でも、一度目は追いかけられなかった。

 僕が、臆病者だから。

 だから、次からは死ぬ気で走った。

 追い付いた時に何を言うかなんて、考える余裕もないまま。




       ◆




 彼女とは、簡単に言えばただの同級生だ。

 小学校から一緒で、何度か同じクラスにもなった。でもその中でも記憶に残っているのは、やはり五年生の時のことだ。

 いつの間にか、彼女はクラスで孤立していた。そのことに、僕は少し前から気付いていたはずだ。けれど見えないふりをした。

 給食の時に誰とも喋らないことも、体育の授業で二人一組になる時に最後まで残っていることも、掃除の時に一人で黙々と最後まで残っていることも。

 その裏にイジメがあったかどうか、僕は知らない。知ろうともしなかったから。


 そしてそのまま、野外活動教室を迎えた。班分けでは当然のように余ったし、山中でのレクリエーション活動では意図的に他の班員から置いていかれた。

 ウォークラリーの最後のチェックポイントを過ぎ、あとは先生たちが待つゴールに向かうだけだった。距離は少しあったけれど下りだし、森に囲まれてはいたが一本道で、迷うはずはなかった。

 けれど彼女は、いくら待ってもゴール地点に現れなかった。残りの班が全て戻ってきても彼女を見たという証言がなくて、先生たちが青い顔をして探しに行く事態になった。


 結論から言えば、彼女はすぐに見つかった。はぐれた場所から動かないでいたからだ。

 先生たちは、叱るに叱れないで困っていた。

 迷ったりはぐれた場合は、その場から無闇に動かず、助けを待つこと。行動は常に班ごとに行い、他の班に混じったり不必要に話しかけたりしないこと。

 ウォークラリーが始まる前に受けた事前注意を、彼女は忠実に守っていただけだったからだ。それが余計に、クラスメイトの反感を買った。特に同じ班の子たちは、これみよがしに批難した。


『ちょっと歩けば戻ってこられるって分かってたくせに』

『いい子ぶって。絶対わざとでしょ』

『悲劇のヒロインぶってるんじゃないの』

『クラス中に迷惑かけて、サイアク』


 僕はそれを見ていたけれど、何も出来なかった。班の子たちの気持ちの方が、よく分かったから。

 でも一方で、彼女が嫌がらせのためにそんなことをするタイプではないことも分かっていた。彼女は昔から一人で行動する方で、今回も誰にも相談できず、困り果てた末に動けなくなってしまっただけだろう。その間、彼女はどれほど心細く不安な思いでいたか。僕も、他の誰も、思いやりはしなかった。

 その夜、彼女は先生に呼び出された。班の子たちも別に呼び出されたけど、結局彼女は今の班のまま野外活動を続けることになった。


 次の日からは、彼女は当然のように徹底的に無視された。班からも、班以外のクラスメイトからも。

 飯ごう炊さんではずっと野菜と皿を洗っていたし、ゲームでは存在しないもののように扱われたし、キャンプファイヤーではどさくさに紛れて何度も転ばされていた。

 見かねた僕は、ついに駆け寄って彼女に手を貸した。彼女とは一年生の時に席が隣だった縁で仲が良く、四年生の時には僕にとって大きな恩もあった。


「大丈夫?」


 だが、彼女はその手を取らなかった。すぐ傍らでくすくすと笑う女子たちにも目もくれず、黙って立ち上がり、砂をはたき、歩き出す。

 その横顔は、一寸前も一時間前も変わらず歩いていたというように無表情だったが、僕の前を歩き過ぎる刹那、確かに声が聞こえた。


「……死んじゃえばいいのに」


 ぼそりと、腹の底からの声だった。僕の知る、無邪気な少女の明るさなどどこにもない。

 それが自他のどちらに向けられた言葉かは分からなかったけれど、僕はその声を聞いた瞬間、全てを見透かされたような気がした。

 彼女を助けようとした行為は善意からに違いないが、僕が声をかけたのは一度目ではなかった。それは周囲の視線が気になったのもあるし、無意識のうちに全体の意見に同調していたからでもあると、嫌でも気付かされた。

 結局偽善だと、他の者と変わらないと突き付けられた思いだった。


 その後の僕は、焦燥感に駆られるように彼女に声をかけ続けた。

 野外教室から帰ってからも、平気な顔で挨拶し、会話を振り、班に誘い、友達という顔をした。他の女子と全く同じように。

 六年生でもそれは続き、中学に上がると完全に彼女へのイジメは消滅した。

 けれど彼女が周囲に愛想笑いを浮かべたり、同調したりするようになることはやはりなく、彼女は特定の友達といるか、一人でいるとの方が圧倒的に多かった。

 ただ、波風の立てない方法を学んだのだろうということだけが、遠くから見ていた僕に分かる数少ないことだった。


 そうして一年も二年もクラスが離れ、三年になってやっと一緒になっても、彼女と会話する機会はなかった。

 だから、彼女に呼び出された時は、本当にびっくりした。





「ずっと、君に伝えたいことがあって」


 人気のない校舎の片隅でそう切り出され、僕は身を固くした。けれどそれをおくびにも出さず、僕は平然を装って問い返した。


「どうしたの、突然?」


「ご、五年生の時のことだけど……」


「あぁ……。えっと、何かあった?」


「あの時のこと、ずっとお礼を言えていなかったから」


 この時、僕がどれくらい動揺したか、彼女にも井上にも多分分からなかっただろう。


「お礼なんて、言われるほどのこと、してないよ」


「……ううん。あの時も、あの後も……君が声をかけてくれて、少し……嬉しかった」


 どうにか絞り出した返事に、彼女がかすかにはにかみながら頷く。その表情に負の感情がないように思えて、僕は少しだけ気を抜いてしまった。


「それで……その、ずっと聞きたいことがあったの」


 だから、そう続いた言葉に心臓が止まりそうなほど驚いた。


「あの時、君が、何を考えていたのか」


「!」


 向けられた眼差しの鋭さに、どきり、と胸が高鳴る。声が掠れた。


「考えて、って……?」


 問いながらも、きっと見透かされていたのだという確信が、既に心にはあった。僕が善意と偽善で蓋をしたはずの本音に。僕が後ろめたさから動いていたのだと、彼女は最初から気付いていたのだと。

 しかし返されたのは、質問の答えとは違う言葉だった。


「四年生の時、台風が来て、兎小屋に被害が出たことがあったの、覚えてる? あの時に、私が言ったこと」


「……うん」


 突然の問いだったが、僕は躊躇いながらも頷いた。

 四年生の時、僕は学校で飼育している兎小屋の係になった。間が悪いことに、兎が出産した時期に台風が来て、結果的に仔兎は全滅するということがあった。

 飼育係として責任を感じ落ち込んでいた僕に、心から慰めの言葉をかけてくれたのは、彼女だけだった。


『君は独りで何もかも背負い込み過ぎだよ』


 あの時、僕は善いことや正しいことが必ずしも皆に受け入れられるとは限らないと思い知って、泣いていた。

 面倒臭いことや苦しいことは誰だって避けるし、見たくないものや汚いものには蓋をする。それは大人でも子供でも変わらないのだと。


『たった一言、言えば良かったのに』


 そう言ってくれた彼女の言葉に、僕は少なからず救われた。動き出せなくても、嬉しかったのだ。


「覚えてるよ」


 僕は複雑な気持ちでそう続けた。けれど対する彼女の表情は、見る間に曇った。


「……あの時は、偉そうに君にあんなこと言ったくせに……。私は、言えなかった」


「!」


「口先だけだった私のこと、君はどんな風に見ていたんだろうって、思って……」


「そ、そんなことないよ! 口先だけなんて」


 尻すぼみに弱くなっていく彼女の声に被せるように、僕はそう口走っていた。


「君があの時声をかけてくれて、僕は本当に嬉しかったんだ。それに……」


 あの時、彼女は孤立無援だった。その辛さを知っている僕でさえ、声をかけることを躊躇った。


「周りを信じられなくなっている時に声を上げることは、難しいことだって、分かるから」


 彼女は強いひとだと、勝手に思っていた。言いたいことは躊躇わず、曲がったことには混ざらず、大人相手でも堂々としていた。

 だから教室で孤立していた彼女に気付いても、一人なんて平気なのだろうと、勝手に納得していた。彼女の本心など、知ろうともせず。


(でも、そうじゃなかった)


 ただ、怖くて言えなかっただけなのだ。彼女も、僕と同じように。

 胸中でずっとわだかまっていたことが、やっと互いに言葉にして確かめ合える。その後にはきっと、彼女とまた昔のように接することが出来ると、思った矢先だった。


「でも、そう仕向けたのはお前だろ?」


 隣で不満そうにやり取りを見ていた井上が、怪訝そうな顔で口を挟んだ。

 僕は、すぐには意味が理解できず、間の抜けた声を上げていた。


「は……?」


 井上が、理解できないものを見る目で僕を見ていた。


「クラスの中で起こるイジメなんて、被害者以外全員共犯だろ? 実行犯じゃなくても、見て見ぬふりしてた奴も同罪だろ」


「!? ちが……ッ」


 上げる声はけれど、彼女の息を呑む音に負ける程だった。


「ッ」


 目が合った途端、彼女が踵を返して駆け出す。


「待って――!」


 僕の口はそう動いたくせに、両の足はその場に縫い付けられたかのように動かなかった。

 違うんだ。

 追いかけて、そう言わなければいけないのに、喉は貼りついたように動かない。でもその理由なんて、考えるまでもなく分かっていた。

 違わないからだ。

 僕は彼女を仲間外れにしたことも、陰口を言ったこともないけれど、彼女を守ることもしなかった。動いたのも、自分の良心が痛んでからだった。

 共犯者という言葉を、心の底から否定できる力は、僕にはなかった。


「あーあ。逃げちまった」


 夕日が沈み、残照だけが視界を染める中、傍観していた井上が口を開く。


「期待してたのと全然違ったな」


「……期待?」


 彼女が消えた場所を未練がましく見ていた僕は、睨む気力もなくその言葉を繰り返した。

 反対側に歩き出すところだった井上が、肩越しに振り返って皮肉げに笑う。


「面白いかもと思ったのに、やっぱ陰キャは陰キャだな」


「……面白い、って」


 不謹慎な単語に、僕は堪らず顔をしかめた。

 井上はクラスの中でも元気が有り余っている方で、いつも楽しい話題の中心にいるという印象が強い。それが悪いことだとは思わないけれど、彼女に協力するというのは内心意外に感じていた。

 その理由が案の定親切心でなくて、僕は思いの外残念に思った。


「彼女を、助けたかったんじゃないのか」


「はあ? そんなわけないじゃん」


 僕の呟きの何が気に障ったのか、その声は突然険悪になった。そっぽを向いていた体までわざわざ引き戻して、僕にガンを飛ばす。


「何で俺があいつを助けるの? それって俺になんか得ある? ないよな? 意味分かんねぇ」


 まくし立てるだけまくし立てて、井上が再び踵を返す。今度はそのまま去っていく背中に、僕はいじけるように呟いていた。


「助けたいって気持ちに、理由とか得なんて、要らないよ」


「…………」


 その一瞬だけ、井上の足がぴくりと止まる。けれど、今度は振り返らなかった。


「……要るに決まってんだろ」


 力ない反駁だけを黄昏に残して、歩き去る。

 ついに独りになった僕は、何も出来ないままその場を去るしかなかった。遠く響く救急車のサイレンの音を、煩わしく思いながら。





 彼女を追いかけて引き留めなかったことを後悔したのは、帰り道でのことだった。

 その時、僕の頭の中では、彼女に何と言えば良かったのだろうかとか、次に会ったら何と言おうかとか、いじましい自己保身ばかりがぐるぐると巡っていた。

 こんな気持ちのまま卒業を迎えては、ずっとしこりのように心残りになる。だからと言って、五年生の時のことを全面的に無関係だと言い張ることは、僕には出来ない。


 とぼとぼと、タイル舗装された歩道だけを見ながら歩いていた。誰とすれ違ったかも記憶にないまま、気付けば人だかりに出くわした。

 人混みの向こうでは、サイレン音を止めたパトカーと、横転した赤い車が路肩にあった。どうやら、縁石に乗り上げるか何かしたらしい。

 ただの自損事故かと思ったが、周囲に集まった野次馬は、事故がとか、女子中学生らしいとか、興奮気味に話していた。


(交通事故? 誰が……)


 普段なら、僕もいけないと知りながら野次馬に混ざっていただろう。けれど今はそういう気分ではなかった。

 だというのに、何故か足が重かった。胸が騒いで、誰か話を聞ける人がいないかと視線を巡らせる。その時、歩道の向こうをふらふらと歩くセーラー服を見付けた。

 彼女だ、と僕は思った。

 走っていってしまった彼女も、交通事故に気を取られて、さっきまでここにいたのだ。


「待って!」


 僕はやっと生き返ったように走り出した。黄昏に染まる道を走って走って、セーラー服の袖を掴む。


「待って!」


「ッ!?」


 黒髪を翻して、その子が振り返る。けれどそれは、彼女じゃなかった。


「……柿原?」


「あんた……」


 驚いた顔をして僕を振り返ったのは、今日は体調不良で欠席していたはずの柿原だった。


「何で、ここに……」


「っ、別に、何でもいいでしょ」


 僕の疑問に、柿原が腕を取り返して拒絶する。学校を休んだ奴が制服でぶらぶらしてるなど明らかに不自然だったけど、確かにどうでもいいことではあった。


(優等生でも、裏では何してるか分からないってやつか)


 柿原はクラスでもそつなく立ち回って、皆から頼られるタイプだが、僕は苦手であまり話したことはない。


(やっぱり、もう帰ったよな)


 自分を納得させて再び歩き出そうとするけれど、嫌な胸騒ぎは少しも収まらなかった。もしかしたらと、もう一度柿原を引き留める。


「ねぇ! ここを、誰か通らなかった? クラスの……」


「!」


 全部言い終わる前に、柿原が目を見開いて振り返った。その目はよく見れば、泣いた後のような、泣く寸前のような赤みがあった。

 何故、と考えるよりも早く、柿原が背を向ける。


「……知らない」


 そして一言そう零すと、逃げるように駆け去った。





 この時は、それだけだった。何の不自然さも、疑問もない。そのはずなのに、僕は振り返ってしまった。

 現場検証と交通整理を続ける警察官と、事情説明を受ける運転手と思しき中年男性。そのすぐそばのアスファルトには、じわりと滲んだ赤黒い染み。

 そして、はねられたのは女子中学生という話。


(……違う)


 そんなはずはない。彼女じゃない。

 そう思うのに、苦しいほど心臓の鼓動が早くなる。頭が割れるように痛くなって、その場に立っていられない程だった。

 頭の片隅に浮かんだ可能性が怖くて、必死に否定する。けれどこの全身を襲う感覚は、恐怖だけからじゃないと、僕は既に知っていた。足元から崩れ去るようなこの不安定な感覚には、覚えがある。


(そんな……まさか……)


 どくどくと強く脈打つ血流に、とうとう膝をつく。その間も視界はぐらぐらと揺れ、強制的に意識が霞む。


(戻る、のか?)


 ここ数年は、ずっと起きなかったのに。


(何で、こんな時に……)


 自然消滅した現象だと思っていたのに、何故今さらになってと、きつく目を瞑る。その意識が完全に途切れる寸前に、懐かしい彼女の声が聞こえた気がした。


『嫌だなって思ったからじゃない?』


 五年前、塞ぎ切っていた僕を救ってくれた、彼女の屈託のない声。


(……あぁ、そうか)


 嫌なんだ。こんな結末、受け入れられるはずもない。

 だから、戻るんだ――

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