Case.6 萩 優太の場合
誰も走らない。
誰も追いかけない。
誰もいない。
この世界には、自分を見ている奴なんて誰もいない。
◆
死のう、と思った。
そんなことは毎日思うし、何なら一日中考えることもしょっちゅうだ。
使い終わったティッシュはゴミ箱に捨てるのが普通だし、買った商品が不良品なら、捨てるどころか怒り狂って返品だ。
でも人間には返品先なんかない。
だから、不良品と分かったなら捨てるしかない。役に立たない、仕事もしていない、家どころか自室からも出られない人間は。怒り狂った誰かに、お前は不良品だと怒鳴られる前に。
(……馬鹿らしい。親とさえろくに喋ってないくせに)
そもそもこの部屋からも、もう十年以上滅多に出ないのだ。役に立つという以前の話だ。
(億劫だな……。何もかも億劫だ)
二十代前半は、それでも毎日会社に行って、人並み以下でも仕事をしていた。仕事が遅くても、人付き合いが苦手でも、愛想笑いが下手でも、毎日出社していた。
それが出来なくなったのは、多分大した理由じゃない。少なくとも、自分以外の人間にとっては。
だが自分にとっては、他人事だと思っていた引きこもりになるのに十分すぎる理由だった。
『なぁ、兄ちゃん。ちょっと金貸してくれよ』
その日も残業で遅くなって、真っ暗な夜の道をとぼとぼと歩いていた。
『毎日お疲れじゃぁん? 財布重いでしょ。軽くしてあげるよ』
気付けば、数人の若者に囲まれていた。夜闇だからという以上に、ずっと俯いて歩いていたせいだ。顔を上げた時には、持っていた鞄を奪われていた。
口に出来た言葉と言えば、あの、と、お願いします、だけ。
数分もしないうちに何度か殴られ、金を巻き上げられ、道端に捨てられた。就職祝いに貰った腕時計も、ついでだと奪われた。
あんな全力で腹を殴られたことはなかったから、やっと食べた軽食が喉の奥から戻ってきそうだった。殴られていないはずの膝が震え、若者たちがいなくなったあとも恐怖が去らなくて、起き上がれなかった。
その間の惨めさと虚しさといったらない。
十一時も過ぎようかという時間だったけれど、反対の道の端を通っていく靴を幾つか見た。多分、殴られている間も、一人は通ったはずだ。でも誰も助けようとはしなかったし、声どころか、通報もしなかっただろう。
自分は、それだけの価値しかなかったのだと、痛いほど身に染みた。笑えたのは少しで、あとはずっと声もなく泣いた。アスファルトだけが涙を受け止めていた。
あの時は全世界を恨んだが、後から考えれば、誰もが自分が標的になるのを恐れていただけなのかもしれない。自分があんな目に遭ったことに、理由などないように。
だから、仕方のないことなのだ。あの時憐れな被害者を遠巻きにして素通りした奴らは皆、人間の防衛本能に従っただけなのだ。悪意があったわけでも、ましてや自分に非があったわけでもない。
全ては仕方のないことだった。
言葉ではそう結論付けられても、頭も心も少しも追いついてはくれなかった。仕事を一日休むはずが次の日も休み、更に次の日も、玄関扉を開けようとしたところで固まってしまった。
(この向こうに、誰かいたら……)
自分の家の前に、あの若者たちがいるはずはない。襲われたのは家と会社の中間辺りだし、近所の家々には年寄りが多い。そう順序立てて思考しても扉を開けられなかったのは、人が怖くなったからだ。
目に映る全員が、自分を助ける価値のない人間だと見ているようで。何かあっても、誰もが自分を見捨てるのではないかと。そう考えだせば、会社の人間もまた同じように自分を見ているのだと思えて、とても会社に行くことは出来なかった。
それが自分の勝手な脅迫観念だとは、分かっている。分かっていても、否定する確たる材料がなくて、自分を説得できないのだ。
(何も、悪いことなんてしてないのに)
周囲からの視線が自分を責めているようで、怖くて顔を見られなかった。親からの視線さえも怖くて、部屋に閉じこもった。
一週間、二週間と時間は瞬く間に流れ、一か月が過ぎた頃には、診断書を出すか辞表を書くかどちらかだと上司から迫られた。診断書を出せば休職扱いになるが、病院に行くことがそもそも出来なかった。
二か月が経つ前に、辞表を郵送した。今ここで会社を辞めれば二度と社会復帰できなくなるという自覚はあったが、踏み込めなかった。
そして気付けば、十年が経っていた。
その間にしたことは、世の中が寝静まった夜明け前にコンビニに行って、酒と煙草とつまみを買いに行くこと、無料の就職情報誌を持ち帰ってはゴミ箱に捨てることくらいだ。
社会の役に立つどころか、家族のお荷物だ。
そしてそれは、二十九歳を過ぎた頃からありありと酷くなった。
『もう三十路だぞ』
『不良に絡まれた程度で何年も』
『明け方にこそこそ出かけるなど……まるでコソ泥だ』
父の心無い言葉には傷付いたが、母の弁護にもまた胸を抉られる思いだった。
『幾つになっても私たちの子供ですよ』
『怖い思いをしたんです。あの子は被害者ですよ?』
『外に出られるようになっただけでもいいじゃありませんか』
惨めで虚しい。責められることも、擁護されることも。ならばどうして欲しいのだと問えば答えがなくて、結局逃げるように引きこもるしかないのだ。
だがそれも、そろそろ限界かもしれないと感じていた。
父が定年を迎えたのだ。たまにパチンコに出かけたりもするが、ほとんどを家で過ごした。母はまだパートを続けていたから、日中は家に二人だけだ。顔を合わせることはないが、扉を隔てて苦情は何度も来た。
足音が煩いとか、鍛えるくらいなら外に出ろとか、食器は自分で洗えとか。荷物が届けば、何の荷物を頼んだのだとか、一体どれほど頼んだのだとか、欲しいものがあるなら自分で買いに行けとか。
(出来るならとっくにやってるよ!)
言い返せない鬱憤が、石を呑んだように日に日に腹の底に溜まっていく。苛立ちをネットに書き込んでも、筋トレに吐き出しても、酒を飲んでも煙草を吸っても、少しも晴れない。
そんな時に、ネットニュースの一つが目についた。通り魔の事件だ。車が、下校途中の小学生の列に突っ込んだというもの。犯人の動機は不明で、何の代わりにもならないのに、近所の人間の証言だけがつらつらと続いた。
『子供の頃はよく顔を合わせたけど、自分から挨拶するいい子でしたよ』
『優しい子でしたよ。近所の幼い子供たちともよく遊んでくれてましたし』
『学校では、大人しい方だったんじゃないですか? あぁ、頭は良かったと思いますよ』
そして最後には、何も知らないニュースキャスターがこう締めくくるのだ。
『優しかったはずの少年に、一体何があったのでしょうか?』
それはどう聞いても、悲劇的なきっかけがあるべきだと期待していた。そしてその裏側には、罪を犯す奴は相応に悪人であるべきだ、という無意識的な排他がある。或いは、頭のいい優しい良い子は、決して犯罪者などにはならないという無責任な楽観が。
それがどれ程自分みたいな人間を苦しめるか。
昔はいい子だったのにとか。挨拶はちゃんと出来る子でとか。成績も優秀でとか。
それは、罪を犯さない理由になるのか? 優しくていい子で頭が良ければ、嫌われないのか?
(そんなわけ、あるか)
どんなに良い奴でも、嫌われることはある。やり方を間違えれば嫌われる。属するコミュニティを間違えれば嫌われる。たった一言でも、嫌われる。
何が原因かとか、悲劇があったとか、そんな憶測に意味などない。
ただ、むしゃくしゃした。自分のことを非難されているわけでもないのに、ニュースを目にする度に根拠のない負い目と怒りが降り積もる。こんな時にこそ、正常性バイアスが働けばいいのに。
(嫌なものばかり目につく)
世の中の誰もネットの住人も、自分のことなんか知らないのに。目に入る全部が自分のことを言っているような気がして怖くなる。辞書でしか知らなかったルサンチマンが、胸の中にしっかりと根を張り出す。
(むしゃくしゃする)
簡単に言えば、それだけだった。
煙草を一箱吸い尽くしても、酒を飲んでも、ネットゲームで敵を片っ端から虐殺しても、むしゃくしゃは収まらない。
ついにはやることがなくなって、部屋が無音になった時、笑い声が聞こえた。きゃっきゃと、子供たちが無邪気にはしゃぐ声。
いつもならヘッドフォンをして外の音は遮断しているのに、油断した。油断したのに、ふらふらと閉め切ったままだったカーテンを、開けてしまった。
西日が強くなり始めた歩道を、小学生の一団が歩いていた。ただの下校の何がそんなに面白いのか、楽しそうに笑っている。
(……むしゃくしゃする)
外界を遮断するように、カーテンを閉めた。震える手で煙草を掴む。空だった。
「くそっ」
ぐしゃっと握り潰す。こんな時に限って、残りがない。煙草と酒だけは、コンビニで買うことにしていた。それさえもネットで買ってしまえば、本当に終わってしまう気がしていたからだ。
「買いに、行かないと……」
そう呟いた後の記憶は、曖昧だった。次に気付いた時には、車の前にいた。父の赤いセダン。コンビニに行くのに、いつもは車など使わない。父の臭いが染み付いている空間に閉じ込められるのも嫌だし、歩けば十分もしないで着く。
車なんて、必要ないのに。
(なんで……)
一方で頭の中で過ったのは、あのニュースだった。小学生の一団に突っ込んだ車。
途端、どうでもいい疑問が湧いた。
銃や包丁を持ち歩くことは法律で禁じられているのに、車を走らせるのは何故許されるのか? 包丁だって、殺す気で持っていなければ安全なはずだ。車だって、殺す気で運転すれば十分凶器だ。
(殺す……殺せる……)
しっかりと握り締めていた車の鍵が、手の中でガチャガチャと鳴った。それで正気に返って、有り得ないと否定した。
死にたいとは思っても、誰かを殺したいなんて考えたこともない。ましてや今も道の向こうを歩く小学生には、何の怒りもない。
(何考えてんだか……)
大きく息を吐き出して、それからドアを開けた。運転席に座り、エンジンのスタートボタンを押す。鍵を戻していつも通り歩いていけば良かったと気付いたのは、カーモニターのテレビがついてからだった。
ローカルテレビの番組だったのか、近所の商業ビルが映っていた。道を挟んだ駐車場と連絡橋で繋がっている大型施設で、幾つもの店舗が入っている。そこに新店舗が出来たと、女のリポーターが騒いでいる。感想を聞かれた若者が、希望に満ちた顔で愛想よく答えている。
その若者の顔があの夜の連中に見えて、突然目の前が真っ暗になった。喉が潰れるように息が苦しくなって、ハンドルを持つ手が震えた。生理的な涙が滲んで、頭が朦朧とする。
もう何年も、こんな症状は出ていなかったのに。
(……もういやだ……もう死にたい……っ)
死にたい。死にたい。死にたくない。死にたい。独りでは死にたくない。でも死にたい。生きていたくない。死にたい。死にたくない。
でもこんな自分が生きていたって資源の無駄遣いだ。生きている理由がない。資格がない。死にたい。死ぬのは怖いけど、生きていくのも怖いんだ。
子供は幸せそうで、町は益々発展して、若者は笑っていて、社会に自分は必要ない。
いいことだ。こんな人間、要らなくて当然だ。だって、
(独りじゃ、ないなら……)
こんなことしか、思い浮かびやしないのだから。
ふらふらと、赤い車を運転していた。
免許は持っていたが、思えば運転するのもほぼ十年ぶりだった。アクセルを踏み込むたびに冷や汗が噴き出して、ハンドルを握る手が汗ばんだ。滑らないように必死に掴むから、ますます体が強張った。
気付けばコンビニはとうに通り過ぎ、テレビで見たあの商業ビルが視界に現れていた。
ダメだ、と思いながら近所の公園を通り過ぎ、広い道に出る。
(止めろ……)
ハンドルを持つ手がますます震えた。このまま向こうの信号交差点を曲がって、家に引き返そう。頭ではそう思うのに、視線は何かを探すように彷徨った。
(止めろ……)
ゆっくりと交差点に進入し、商業ビルに続く側に折れる。その先に、見失ったはずの小学生たちが見えたからだ。
(止めろ……)
いけないと分かっているのに、吸い込まれるように進む。歩道を走る少年を追い越し、ベンチに座るサラリーマンの横を過ぎ、左側の歩道を集団で下校する小学生が目の前に見える。
(止めろ……!)
歩道が目の前にあるなんておかしい。気をしっかり持て。死ぬなら独りで死ね。
(……でも、それじゃあ)
独りで、死ぬのは。
(可哀想じゃ、ないのか?)
葛藤の中に沸いた自問に、分かりきった自答が追いかけてきて、ついに涙が零れた。
(つらい)
辛いと、心が訴える。引き千切れそうな程、心が辛い。
(つらいんだ)
握り締めたハンドルから、ゆっくりと力が抜けていた。アクセルに置いた右足もまた、糸が切れたようにゆっくりと沈む。
そこに、対向車線を走る白い車が大きくこちら側に膨らんだ。
「ッ!」
反射的にハンドルを左側に切る。目の前に小学生の一団がいることも忘れて。
「あッ――――」
フロンドガラスに赤や黒のランドセルが迫る――その前に、セーラー服の少女が飛び込んできて。
避けなくては、と必死でハンドルを切ったつもりだったのに、ドゴン! と、ボンネットに何かが当たる鈍い音が、車内にまで伝わってきた。だがそれが何かを考える時間はなかった。
まるで十年前の殴られた時と同じような衝撃が左から右へと伝わり、階段から落ちたように視界が回った。ドアに側頭部をぶつけたのか、一瞬視界が真っ黒になった。
パーッと、クラクションが鳴り続けていた。誰か助けてくれと。十年前には言えなかった言葉を、代わりに叫ぶように、ずっと。
パ――――。
車外の騒音は、何も聞こえなかった。クラクションが全てを掻き消してくれる。誰かの叫び声も、泣き声も、救急車のサイレンも、何も聞こえない。
意識はどんどん掠れていって、右足が踏んでいたペダルが何だったのかも、混乱して分からない。
でも、これでいい。これでいいんだ。
これで、やっと、終われるんだ。
十年ぶりに、少しだけ笑えた気がした。
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