Case.5 井上幸生の場合

 あの子が走ってゆく。

 あいつが追いかけてゆく。

 でも、俺は悪くない。俺は悪くない。

 だって、あんなことになるなんて知らなかったんだ。




       ◆




 唯一無二の人間になりたかった。

 誰からも認められる、自分にしかなれなものになりたかった。

 でも中学も三年生になれば、自分が全然大した奴でも何でもなかったということに、嫌でも気付かされる。小学生の時にはスゴイと持て囃されたことに誰も見向きもしなくなり、日に日に価値が下がっていくことを、まざまざと見せ付けられる。

 俺はもう、どこにでもいるありふれた人間だった。特別優れているわけでも、貴重なわけでもない。流砂のように襲いかかる平凡に抗いきれず、一秒ごとに埋没していく砂粒の一つに過ぎない。

 でもその事実を受け入れるのは、何よりも耐え難く、難しかった。勉強も運動も中の上。人望は中の中。クラスの中心はいつの間にか別の奴で、注目が集まるのは面白い話をする時くらいだ。

 つまり、話術は上の中ってこと。

 だから、俺は道化になった。


 目立てばそれだけ、存在を認められた気になる。承認欲求ってやつ? 自己肯定感だっけ?

 まぁ、どっちでもいい。単純に気分がいい。おだてられれば、その時だけは自分が何の取り柄もない平々凡々な奴だって忘れていられる。何だって出来る気がする。

 気が大きくなってるだけって分かってるけど、ほら、応援されるといつも以上の力が出るっていうの? アレと一緒だよな。


 飽きられる前に新しいネタを用意するのを忘れなければ、何も難しいことはない。

 学校なら、ネタなんかそこら中に転がってる。優等生の成績暴露とか、イケメン野郎の告白回数とか、教師の恥ずかしい画像公開とか。根暗はなぜネクラなのかってのも面白おかしく話したこともある。


 特に食い付きがいいのは、やっぱりスキャンダルだ。誰と誰が付き合ってたとか、誰に振られたとか、誰が好きとか。

 過去の話なら、恋話もいいけど、みんなイジメの方が興味があるみたいだったな。何故イジメられたのか、何が原因か、イジメられる奴は本当にただの被害者なのか。でも結局皆が知りたいのは、そいつがどんなに嫌な奴で、絶対に関わりたくないってことだ。他人事のまま、楽しく笑ってたい。それだけ。

 そしてそれには、俺もまったく同意見だった。


 でも、最近はどうにも上手くいかない。

 修学旅行も体育大会も終わって、本格的に受験モードになったからだろうか。話題を振っても、はしゃぐにしても、誰も本気で乗ってこないし、すぐに話を終わらせたがる。口には出さなくとも、気配で分かる。空気を読むのは大の得意だ。

 だが、詰まらない空気は堪えられない。自分の存在価値が急になくなりそうな危機感が、ちりちりと俺を苛んだ。秋に入って、休み時間も勉強している奴が少しずつ増えて、いつも一緒にバカ話をする連中も、付き合いが悪くなって。


(つまんねぇー)


 授業中も休み時間も、全然面白くない。ここは受験で必ず出るとか、応用問題を何回も解くようにとか、丸暗記ではなく前後関係をよく把握しろとか、問題集を買ったとか、塾の時間を増やしたとか。


(少しも面白くない)


 だが恋話の類はクラスどころか学年のほとんどを使い切ってしまったし、教師をからかうネタもなければ時期も悪い。

 彼女に目を留めたのは、意味のない必然だった。

 二年でも三年でも、クラスで孤立している女子。小学校は別だったから詳しくは知らないが、五年の時には軽く虐められていたことがあるらしい。


(調べてみるか)


 好奇心というにも及ばない、ただの暇潰しだった。だが調べてみれば、虐めという程でもなかった。クラスで必ず二、三人はいる、空気を読むのが苦手な奴の小さな失敗だ。

 だが、調べているうちに面白いことに気付いた。彼女の視線が、同じクラスの優等生にずっと向いていることに。


(こりゃあ、少しつついたら面白くなりそうじゃんー?)


 それから少しずつ、俺は彼女を煽った。


『あれ、何じっと見てんの?』

『もしかして、誰かに用事?』

『すげぇ見てんじゃん。代わりに声かけてやろうか?』

『あっ、もしかして……そういう用事?』


 優等生を見ているのを見付けては、事あるごとに横から声をかけた。最初は他にクラスメイトがいない時に。徐々に周りに人がいる時にも声をかけ、周囲の気を引いた。

 彼女は、怪訝な顔をして逃げた。周りの目が向けば、黙って逃げた。頬を染めたような気もするし、恥ずかしがっただけのような気もする。

 真実なんかどっちでも良かった。


『言わないと後悔するぜ?』

『卒業したらもう会えないだろ?』

『何なら俺が呼び出してやろうか?』


 親切ぶって背中を押すのは得意中の得意だった。特に意気地がない奴や、自分に自信を持てない奴は、第三者に声をかけられると勇気が湧くらしい。

 相手は大抵人気者で、周囲に見られている中で声をかけるのは、相手にも悪いと思う節がある。だから代わりに声をかけるという提案は、結構な確率で受け入れられた。

 でもそれで本当に告白まで行くのは一割程度だ。大抵は途中で逃げられる。別にそれでも構わない。面白ければ。


「……あの」


 だが、今回は意外にも成功した。


「ずっと、あなたに伝えたいことがあって」


 十一月になった放課後、彼女はついに例の優等生を校舎裏に呼び出した。俺はいつも通り呼び出し場所まで同行し、二人からの「どっか行け」視線が来るまでその場にいる。


「どうしたの、突然?」


 最初の発言以降黙りこくってしまった彼女に、優等生が優しく問いかける。続きなど分かりきっているくせに、そう促す優等生の偽善がむかついて、俺はこっそり動画を撮影することにした。


「ご、五年生の時のことだけど……」


 最初こそ優等生の目を見ていた彼女はけれど、すぐに俯いてもじもじと話し出した。こういう連中は前置きが長い。早く本題に入れと思いながら、俺は辛抱強く待った。


「あぁ……。えっと、何かあった?」


 わざとらしく思い出したように言いながら、優等生が促す。その声に意を決したように、彼女は顔を上げた。


「あの時のこと、ずっとお礼を言えていなかったから」


 あの時が何のことなのかは、大体推測ができた。どうせ例の虐めの件だろう。だが優等生の表情は、途端に曇った。


「お礼なんて、言われるほどのこと、してないよ」


 ケッ、と思わず声が出そうになった。優等生はいつもそう言う。謙遜も偽善も、見ていると反吐が出る。心の中じゃ見下しているくせに。良い子ぶって本心を隠す。


「……ううん。あの時も、あの後も……君が声をかけてくれて、少し……嬉しかった」


「……うん」


 彼女の言葉に、優等生が歯切れ悪く頷く。その後にまた会話が途切れて、俺は顔をしかめて首を捻った。


(は? もしかしてそんだけ?)


 有り得そうな可能性に、俺は戦々恐々とした。こんな、四年も前のことに礼を言うだけのために何日も費やしたのかと。


(マジかよ。そんな詰まらないことのために時間をかけたわけじゃないぞ)


 俺は話題を作るために彼女にちょっかいを出し始めたのだ。それがこんな終わりでは、誰に話しても注目されない。動画を餌にみんなで騒ごうと思っても、これでは詰まらなすぎて恥をかくだけだ。

 俺は堪らず彼女の背を小さく突いた。それでやっと、次の言葉が動き出す。


「それで……その、ずっと聞きたいことがあったの」


 それまでのおずおずとした口調が消え、どこか確信めいた声と眼差しが、優等生を射る。


「あの時、君が、何を考えていたのか」


「考えて、って……?」


 優等生が、戸惑うように見返す。だが俺には、何を悩む所があったのかとさえ思った。こんな時に聞く「考え」など、一つしかないだろう。


「気持ちだろ? お前の気持ち」


 じれったくて、思わず口を出していた。優等生が一拍遅れて目を見開く。


「は?」


 そして、真偽を問うように彼女を見る。

 途端、彼女が慌てふためいた。


「ちがっ、そんなんじゃ……!」


「えっ?」


 優等生が視線で追う。それに耐えられなくなったように、彼女が赤面して踵を返した。


「あっ」


 そしてその声を最後に、彼女は優等生の前から逃げるように走り去った。短い日が暮れ始める夕さりの中、校舎の角を曲がって彼女の姿が消える。

 その後ろ姿を見送ったままいつまでも言葉もない優等生に、


「――――ぷっ」


 俺は堪らず吹き出していた。


「何だ今の? そんなんじゃないとでも言う気だったのかな?」


 くっく、と堪えきれない笑みで喉を鳴らして、彼女と優等生を交互に指さす。


「告白するつもりで呼び出しておいて、今さら何を誤魔化そうっていうんだろうな? マジウケる」


 可笑しくて堪らない。これだよこれ。こういうのが愉快なんだ。

 普段は他人なんか興味がないという顔をしていた彼女の、あの羞恥に染まった顔。いつも友達に囲まれて楽しそうな優等生の、動揺した顔。

 どいつもこいつも他人の前では隠してる、取り繕っていない裸の顔。


「……告白?」


 優等生が、困惑したように俺を見た。


「彼女が、僕に? 有り得ない……」


 その手の冗談は不謹慎だとでもいうような眼差しが、愉快さに水を差した。


「だよなー。あんな陰キャ。告白しようって思えるのがもうスゴイよ」


 イライラする。


「クラスでも浮きまくってるのに、身の丈も考えないでさ」


 優等生の俺を見る目つきが。


「いつまでも言い出さないから、折角手伝ってやろうとしたのに」


 自分の存在価値に一片の疑問も抱いたことがないというような、揺らがない眼差しが。


「あーあ。もうちょっとで面白いネタになったのになぁ」


 イライラする。

 そしてその苛立ちは、益々強くなった。


「……おもしろい?」


 狼狽えていたはずの優等生の目が、嘘つきと詰るように俺を睨むから。


「まさか、そんなことのために、彼女にこんなことをさせたのか?」


「こんなことって?」


「彼女の行動を……振り絞った勇気を、嘲笑うために、だ」


 俺はチッと舌打ちして目を逸らした。隠し撮りしていたスマホを背に隠し、動画を止める。


「人聞きが悪いなぁ。俺は助けてやっただけだ。お前のことが気になってるみたいだったからな。きっかけを作ってやることは、悪いことか?」


「それは……」


 優等生が言い淀んだ。当然だ。俺がやったのは親切心だ。慈善事業だ。感謝されこそ、文句を言われる筋合いはない。

 だというのに、優等生は信念でもあるかのように「でも」と続けた。


「誰だって、自分の気持ちを他人にとやかく言われたくはないものだろ? 誰かの助けが欲しいと思ってても……、それはお前みたいな利己的な奴の言葉じゃない」


 またイライラが肥大する。言い負かしてやりたいという気持ちがむくむくと膨らむ。俺は笑顔を崩さないまま、正義面する優等生に詰め寄った。


「じゃあ一生言わない方が良かったっていうのか? 言いたくても言えない奴だっているのに? 絶対後悔したと思うけどな」


「こう、かい……」


「みんな本当はきっかけが欲しいんだよ。自分じゃ動き出せないから。だから俺が背中を押してやったんだ!」


 そう、俺は良いことをしたんだ。優等生みたいに教師に媚を売る良い子じゃない、人の役に立つ良いことだ。

 だから、俺は目の前の優等生よりも余程世の中に価値がある。


「……そういう考え、好きじゃない」


 俺から逃げるように一歩後ずさった優等生が、苦し紛れに反論する。だがその歪んだ表情が、俺の言葉を否定できないと言っているようなものだ。


「でも、その言い分には、一理あるよ」


 案の定、優等生は覇気のない声でそう認めた。そのまま彼女同様に踵を返し、彼女が消えたのと同じ道を走り去る。

 その背を見送りながら、俺は胸のすく思いだった。


「ざまあみろ」


 不敵に笑って吐き捨てる。


「あー。清々した」


 目障りな奴を二人もコケにできた。他人の告白の成功なんて、誰も望んでない。ハッピーエンドよりも、振られて泣いて笑い物にするくらいが丁度いいんだ。


「何が、一理ある、だ」


 助けが欲しいとか、きっかけを待ってるとか、そんなの一度も思ったことなんてない。俺は助けてほしければ助けてって言えるし、言いにくい相手にだってズバズバ言える。だってその方が面白いからだ。


「どうせ無駄なのに」


 今から追いかけたって、追いつけやしない。追いつけたとしても、あんな顔をした彼女が受け入れるはずがない。あいつが今からすることは、全部無駄だ。無駄。

 無駄、なのに。


「何で、走るんだよ……」


 追いついたって、良いことなんか何もないのに。誤解があったんだって必死に弁明したって、誰にも伝わりはしない。

 嘘を吐いてるわけじゃないとか。悪口を言いふらしてるつもりはないとか。ただ皆を楽しませたいだけだとか。だって俺には、それ以外取柄がないからとか。

 誰も信じたりはしない。

 だから、俺は周りが望むように道化を演じるのだ。それが丁度いい。上手く出来るし、身の丈に合っていて、無理がなくて、楽なんだ。


「この動画、どうしよっかなー……」


 彼女が顔を染めた所までで編集しようか。これを見せれば、きっとまたみんな喜ぶ。受験を控え、みんな鬱屈が溜まっているから。一時の憂さ晴らしには丁度いい。


「…………ぜんっぜん、面白くねぇ……」


 ずっと睨み続けていた靴の爪先が、どんどん近くなる。頬が痛いのは、無理やり笑い続けていたからじゃない。

 そんなんじゃない。

 そのはずなのに、こんなにも惨めな気分になるのは何故なんだ。


「ほんと、クソつまんねぇ人間だな……」


 両手を乱暴にズボンのポケットに突っ込む。塵と埃しか入っていないポケットで、爪が食い込むほど両手を握り込んだ。

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