Case.4 柿原 愛の場合
彼女が走ってゆく。
彼が追いかけてゆく。
でも、私には関係ない。
◆
私は良い子だ。
親の言うことを聞き、逆らわず、勉強も部活も真面目にこなしている。クラスの中でも波風を立てず、話しかければ笑って答え、適度に愚痴を言い合い、中立の立場を維持する。
教師に頼まれれば基本は断らないし、前期は副委員長も引き受けた。
すごく嫌だった。めちゃめちゃ疲れたし、面倒臭いだけだし、良いことないし、やる気なんか出るはずもない。
でも、その方がいいんだ。教師の受けはいいし、クラスの中心メンバーの意見を基本取り入れれば虐めの標的にもされないし、ハブられない。
そのために、人前で陰口には参加しないようにしてるし、揚げ足を取られないように失敗にも失言にも常に気を付けてる。でも、努力してるなんて絶対に悟らせない。
テスト前の勉強は動画を見ちゃって全然出来なかったと答えるし、テストの点は絶対見せない。SNSは一日中チェックしてるし、話題のダンス動画は一通り完璧じゃない程度に練習しておく。勧められたコスメや服は絶対使うし、雰囲気を変えるなんて有り得ない。遊びに行くときはいつもさりげなく双子コーデの提案をする。
それが安心。それが安全。
(でも、全然楽じゃない)
だから、サボった。
本当はずっとずっとサボりたいと思ってたけど、ずっと怖くて踏み出せなかった。大人が聞けば、どうせそんなもの踏み出さなくていいと言うんだろうけど。
でも私には、それはとても大事なことだった。中学校生活の生死を分けると言っても過言ではない程。
でも結局、学校には生理痛で休むと連絡したし、友達にはお腹痛いとメッセージを送った。勿論、消費期限を過ぎたプリンを食べたせいかもと書き加えた。
いつも通り家を出て、途中まで通学路を行って、適当な所で――本当に適当に道を曲がった。野良猫でもいればどこまでも追いかけていくのに、何にも出会わなかった。
新しい発見も、胸躍る体験も何もない。いつも友達と行くデパートに行って、友達とは食べないお芋のパフェを食べて、期待外れだなと思って。
そのあとはブラブラと歩くだけだった。昼ご飯をコンビニのサンドイッチで済ませたらもうやることがなくて、Wi-Fiが入る所でずっと動画を見てた。
やりたいことも行きたい所もない。好きなものなんて、発作的な行動ではもう思い出せないくらい曖昧になっていたと、気付かされただけだった。
心の平穏を守るために愚痴専用の裏アカウントに書き込み続けるけど、辛さは、少しも和らいではくれなかった。
(辛い……)
午後もあちこちをフラフラしてたけど、結局昼ご飯を食べたベンチに戻っていた。商業ビルと、道を挟んで向かいの立体駐車場とを繋ぐ連絡橋の途中にあるベンチで、ギリギリ電波が届く。ビル側からは歩道に降りる階段もあるから、友達は歩道橋と呼んでいるけど。
(つまんなー……)
ベンチから下の道路を見ながら、ぼーっとしていた。もう動画も見尽くして、ウィンドウショッピングも飽きてしまった。反対側の方が中心街で少しくらいは見応えもあるが、ずっと何もない目の前の交差点を見ていた。
下校を始めた小学生たちがちらほら通り初めて、早足で歩く忙しそうなサラリーマンが何人も駐車場を出入りして。
更に日が傾く頃、下の歩道にも設置されているベンチに、サラリーマンが座り込んだ。覇気のない、顔色の悪い中年男。パック牛乳を片手に、ずっとタイル舗装を凝視している。
(あんな大人、有り得ない)
格好良くないスーツは似合ってないし、革靴はボロボロ。何より、全然楽しそうじゃない。
平日のこんな時間にこんな場所にいるなど、どう考えても優秀ではない。
(……それは私も一緒か)
夕日が沈み始めた今くらいならおかしくはないが、制服を着て出てきたせいで、日中はずっと不審な目を向けられていた。
そこまで考えて、それだけじゃない、と気付いた。
(同じじゃん)
私だって、個人に似合うかどうかなんて丸無視した制服を着させられているし、足元のローファーは三年履き続けてボロボロだ。疲れたようにベンチに座って動けずにいる私の姿も、傍から見れば何も変わらない。
(最悪の未来像だ……)
心が疲弊するほど良い子でいるのは、あんな大人になるためじゃない。もっと華やかで、楽しくて、思う通りの自分になるために……。
(好きなものも分からないのに?)
なりたい自分が、少しも想像できない。だというのに、くたびれた自分は簡単に想像できた。なにせ、すぐ目の前に見本があるんだから。
(全然楽しくなかった)
折角、一大決心で授業をボイコットしたのに。良いことなど一つもなかった。他のクラスメイトはもっと楽しそうなのに、私はサボることすら手本がなければ上手に出来ないのだろうか。
それでも、流石に「中学生」「サボり方」で検索しようとは思えなかった。多分、もう二度とサボらない。こんなに虚しくて、自分の価値を問われるような無為な時間は、二度と過ごしたくない。
「……帰ろ」
何もかも嫌になって、いい加減に腰を上げる。丁度その時、交差点の死角から全速力で飛び出してくる人がいた。私が着ているものと同じ型のセーラー服だ。
(やば……もうみんな帰り始めてるんだ)
何も考えていなかったが、ここは中学から遠く離れているわけではなく、登下校に利用している生徒も少なからずいるはずだ。その道を反対方向に歩いていくのは、いかにも不自然だ。
(遠回りだけど、駅裏回って帰ろうかな)
親には、コンビニに寄っていたとでも言えば追及されないだろう。そう、体面ばかり考えていた時だった。
「あっ」
走ってきたセーラー服の女生徒が、バッと顔を上げた。最初はその汗混じりの泣き顔に、次にはそれが誰か思い当って、私はつい立ち止まった。
(あれ……いじめられっ子じゃない?)
正確には、虐められていたわけではないと思う。ただ、小学五年生で同じクラスになった時、いつの間にか彼女は孤立していただけだ。
小さな無視や嫌がらせはあったかもしれないけど、それだけだ。給食はいつも一人で、二人組になる時はあぶれて、野外教室の班も、無理やりどこかに入ったような具合だけど、それだけ。
確か野外教室の時のレクリエーション活動で小さな騒ぎを起こして、その後から、一人の男子が彼女に普通に接するようになって、うやむやのうちに五年生が終わった。
その後は一緒のクラスになったことはないけれど、彼女が虐められ続けているという噂は聞かないから、一過性のものだったのだろう。
(でも、なんか嫌いだった気がする……)
別に彼女に何かされたわけでもないが、多分嫌いな人種だ。そう思っているからか、話をしたこともほとんどない。その理由を、私はこの後、嫌でも思い出した。
「――待って!」
遠く、必死な男の子の声がした。ベンチに座っていたサラリーマンを追い越して、声の主がものすごい勢いで走ってくる。でもその頬には擦り傷でもあるのか、赤い血が滲んでいた。あの子を追いかけるのに必死で、途中で転んだのかもしれない。
(馬鹿みたい)
その学ラン姿の男の子のことも、また知っていた。五年生の時に同じクラスだった。たしか四年生の時にウサギの飼育係だったとかで、その年にウサギの飼育をやめると学校に言われて、泣いていた記憶がある。
(理由は……なんだっけ)
ウサギの飼育が出来なくなった理由も、彼が泣いていた理由も、よく覚えていない。
気付けば真剣に見ていたのが癪で、彼からも視線を逸らす。次に視界に入ったのは、下手くそな運転をする赤い車だった。ふらふらと車道の右に左に揺れながら、丁度二人の中間にいる。などと思ったのは一瞬だった。
「……ちょっと」
歩道の前を走っていた少女が、歩いていた小学生の一団を避けて車道側に身を乗り出して。
「危ないんじゃない……?」
そこに、対向車の白い車を避けるように、赤い車が大きく揺らいで。
「! 逃げ――ッ」
声は、けれど全て言い切ることは出来なかった。
ガシャン!
と、窓ガラスを叩き割ったような大きな衝撃音が道路いっぱいに響き渡ったからだ。その痛みを訴えるように、クラクションがパーッと鳴り続ける。
痛い、痛い、痛い。
縁石と、女子中学生にぶつかったせいで横転した赤い車が、叫んでいる。
でも私には、横転した車の下敷きになって、足しか見えない彼女の悲鳴のように、聞こえた。
パ――――。
痛い、痛い、痛い。
「ど、どう、しよ……」
知らず声が出て、足も指も勝手に震えた。最初に一歩下がって、それから無意識に階段まで歩いた。
数歩降りたところで、子供の泣き声が爆発した。彼女が押しのけた小学生たちだ。ビル側に寄っていたとはいえ、目の前で人がはねられたのだ。トラウマになってもおかしくない。
男女関係なく、ぎゃーぎゃーわーわーとしがみつき合いながら泣いている。その目の前で、彼女に追いついた少年が、呆然と立ち尽くしていた。
必死に追いかけてきたはずなのに、叫ぶでも頽れるでも、泣き崩れるでもなく、ただ道路に広がり始めた血溜まりを凝視している。
後ろから追いついてきたサラリーマンの方が、不安そうに動揺して、青い顔で口をぱくぱくしながら、「きゅ、救急車……っ」と呟いている。でもその手は震えていて、正確に119を押せるか心配になるほどだった。
そして、私は。
(……こわい……)
何故か、私のせいじゃないのに、とてつもなく怖くなった。ここに友達でもいれば、好奇心が勝って見に行けたかもしれない。でも一人では、とてもじゃないけど近付けなかった。
(救急車、来るんだから、いいよね?)
震える足で、降りるはずだった階段を後ずさる。ビルの店の中を通って帰ろう。そう決めた瞬間、彼が私を見上げた。
「!」
びくりと体が跳ねる。そのせいで、呆気なく足を踏み外した。左膝ががくっと落ちて、咄嗟に手すりを掴む。その一瞬の間に、彼が目の前まで上がってきていた。
「な、なんで……っ」
「……君が」
ぜぇはぁと肩で大きく息をしながら、私を真っ直ぐ睨む。今にも泣きそうなのに、見開いた目はからからに乾いていて、充血していて。
「君が、もっと早く、声を上げてくれたら」
責めるように、諦めきれないように、顔を歪めて言う。
「……彼女は、助かったかもしれないのに」
その声には、99%の絶望に紛れて、1%の希望が消えていなかった。
追いかけていたはずの女の子が、目の前でああも無惨に轢き殺されたというのに。
「なん、なの……?」
私は、更に空恐ろしくなった。腰が引けるように背後の階段に足をかけながら、少年を睨み返す。
「何で、知ってるの……?」
連絡橋の上から見ていた私のことなんて、気付いてなかったはずだ。目も合ってない。
私が一瞬――ほんの一瞬、大声で「逃げて」と叫ぶのが遅れたことだって、絶対気付けないはずなのに。
「……僕は、知ってる。僕には、何も出来ないことを」
私よりも少し低い位置から、少年の決然とした瞳が言う。それは予想したよりも静かだったのに、背筋が震えるほど恐怖を感じた。
「……なに、言ってるの?」
更に一歩、後ろに逃げる。同じだけ、少年が一歩階段を上がる。赤くなった白眼を、更に大きくして。
「でも、君には出来たんだ。今までも、何度だって……!」
その迫りようはけれど、確信というよりも狂気が見え隠れするようで、私はついに逃げ出していた。
「……知らない。私は関係ない!」
お化けから逃げるように連絡先橋の上まで戻って、そのまま奥の店舗入り口である自動ドアまで走る。
「そうだよ……君は、何の関係もない。それでも……!」
自動ドアがもどかしいくらいゆっくりと開いて、出来た隙間に身を捻り入れてお店の中に逃げ込む。
今度は、早く閉まってと願いながら後ろを振り返る。
「お願いだから、次こそは……」
少年は追いかけるでもなく、その場に立ち尽くしたまま、言葉を続けていた。まるで、本当は今までの言葉もずっと、私じゃない何かに向けられていたみたいに。
それが今にも泣き崩れそうなほど弱々しくても、私は絶対に引き返したくないと思った。
彼は良い子だ。そしてそれは、多分私みたいな利己的で計算されたものじゃない。
五年生の野外の時、彼女が騒ぎを起こした後、彼は彼女に普通に接していた。そんなことをすれば、今度は自分が孤立するかもしれないのに。
でも、彼はそんなことにはならなかった。何故なら、彼は本当の善人だったから。
(私だったら、きっと……)
その先に思考が進みそうになって、私は恐ろしくなってシャットダウンした。空っぽになった頭に、代わりに単純な感情が注がれる。
つまり、怒り。
善人なんか、過ぎれば嫌味だ。見ているだけで腹が立つ。誰だっていいことをして、誉められたい。でも出来ない。だからそれを当たり前に出来る奴は癪にさわる。多分そういう原理なんだ。
だって周りのみんなが嫌な奴なら、私が嫌な奴だってバレない。私は良い子に見える。
そうでしょ?
(でも……)
店を出るとすっかり残照も去ったあとの薄闇に、けれど私は顔を上げることも出来ず、呟いた。
「次……? って、何のこと……?」
考えても、思い当たることがあるはずもない。第一、あんな衝撃的な交通事故を眼前で目撃するなど、そう何度もあっては堪らない。
(あんな、怖いこと……)
追いかけていた女の子が目の前で轢かれるなんてこと、何度も味わうなんて。
(気が狂うわ)
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