Case.3 瀬尾春哉の場合
少女が走ってゆく。
少年が追いかけてゆく。
腹立たしいくらい強く、
◆
今年一番というくらい、イライラしていた。
時給がいいからしていたコンビニのバイトだったのに、今日顔を出したら「もう来なくていいって言ったでしょ?」と言われた。
「ふっざけんな」
タイル舗装された歩道に転がっていた小石を、怒りに任せて蹴り飛ばす。
無愛想だと何度か客から苦情が来ただけだったのに。
明らかに一人分しか買ってないのに割り箸を三つも寄越せと言ったマスク客に、三度も聞き返したことがそんなに悪いことか?
袋を有料にしたくせに詰めるスペースがないという文句は、本当にアルバイト店員が受けるべきか?
ウイルス対策のために立ち読み客を追っ払えというのに、その態度が悪いと詰られるのは本当に俺のせいか?
「ふざっけんな!」
ぐしゃりと、連続で吸い過ぎて空になった煙草の箱を握り潰す。
考えれば考える程怒りが収まらない。
何故上手く笑えないだけで、この世界では悪者にされなければならない。愛想が悪いのは俺のせいか? 嫌なことを嫌だと思って何が悪い? それでも笑っていられる奴しか、常識ある社会人として存在できないのか?
(バッカじゃねぇの)
これだから働くのは嫌なのだ。
高卒で正社員の職を得たが、それも三年が限界だった。会社に必要なのは能力じゃない。協調と愛想と追従だ。三年で十分に思い知った。だから会社を辞めて、それ以来アルバイトを転々としている。
実家に帰るのだけは嫌でどうにかバイトを続けているが、それもそろそろ限界かもしれない。
(嫌なことばっかりだ)
怒りに任せて、握り潰した箱をめちゃくちゃに投げ捨てる。それが、ただすれ違うだけのはずだった通行人に当たった。
「ひゃっ」
「!?」
前どころか周囲を一切見ていなかった俺は、その声に驚いて顔を上げた。
夕暮れの狭い歩道に、杖を突いたばあさんがよろけて転んでいた。どうやら、俺の投げたゴミに驚いたらしい。
「……は?」
いやだって、力任せに投げたが、たかが小さな紙の箱だ。それが当たっただけで転ぶなんて、それって俺のせいか?
いやでも、杖を突いて歩くような年寄りだ。驚いてバランスを崩せば、体勢を立て直すのも一苦労なのかもしれない。
いやそもそも、そんなババアがこんな時間に一人でふらふらしてるのが悪いだろ。
(そうだ、俺は悪くない)
そうだよ、こんな所にいるこのばあさんが悪い。そう、目を逸らした所を、紺色のセーラー服が飛び込んできた。
「大丈夫ですか!?」
それは、女子中学生だった。背後から走ってきていたのか、自分も大きく肩で息をしながら、タイル舗装された歩道に座り込んだ老婆に駆け寄っていた。
「あぁ、ごめんね。ちょっと、驚いちゃって」
俺の動揺をよそに、老婆は少女に柔らかく笑いかける。少女も、ぎこちなく笑って手を差し出した。
「立てますか?」
「杖を取ってもらえるかしら?」
申し訳ないと眉尻を下げながら、半歩遠くに転がった杖を指さす。それに頷いて手を伸ばした時、少女の顔が良く見えた。
その頬に、汗だけでない雫が浮かんでいた。よく見れば、猫のような大きな目は真っ赤に充血している。明らかに泣き腫らしていた。
(それなのに、助けるのか?)
ただ転んだだけの他人を。年寄りで、杖を突いているとはいえ、頑張れば自力で立てる赤の他人を。
走っていたんじゃないのか? 泣きながら、何かから逃げるように。もしくは涙が出る程怒っていたんじゃないのか? 何かを振り切るように。
(……偽善だ)
益々腹が立った。
ありがとう、ありがとうと、何度も頭を下げる老婆にも。それじゃあと、何の見返りも要求せずまた歩道を全速力で走り出す少女にも。
俺とは別世界のように繰り広げられる、茶番のような美談に。
「――待って!」
そこに遠く、少年の声がした。
ハッと、一瞬少女が肩越しに振り向く。だが足を止めず、向こうの交差点をそのまま左に曲がっていった。
「待って、違うんだ!」
歩道の反対側から現れた学ラン姿の少年が、息せき切って走ってくる。縋るように手を伸ばす。その先がどこに向かっているか分かって、爆発するような怒りが込み上げた。
少年が、俺などいないように無視して目の前を駆け去る――その足に、自分の足を引っかけていた。
「ッ!?」
全速力だったのだろう。俺が軽く出した足に、少年は盛大にすっ転んだ。ビリッと服が破れる音がして、すぐあとに少年が顔を上げる。頬が盛大に擦り剥けた顔で、俺を睨み上げてきた。
考えるよりも先に足を出してから思い至った、凶暴な学生という可能性は、その目を見て消えた。脅威を感じる程もないくらい、その瞳は揺れていた。
(……どうせ)
子供同士がノリでくっついて、下手な別れ話でもしたんだろう。そう考えるだけでも苛立ちが増した。
俺は彼女に振られてもう随分独りで、バイトはクビになった直後、次の収入の目途もない。
対してこの少年は、あの少女に追いついたら、誠心誠意謝って仲直りするだろう。根拠もないのに、そんな確信があった。
そんな美談は要らない。俺の世界では、そんなものはこれっぽっちも起きはしないのに。
「お前……」
少年が、俺を見上げたまま声を震わせる。何をするんだとか、何のつもりでとでも続くのかと思った。
だが続けられたのは、予想外の糾弾だった。
「お前が、こんなことをするから……!」
「……は?」
それはどこか的外れで、まるで「お前がこんなことをするから世界が滅ぶのだ」とでも続くようだった。
それくらい、足元の少年の目は、絶望に震えていた。
(たかが転ばされただけで?)
もしくは、彼女と破局することが?
どちらにしろ、あまりに大袈裟だ。
今すぐ立ち上がってもう一度追いかければ、まだ追いつける余地はある。そうでなくても、それからも何度だって、彼女はできて、振られて泣くのだ。
これはほんの始まりに過ぎない。大人になってまで付き合い続けるカップルなんて、ほとんどいない。今仲直りしたって、遅かれ早かれ別れる未来は決まっている。覆ったりしない。
(ざまあみろ)
心の中で吐き捨てて、俺を凝視する少年から顔を背ける。空になった両手は、ポケットに突っ込んだ。ライターと鍵がガチャガチャとぶつかるが、煙草はもうない。ニコチンが切れて、余計にイライラが増す。
だから、罪悪感など少しも感じはしない。何の関係もない、罪もない子供に八つ当たりしても、べつに平気だ。力強く歩道を蹴る足音があっという間に遠ざかって、清々する。
そう、これでいいんだ。
その横の車道を、ふらふらと蛇行運転するような赤い車が通り過ぎた。まるで居眠りでもしているような、動揺がそのまま表れているような、乱暴な運転だった。
(事故ればいい)
呪うように吐き捨てる。
その数分後、雷が落ちたような衝撃音がビルに反響して、ここまで届いた。その直後に壊れたようなクラクションが鳴り続け、呼応するように救急車のサイレンが聞こえ始める。
今度は、死ねばいい、とまでは思えなかった。
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