Case.2 野田美都雄の場合

 少女が走ってゆく。

 少年が追いかけてゆく。

 僕にはもう見つけられない、眩しいくらいの光に向かって。




       ◆




 夕闇迫る歩道のベンチで、ずっと自分の両足の間のタイルだけを見つめていた。

 他にすることがなかったからだ。


(……そんなわけない)


 しなければならないことなら、いっぱいある。

 まだ定時前だから、これから帰社して今日の提案結果の報告と修正から、見積もりまでは辿り着きたいし、残りの案件の提案書も形作っておきたい。


(仕事だけなら、頑張れるんだ)


 言い訳じゃない。外回りも、書類作成も、プレゼンも、嫌いじゃない。けれど案件を一つこなす度に囁かれる陰口の叩き合いが、堪らなく嫌だった。

 まだ若い会社だからか、社員の誰もが野心に溢れている。誰よりも良い案件を取るために、裏で誰かの効率の悪さを指摘し、回りくどいプレゼンを否定し、俺だったらと笑い合う。

 その中の一人になってしまえば、気にならなくなるのかもしれないと思った頃もあった。けれど結局、馴染むことが出来なくて仕事に逃げた。

 お陰で人間関係はボロボロだ。仕事を頼むのも相談するのも営業事務の女性社員だけで、それすらも視線の冷たさを感じる。

 被害妄想だと言えばそれまでかもしれない。けれどこの胃の痛みだけは、妄想で収まってくれない。

 会社に帰るのが、嫌でならない。

 リモートで仕事が出来ると言っても、結局現物を取引先に見せるには会社に行く必要があるし、仕入れにも納品にも出社しなければ話にならない。

 効率の良い仕事をする者には、自宅で全ての書類仕事を済ませて、ほとんど会社には顔を出さない者もいる。けれどそこまでの度胸は自分にはなくて、結局痛む胃を薬でやり過ごしながら通勤を続けている。


(いい加減、立ち上がらないと……)


 理性ではそう思うのに、ベンチに座った足は、ちっとも言うことを聞いてくれない。


(もし、このまま帰らなかったら……)


 幼稚な仮定が脳裏を過ぎる。

 別に、幼子のように心配して探しに来てほしいなどとは思っていない。自分もいい年をした大人だ。自宅のアパートと会社との往復しかしていないが、近所でなら三日ぐらい野宿できる。

 だが、会社からは連絡が来るだろう。営業事務の女性社員は自分の仕事が進まないと困るだろうし、上司には監督責任がある。

 だがそこで、会社を辞めたいと言っても、どちらも引き留めたりはしないだろう。今のこのご時世、仕事は最盛期よりも減り気味だし、営業が一人減って困るほど広い範囲をカバーしているわけでもない。

 ただ、軽蔑されるくらいだ。

 根性のない奴だと。常識のない奴だと。

 そして再就職は難しくなる。

 面接では、どうして前職を辞めたかを必ず聞かれる。人間関係が嫌になって逃げたから、などと答えた奴を、一体どんな会社が採用したいと思うだろうか。一度逃げたら、また逃げる。そう思われるのが普通だ。だから、簡単には逃げられない。もう少し、踏ん張るしかない。


(……考えるんじゃなかった。惨めすぎる)


 無駄に胃が痛み始めて、飲むのが習慣になった牛乳パックにまた口を付ける。

 その「もう少し」も「簡単」も、どうやって線引きすればいいんだよ。比べようもなければ、説明のしようもないのに。


(辛いのは自分だけ……じゃない)


 自分が世界で一番不幸なわけじゃない。自分よりも辛くて苦しくて大変な人たちは、もっといっぱいいる。だからこんなことは平気だと、いつも自分に言い聞かせる。誰かに傷付けられたわけでも、何かを奪われたわけでもない。


「……でも、辛いんだ」


 子供のような愚痴が零れた。吐き気がして、今し方飲み下したばかりの牛乳が喉元までせり上がってくる。


(気持ち悪い……)


 どうにか呑み込んで、細く息を吐き出す。冷えた吐息が夕風に攫われていく先を追ったのは、無意識だった。

 タイル舗装された歩道を、セーラー服姿の少女が全速力で走っていた。近くの中学校からの帰りだろうか。だが手ぶらだ。鞄も持っていない。

 だが何より目を引いたのは、その泣き顔だった。


(ぐちゃぐちゃだな)


 今時の女子中学生は大人びていて、こんな風に大泣きするイメージなどなかったから驚いた。だがそれだけだったら、きっとすぐに目を背けていただろう。

 こんな気持ちの時に、自分よりも辛そうな人を見たくないというのが、本音だったからだ。

 学校で嫌なことがあったとして、でも彼女には帰る家も、迎えてくれる家族もいる。独り暮らしの自分とは違う。彼女には救いがある。何十分後か、何時間後かには。

 けれど。


「…………」


 少女は少し離れた所で立ち止まると、苦しそうに両膝に手をついて、肩で息をした。ぜぇはぁぜぇはぁと、涙と汗を一緒くたにタイルに注ぐ。そのまま、膝を抱えて泣くのだろうかと、一瞬見守った。

 けれど少女は、キッと顔を上げた。夕日が作る長く濃い影を睨んで、大きく息と涙を呑み込んで。それでも溢れる涙を乱暴に拭って、足を踏み出す。まるで、何度苦難にあっても、決して挫けないというように。


「…………」


 胸が痛かった。辛さを他人と比べるなど、意味のないことだ。けれどどうしても、彼女の方が辛く見えた。そしてそれ以上に、彼女は強く見えた。少なくとも、こんな所で吐き気を堪えている自分よりも。

 それを認めたくなくて、腰を上げた。さっきまで、あんなにも引っ付いて離れなかったくせに。



「――待って!」



 そこに遠く、少年のような声がした。この少女を追いかけているのだろうか。

 けれどその時には、少女は再び駆け出していた。必死に、何かを振り切るように。

 その後を追いかけたくはなかったけれど、会社はその先にある。この交差点を西に進み、通り沿いの飲食店や雑貨屋が入った商業ビルの路地を入ればすぐだ。

 隣の車道を赤い車がふらふらと走っていくのを危ないなぁとぼんやり眺めながら、仕方なく重い足を同じ方向に踏み出す。

 とぼとぼ、とぼとぼと。

 学ラン姿の少年がその横を猛スピードで追い越していったのは、それからしばらくしてからだった。


(……あんな全速力、もう随分してないな)


 知らず、ポケットに突っ込んだ手に力を込める。その目の前で、少年が赤い車を追うように目の前を通り過ぎていく。


(いや……女の子か?)


 赤い車が右へ左へとふらふら走るその先に、自分の涙で溺れそうなほどの少女が走っている。その先には小学生の一団もいた。きゃっきゃっとはしゃいで、縁石の上に乗って、ビルと立体駐車場とを繋ぐ頭上の連絡橋を指さしたり、ランドセルを振り回したりしている。

 その内の一人が、横を通り過ぎようとしていた少女にぶつかった。


「あっ」


 小学生がふらつき、少女がそれを支えようと手を伸ばす。その時、丁度その体が反転して、僕の方を見た。


(……違う。車?)


 そう思った時、少女がおもむろに子供たちを建物側に押しやった。


「どいて。広がらないで」


 言いながら子供たちを端に追いやり、逆に自分は車道側に踏み出す。その手前では、ふらふらと走る赤い車が、対向車の白い車を避けるように大きく歩道側に膨らんだ。

 それはさすがに危険だろうと、知らず動悸が逸る。


「ッダメだ!」


 少女を追いかけていた少年もまた、喉が引き裂かれるような声で引き留める。その目の前で、ついに赤い車が少女の目の前に迫った。

 あっと、思わず口が開く。だが、危ないとも、逃げろとも声は出なかった。

 目の前で、落雷かと思うような衝撃音を上げて赤い車が少女を押し潰す、その瞬間を目の当たりにしたあとでさえ。


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