Case.1 小宮希美の場合
少女が走ってゆく。
少年が追いかけてゆく。
私には到底追いつけない、青くて痛くて甘い、風の中で。
◆
夕闇迫る冬の公園で、左右に揺れる犬の尻尾を見つめながら、昨日の夫の言葉を思い出していた。
『専業主婦は楽でいいよね』
それは別に悪意でも何でもなく、世間一般論でさえあると分かっている。
実際、そうだろうと思う。フルタイムで仕事をして、家に帰れば夫と子供の世話をして、時には親の面倒を見ている者もいると思えば、そんなことはないとは、とても言えない。
けれど、それが精神的苦痛が少ないということとイコールではないのだと、時に無性に訴えたくなる。
(……何か)
外に働きに出ている間は、家庭での不満は忘れていられる。外の世界に触れて、差し障りのない愚痴を言って、思考を切り替えられる。そこに大変さや人間関係の辛さがあるとしても、その分だけ家庭のありがたさを噛みしめることが出来るだろう。
けれど、ずっと家の中にいて、日常的に連絡を取り合う友達もいなくて、趣味もなければ。
(……何か、しなくちゃ)
漠然とした不安と社会からの疎外感が、思い出したように襲ってきてこの身を捩り上げる。
それは夫の何気ない発言や、社会と通じていないという孤立を、まざまざと感じる瞬間により濃く臭う。
『家事は給料発生しないんだから、仕事じゃないでしょ』
煩い。
『毎日昼寝できるんだからいいよな』
煩い。
『もっと生産的なことをしたら?』
煩い。
全部全部事実だけど、全部全部煩わしい。いつもいつも、道化のように笑って「そうね」と相槌を打つ毎日が、死ぬまで続くのかと思った瞬間、足元から何かが崩れ落ちる気がした。
(何か……何を?)
けれど、その閉塞感を打破するための何かを、ずっと見つけ出せずにいた。
何か新しいことをする。
その言葉には希望ばかりが詰まっているはずなのに、私には絶望と同じ色に見える。
(もし、そこでも何もなかったら……?)
新しい世界でもなんでもなくて。少しも心躍らなくて。ただ、自分が既に腐っていたのだということを思い知らされるだけだったら。
『また非生産的なことを』
『それって何か役に立つの?』
『それで家事が疎かになるってのは、主婦として価値がないんじゃない?』
昔にも言われた夫の声が蘇る。それは別に侮辱でも皮肉でもないと、分かっている。けれど悪意がないからと言って、傷付かないわけじゃない。
(一歩を、踏み出せない)
踏み出す度に挫けていれば、嫌にもなる。もう若くはないのだと、頭と体が共に訴える声を無視するのすら、億劫だ。
この犬の散歩も、本当は犬を飼いたいと言い出した子供の仕事だったが、高校の部活が始まり帰りが遅くなると、当たり前のように私の仕事になった。
『だって皆が帰ってくるまで暇だろ?』
そんな理由だった。
家族全員が帰ってきた途端、布団に入るその瞬間まで私に自由がないことは、誰も気にも留めない。
毎日感謝してほしいとは思わないが、こんなにも落ち込む日には、たった一言でいいから、労わってほしいと思ってしまう。
(報われない……)
世の主婦は、この報われない無償奉仕の毎日に、どうやって折り合いをつけているのだろうか。
(そんなこと、あの子たちは思いもしないのよね)
ちらりと、公園脇の歩道を行く下校中の学生たちに視線を向ける。この時間は、もう少し早ければ小学生が、今からは中学生が下校を始める。
どちらにもぶつからないように散歩を始めたのに、ぼうっとし過ぎたようだ。
(早く、帰らなきゃ……)
ここにいては、陰鬱とした思考が益々加速してしまう。
ただの帰り道なのに、赤や黒のランドセルを上下させて、楽しげに跳ねていく小学生たち。別れる時間が惜しいと、柵に腰かけていつまでも話し込んでいる中学生たち。
(眩しくて、見てられない)
たった今青春を謳歌していると言わんばかりの彼らを、直視できない。自分もかつてはいたはずの世界なのに、あまりに遠くて、別の世界のようだ。
あははっと、楽しげに笑う声が、自分を嘲っているように聞こえてならない。そんなことはないと、彼らにはこんなおばさんの姿など眼中にすらないと分かっているのに、逃げたくなる。
「風、冷たい」
わざと声に出した。十一月上旬で、まだ着込むほどでもないけれど、肩を縮こませて歩き出す。
「わんっ」
ロビン――保健所で引き取った雑種の小型犬が、返事をするように一声鳴いた。
私を否定しないのはお前だけね、と思ったのに、見ればその鼻先は、自分とは別の方を向いていた。
(あれは……)
その先には、丁度公園を横切るセーラー服があった。紺色の膝下スカートを大きく閃かせて、全速力で北口から西口へと抜ける。
濃いオレンジ色の夕日が、その横顔を照らし出す。
(あの子……)
見覚えのある子だった。たまに夕方の散歩ですれ違うと、ロビンをちょっとだけ撫でていく近くの中学生だ。
けれど今日は、ロビンに気付く余裕はなさそうだった。
「くーん」
歩道に消えていった後ろ姿に、ロビンが寂しそうな声を上げる。その小さな頭を撫でながら、私も同意した。
「泣いてた、ね」
大粒の涙が、ぼろぼろとその頬を濡らしていた。夕日のせいだけでなく目も顔も真っ赤で、何度も俯いては、その度に必死で歯を食いしばって顔を上げていた。
心に余裕のある日なら、青春ね、と思うだけで済ませた。けれど今日は、どうしてもいじけたような思考に偏ってしまう。
(喧嘩かしら。ううん、失恋かも)
三年生なら、そろそろ受験も本番だ。志望校が違えば疎遠になることも多い。片思いの子の中には、告白しようと決意する子もいるだろう。
「……大したことじゃないのよ」
声に出して言ってみた。からからに乾いて、酷く味気ない響きだった。慰めには、とてもではないが向いていない。
けれど本当のことなのだ。中学の時の失恋など、卒業してしまえば、小さなことだったと笑えるものだ。
(……自殺なんか、しない、よね?)
少女が通った西口から歩道に出ながら、少しだけ思考を今に戻す。
振り返れば大したことではなくとも、今の彼ら彼女らにとっては生き死にに直結する問題だ。それが例えば失恋ではなく虐めで、彼女がこの直後に死を決意したなら。
(声をかけなかったことを、後悔するかしら)
きっとするだろうという確信はあった。けれど数度の挨拶しか交わしたことのない年若い少女を、ただ泣いているからという理由で引き留めることなど、一体誰ができようか。
(そんな社交的だったら、そもそもこんな風に悩んでないわ)
自分の考えに、思わず笑ってしまった。
(馬鹿みたい。そこで追いかけて声をかけられるのは、物語の主人公だけよ)
私に、劇的な物語はない。主役どころか、脇役ですらない。
「――待って!」
背後から、鮮烈な声がした。男の子の声だ。
ハッと振り返ると、少女が走っていったのと全く同じ道を、学ラン姿の少年が走ってきていた。
その顔を見たのは一瞬だった。先程の少女と同じ年頃だろうか。初冬だというのに額に汗を浮かべていた。
彼女ほどではないけれど、少年もまた泣きそうだった。辛そうな表情で、大きな白い息を吐き出して。
そして私の横を風のように通り過ぎる、その一瞬。
「ッ」
「?」
目が合った。
気のせいでもなんでもなく、少年は確かに私を見た。驚いたように足を止め、刹那に泳いだ目を、もう一度私に合わせた。
切らした息を肩で吐いて、吸って、口ごもって、それから意を決したように口を開いた。
「…………」
声は、何も飛び出しては来なかった。ただ、潤んだ目だけが雄弁だった。
(……この子が、喧嘩相手かしら)
失恋の相手ならば、彼女を追いかけたりはしないだろう。ましてや、誰かに助けを求めたりもしない。
だから、私は先に目を逸らした。何もできない右手をポケットに仕舞って、無意識にぎゅっと握り締める。
それから、ロビンが引くに任せて、同じ速度で歩き出した。
隣の車道を、赤い車が走っていく。それで正気に戻ったように、少年もまた動き出した。
まるで一分一秒でも惜しむように駆けていく。まだ育ちきっていない少年の背中が、沈み始める夕日に滲んで、すぐに小さくなった。
(……もしかしたら)
私はたった今、運命の分岐点を掴み損なったのかもしれないと、ふと思った。
こんな風に、ささやかな変化を怖がっているから、変わり損ねる。
変わらない毎日が、嫌だと言いながら。
(馬鹿みたい)
結局、自分が嫌いだ。
無邪気に元気な犬に引きずられるように歩きながら、帰路を辿る。
角を曲がって、ベンチの設置された幅広の歩道に出て、対向車線から白い車が通って。
この道を途中で曲がれば、もうすぐ家に着いてしまう。それまでに、この沈んだ気持ちをどうにか整えなければ。せめて表情だけでも、普通に、何でもない顔をしていなければ。
(説明するのも、誤魔化すのも億劫だわ)
そう考えた時、遠く救急車のサイレンが冬の空に鳴り響いた。
「わんっわんっ」
ロビンが、訴えるように吠える。警戒しているのか呼応しているのか。サイレンは少しずつ近付いていた。
「何か、あったのかな……」
呟いてはみたものの、野次馬をする気にはなれなかった。とぼとぼと、また歩き出す。
何も変わらない、退屈なほど平和な家路へと。
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