最終話 魔王の正妻

 そんなこんなで数十日後、私はとてつもない衝撃を受けることになりました。

 そう、お父様が、狂犬の子犬にコロッと騙されて帰って来たのです。半兵衛さんの手の者によりますと噂とは正反対の行動でお父様を出迎えた子犬が、翻弄されつつもお父様と対等に――いえ、それは言い過ぎですね。辛うじて、最初の流れを生かしたまま会談を終えたのだそうです。


「火蝶、尾張の小――いや、信長殿は面白い。儂の愚息共とは比べ物にならん器を持っておる。火蝶に相応しき男であった」


 私の下に訪れたお父様が開口一番口にした言葉です。

 美濃の蝮が、国盗り道三が、こんなにもあっさりと認めるなどあり得ません。美濃三人衆ですら信を得るのにどれ程の時間を擁し、互いの信頼関係になるまでのやりとりは針の筵であったと聞き及んでいるのです。


それが、たった一回の会談で?


 神の存在を知るが故に思う事。神の手が入ったのではと私は考えてしまいます。慎重で狡猾で即断をしても人を簡単に信用しないお父様が、こうも簡単に認める事が信じられないのです。何かが違う、そう思っていても口には出せない私にお父様はなおも告げるのでした。


「火蝶、織田家に嫁いでくれ」


 お父様が言う事に否はないのです。それの行動に神の手が見え隠れしていたとしても。


「承りました。火蝶は、お父様の名に恥じぬことの無い様に勤め上げて参ります」





 後年、私は悔いることになるのです。

 私が‟幸運“であることを認めていれば、お父様は死ぬことにならなかったのにと。気付くべき事件はあったのです。桶狭間での豪雨や海道の怪物の不可解な進軍など本来であればあり得ぬ‟幸運”が信長様に訪れていた事をもっと真剣に考えていれば。


 私の‟幸運“が無くなったお父様に訪れる不運を予見とまではいかなくとも、お父様に気を付けるように文をしたためることが出来たのではと。そうすれば、あの愚息、考えなしの義龍如きにお父様が不覚を取るなど、ましてや家臣が分裂するなど起こらなかった筈なのに。


 そして、私の歯車が狂い始めたのもこの時だったのかもしれない。


 神は、人は、賢く愚かだ。

 そして、優しく惨い。





――天正10年、燃え盛る本能寺


「思えば、この世は常の住み家にあらず、草葉に置く白露、水の宿る月より尚あやし、金谷に花を詠じ、栄花は先だって無常の風に誘はるる、南楼の月を弄ぶ輩も、月に先立って有為の雲にかくれり、人間五十年、化天のうちを比ぶれば。夢幻の如くなり、一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」



 信長様の声が、火の粉が舞い柱の軋む音と共に聞こえてくる。

 舞われているとなれば、覚悟を決められたのだろう。火の海で舞を奉納するなんて、本当に信長様らしいというか、その心境には呆れるほかないわ。似たような経験があるけれど、本当に火って熱いんだよ?


「まあ、あの時は手足縛られて磔だったしさ、でも、信長様は一言も恨み言を言ってなかって本当なの、力丸?」

「はい。お館様は、謀反人が明智光秀と知ると一言、『是非に及ばず』と」


 この子は、信長様が私だけは逃がそうと付けてくれた小姓なのだけれど、若いと言うか自分は信長様と共にというのが顔に出ているのよね。私の時は周りが全て敵だったから、本当に信長様が羨ましいと思うと同時にこの子の想いも汲み取ってあげたいと思ってしまう


「さあ、私の事はいいからお行きなさいな。自分の一番大切な物を守りたいと言う気持ちは何よりも大切だもの。私は守れなかった。お父様の時に御傍に居られなかったの。その時の思いは今も忘れないわ。だから、ね?」


 私は背中を押してあげる事しか出来ない。最後に決めるのは自分でないと駄目だから。


「奥方様、ありがとうございます!!」


 力丸は、熱をもった床に額を擦りつけて私に感謝を伝える。足袋越しでもそれなりに熱いのだから、あの子の額は大変なことになっているわねなんて思っている私は結構余裕があるのかも。槍を片手に走っていく力丸の背中を眺めながら、そんな事を思う私。


「燃え盛る建物の中って熱いの前に、想像以上に息苦しいのね」


 チリチリと肌を焼く感覚を味わいながら信長様の下に向かう。あの子達は信長様の最後を守るために命を捨てるだろう。だから、私がすることはお父様の望みを叶える事。それは、信長様の最後を見届けることだと思っている。


 不思議と私が歩んだ後ろだけが焼け落ちていく。

 いえ、当然だと言った方が良いのかしらね。

 そして、きっと私が辿り着くまで信長様は死なないと思う。



「火蝶? 逃げるように伝えた筈だが?」


 ほらね?

 燃え盛る炎の海をモーゼの如く私が割って信長様の下に辿り着いた。


「はい。お聞きしました。ですが、それでは、あの子が可哀想です。守りたい者を守れないで生きることに何の意味がありますか?」

「それは、俺の命令でもか?」

「はい。当然です。死に際しては、何人も割って入れぬ想いがあるのです。それがあの子、いえ、あの子達にとっては、信長様の最後を汚させぬことなのですよ」

「……であるか」

「勿論、私は私の為すべき事を」


 私の言葉に信長様はしばし目を閉じ考えられました。


「俺は、道三殿の期待に応えられなかったか?」

「はい。残念ながら、あと一歩及びませんでした。それは、光秀などという雑音ではなく、信長様、貴方様の中にある傲慢さが招いてしまったのだと私は愚考致します」



 そう、私は信長様の最後を‟決める権利“があるのです。


「お父様の事は、今でも鮮明に覚えています。私の宝物であり、私の全てでした。そんなお父様が最後を託した貴方様がこのような最後を迎えるのは、断じて許せません。誰にも討たれることなく消えゆく最後など、この私、蝮の娘である火蝶が認めません!」


 信長様が天下人となられれば、私の心の片隅に蠢いていた小さな小さなどす黒く醜い思いなど消えゆく定めでした。


 それが、こんな意味のない死。

 らっきょう頭の無能に天下人への道を阻まれる最後を見るに至っては、私は私ではいられなくなりました。


「では、火蝶、お主にこの首くれてやろう。あの世で父に手渡してやると良い。『信長は道三殿の期待に応えられぬ愚物でした』と伝言してくれれば助かる」


 信長様は床に突き刺していた槍を抜き、私に投げて寄越した。雑兵が使う様な安物ではなく、しっかりと仕上げられた名工の作であることが手に取ってすぐにわかりました。


 どす黒く燃える心の炎が槍を手に取った瞬間に外に噴き出た。黒く燃える炎は身体を纏い、聖騎士の鎧の様相を呈す。しかし、その色が示す様に聖ではなく、邪であることは明白。私の心が黒く塗りつぶされていく。


「斎藤道三が娘、火蝶が参る!!」


 黒炎を纏った聖邪槍が、狙いを違うことなく信長の首を貫いた。


《第六天魔王、信長討ち取ったぁ!! ひゃははははははははは》


 火蝶の口から火蝶の声でない声が叫ぶ。

 火蝶の身体は既に真っ黒に焼け焦げていた。それは、辛うじて人の形状を取っているにしか過ぎない炭人形。人の身に余る炎を纏いし代償であろうことは明白。そんな身体を突き動かす存在など限られている。信長の身体は細切れにされ、見るも無残な死を迎えた。それで満足したのか、火蝶の身体であったものが崩れて消えた。



『はは、笑っちゃうわね。結局、二度も神に踊らされてこの様。ああ、お父様、ごめんなさい。こんな事ならお父様と共に死んでいれば良かった……』



 ジャンヌであり、火蝶である私の最後の言葉と共に意識は闇の中へと沈んでゆく。

 その心に宿るのはただただ父の下に行きたいと願う真摯な願いであった。


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