鬱勃なる森へと

 暗鬱森に足を踏み入れた途端、すさまじい違和感が頭頂から爪先まで走り抜けた。二度目とはいえ、世界から切り離されたような、あるいは深い穴に落ち込んだかのような感覚に慣れることはなさそうだ。


 レフですらそうなのだから、後から続いたリェータの反応はさらに大きかった。彼女は小さな悲鳴とともに背筋を伸ばしたかと思うと、すかさずレフの背中に張りついてきた。歯の根の噛み合わぬ音がかすかにレフの耳にも届いた。


「レ、レフ、ここ、変」


「ああ、おれたちが逃げるにはうってつけの場所だろ? それよりおれから離れるなよ。おっかなくなるのはこれからなんだからな」


「う、うん……」


 リェータが密着するほどしがみついてから、レフは周囲に光球を展開させた。全方位どこから鉄の犬が現れても対処できる構えだ。以前よりは冷静に対処できるのも、リェータが傍にいればこそだろう。レフは周囲に目を光らせるが、鉄の犬が近づいてくる気配がない。


 だが、前回も気配など感じさせぬまま、気づけば眼前にいたのだ。鉄の犬は熟練の狩人よりも巧妙に気配を消すことができる。だとすれば、一瞬の油断もできない。


「前は鉄の犬、後ろはアズレト、こんなすてきな状況、ほかじゃ味わえねえな」


 そう強がらないと、リェータを捨ててまで逃げてしまうかもしれない。そんな臆病さが一瞬ごとにレフの心を支配していく。できることなら、早く現れてほしい。光球を複数出し続けたまま、長時間は耐えられないからだ。平静な状態なら一時程度は体力が保つだろうが、緊張状態を強いられたままではいつ限界が来るかわかったものではない。


 しかし、そんなレフの願いを嘲笑するかのように、森に変化は訪れない。若者が度胸試しのために鉄の森に半歩足を入れただけで上半身がなくなったというほど鉄の犬の迅速さは人知を越えるほどなのに、なぜ今回に限って、こうも反応が鈍いのか。レフにはその意味がわからなかったが、ともあれ、今は前に進むしかない。いや、前に進んでいるつもりでも、一体どこに向かって足を進めているのかも、今となってはわからない。光球が周囲を淡く照らしているが、何の指標にもならない。


 今更だが、この森はおかしいと思わざるを得ない。風が吹き抜けても、木々は一向にざわめかず、下木も下草も生えていない地面は生命の営みがまるで感じられない。生きとし生けるものに恵みを与えるはずの森の中なのに、あるのはただ針葉樹だけで、動くものは鉄の犬のみの砂漠よりも荒涼とした世界だ。生命の拒絶と言うより、まるでこの世に存在する事象や概念すら撥ね除けるかのように、この世界から孤立しているかのようでもある。


 この森に入ってから、どのくらいの時間が経ったのか、レフはすでに時を数える余裕もなくなってきた。頬を流れる汗は顎から滴り落ち、地面に落ちて、水玉模様を作るも、すぐに何もなかったかのように吸い込まれてしまう。


「くそっ、やべえな」


 一瞬でも気を抜けば、光球が消えてしまいかねないほど、レフは消耗してきた。景色は一向に変わらず、ただただ行く手に立ち塞がるように木々が現れては、迂回するといった有様で、精神的な損耗も馬鹿にできなくなってきたところだ。これでもし体力を使い果たしたところに、鉄の犬が襲ってきたら、ひとたまりもない。そういう間の悪さは何度も経験してきたから、今回もそうなることは十分に予想できた。


 ここまで鉄の犬と出会わないとなると、定めて警戒されているのかもしれない。過去、レフは鉄の犬を意のままに操ったが、それをほかの犬が見ていたとしたらどうだろうか。彼らには明らかに知性があり、少なくとも是非を判断するだけの知能が存在することからも、レフという存在を容易ならざる侵入者と位置づけている可能性は大いにある。それ故にレフが体力が限界を迎えるまで待つつもりだとすれば、完全に判断を誤ったことになる。


 もはや引き返すにも、どこをどう歩いたかすらもわからず、人類社会に戻れる可能性も薄い。だとすれば、可能な限り進み、いざとなれば、立ち向かうしかなかった。


 自分の誤断にリェータを巻き込んでしまったことをひどく後悔したが、今更是非を論じても及ばない。この森に入らずとも、何らかの危機には遭ったはずで、元々分の悪い賭だったことを思えば、善戦したと言えなくもない。自己満足に過ぎないが、もうそうすることしか、レフは自分の心を慰める術を知らない。


 とにかく一歩でも遠く追っ手から逃げ、一歩でも近くリェータの故郷に近づく。それを何回、何十回、何百回と繰り返すのだ。レフは重くなる足を引きずり、前へとただ進んでいく。


 その好意が実ったというわけではないが、景色に変化が現れた。今まで均等に生えていた木々がまばらになってきて、最後には広場らしき場所へと出た。頭上には凍てついた夜空が広がっていたが、星々は瞬きもせずただ冷たい輝きを発していた。


 今まで圧迫感しか覚えなかったため、広い場所に来たとき、その開放感にレフはつい気を緩めてしまった。その途端、光球は弾けるように四散し、周囲を照らしていた光源がなくなったために、しんとした暗闇が雪のように降り積もっていく。


 もう一度出さなければと思った瞬間、広場の対面から鉄の犬が現れたが、レフたちをただ凝視しているだけで一向に襲ってくる気配がない。ややすると、鉄の犬はレフたちに尻を向けた。そのまま行ってしまうかと思いきや、数歩歩いては後ろを振り返る。


「ついてこい、言ってる?」


 暗鬱森と暗闇に慣れたらしいリェータがレフの脇から顔だけ覗かせながら、鉄の犬を見て、そう感じたようだ。レフも同意見だったので、光の玉を一つだけ出して、鉄の犬の後を距離を取って追うことにした。一体何が起こっているのか、状況の把握だけで精一杯だが、この流れに身を任せる以外に選択の余地はなく、ついていけば何かしらの答えを得られるだろう。


 広場を抜け、さらに森の中を歩くこと数刻ほど経った頃だろうか、木々の狭間に人為的な痕跡が見られるようになってきた。建物の一部か、加工された石材が一部崩壊して、地面に埋まっていたり、柱らしき円柱が何かを支えるでもなく、ただ立っていたりと、その数は歩むにつれ、増えていく。明らかに文明の残滓がそこにあり、やがて崩壊を免れた建物の一群が見えてきた。


「これ速く走る箱の中で見たのと一緒」


 リェータの観察眼は先入観がないだけに直接的で、実に鋭かった。そう、確かにノーチと同じような建築様式、つまりとてつもなく巨大なのだ。最も小さな平屋でも人間の二階建てに相当するほどの大きさである。


 ただ、ノーチと異なり、遺跡と言うには、古びた感じがない。その割には人影もなければ、生活の痕跡も乏しい。この集落にごく少人数しか住んでいないかのようだ。なのに、誰一人姿を現さない。侵入者がいるとなれば、血気盛んなものの一人や二人くらいはいそうなものだが、ここに住まう人々はずいぶんと臆病か、慎重なのだろう。


 鉄の犬は集落の中を進み、やがて一軒の家の前に辿り着く。他の建物と比して、特筆すべき点はさほどないが、ここだけ建物の屋根の四方からつり下がるランプのようなものに灯りがついていたことと、集落の中央に位置していることを考えると、権威か、権力、あるいはその両方を兼ね備えた人物の邸宅であることが推測できる。


 レフとリェータを連れてきた鉄の犬はその家の扉の脇に行儀よく座り、感情のない瞳で二人を見下ろしていた。番犬と言うにはあまりにも機械的すぎ、置物と言うには殺人をも厭わない物騒さで、とてもその横を通り過ぎる気にはなれない。中に入れと促されているのだろうが、そもそもどうやって扉を開けばよいのかすらわからないのだ。取っ手もなければ、引っかかる場所もない。ただ壁に長方形の切れ込みがあるだけだ。


 レフが珍しく自身の行動に迷っていたが、しびれを切らしたのか、中から腹中に鉛を直接ねじ込まれるような低い声が響いた。


「入りなさい。もしかして、まだ君は気にしているのかい? だとしたら、無用な心配だ。わたしは最初から怒ってなどいないのだから。ああ、それとも扉の開き方を忘れてしまったのかい? しばらく見ないうちにずいぶんと忘れっぽくなったもんだね。なら、こちらから開いてあげよう」


 ずいぶんと一方的な声の主はレフの反論を聞くこともなく、その言葉を実行に移した。扉と思われた場所が突然消失し、内部が露わになった。中は予想通りと言うべきか、家具が異常な大きさであるべき場所へと収まっている。見上げなければならないテーブルの向こうに人影が見えることから、彼がこの家の主人のようで、やはりその大きさは人間の優に数倍はありそうだ。


 招待されているらしいとはいえ、さすがに中に入りかねていると、再び巨人が声を掛けてきた。


「どうしたんだい? ここはきみの家も同然だ。遠慮はいらない」


 何のことかはわからないが、どうやら巨人はレフか、リェータを誰かと勘違いしているようだ。反論しようにも中に入らなければできないし、ここで立ち止まっていても何の益もない。ともすれば、巨人からこの森を出る方法を教えてもらえるかもしれない。そう思って、レフは鉄の犬の脇を冷や汗を流しながら通り過ぎると、何もかも常軌を逸した大きさの家へと入っていった。


 首が痛くなるほど見上げたその先に巨人はいた。人間を大きくしたと言うよりは、樹木と人間を交配させたらこうなるのではないかという風だ。巨人はしわだらけの顔をゆがめて、レフを見つめていた。


「久しぶりだね、ユージェヌ・グレフ。ここにいると時間の感覚がわからなくなるけど、『外の世界』ではもうどのくらい経ったのかな?」


 巨人の口から出た人名にレフは心当たりがあった。間違っていなければ、グレフ侯爵家を立てた祖の名前である。レフはそれを巨人に伝えた。


「百五十年ってところだと思うぜ。あんたの言ってるのはたぶんおれのご先祖さまだからな」


「何だって? もうそんなに時間が経ってしまったのか。なんてことだ」


 巨人は苦痛のうめきを上げ、葉にも似た緑色の頭髪で覆われた頭を押さえた。その口からは哀悼か、それとも呪詛か、どちらともつかない言葉が漏れていた。彼にとって一通りの儀式が終わった後、再び顔を上げ、レフをまじまじと見つめた。


「確かによく見れば、ユージェヌとは違うね。だけど、雰囲気はよく似ている。生き写しと言ってもいいくらいだ」


「さっきからあんた一人が納得しているように喋ってるが、こっちは何が何だかさっぱりわからねえんだよ。できりゃ、最初から説明してくれねえかな? その気がなきゃ、おれたちはこれでお暇させて貰うけどよ」


「ああ、それはすまない。一人で過ごした時間が長かったからね、どうにも人との話し方まで忘れてしまったらしい。まずは自己紹介といこうか。わたしの名はエピゾ。ヒュペルメゲテス・デンドロン族のたぶん最後の一人だろう」


 大陸の各地に巨大石碑文明の痕跡を残したとされる巨人族最後の生き残りを目の当たりにして、レフは知的好奇心がうずくのを感じたが、それを抑えて、自身の名といつの間にか脇に立っていたリェータの名を告げた。この家に入るまでレフの背中から顔も上げなかったくせに、今は目を輝かせて、エピゾを見上げている。


「おまえ、大丈夫なのか?」


「うん。あの人、たぶんいい人」


 リェータの野生の勘は信じるに値することは今までの経験からもわかっていたので、あえて異論は述べなかった。少なくとも、いきなり危害を加えることはないだろう。


 そう思えるほどまでにエピゾは友好的だったが、あくまでもレフにユージェヌとやらの面影を見たからであって、決して寛容の精神からではないのも明白だった。もし、エピゾが人と交わることをよしとしているのならば、鉄の犬を森に放つことはしないはずだからだ。


 エピゾの逆鱗が奈辺にあるのかは定かではないが、あまり刺激しない方がいいのだけはわかる。まともに戦えば、エピゾの軽い一撃で何もかもが終わってしまうからだ。


 なれば、ここから抜け出す方法でも聞き出すべきだが、円満に別れるためには多少の意思疎通は必要だろう。まずは軽めのことから聞いてみようと、レフは口を開いた。


「いくつか聞きたいんだけど、おれのご先祖様は一体あんたに何をしたんだ? 怒ってるとか、怒ってないとか、何のことなんだよ?」


「ああ、そのことかい? 彼はね、この家からいろいろなものを持ち出したのさ。まだきみたちには使いこなすことはできないと言ったのだが、彼はここにある技術を使えば、人々の生活をもっと豊かにできると聞かなくてね」


 手癖の悪さは血筋によるものらしく、グレフ家はユージェヌからレフに至るまでろくでなししか輩出しなかったというわけだ。自分はどうやらグレフ家の正当なる血を引いていたらしい。淫売だと思っていた母は父の種のみを産んだのだ。これが感激でなくてなんだろうというのか。


 軽い気持ちで聞いたことが、思わぬ方向からの殴打となって、レフをふらつかせる。盗品で侯爵位を得たというのが、何とも自分の先祖らしいのが皮肉に過ぎよう。


 しかし、見方を変えれば、ユージェヌがエピゾからくすねてきたものが、技術の飛躍をもたらし、結果として東西世界の融合を果たすことになったのだから、すべてが悪かったとは思えない。所詮は道具の用い方次第ということだ。包丁で食材を切ることもできれば、人を刺すこともできるのだから。


 先祖の因果が子孫に報うというわけでもなさそうだが、ここでエピゾと出会ったのも何かの縁と思うことにして、レフはわびることにした。


「いや、なんかすまねえな。ご先祖さまが迷惑掛けたみたいでよ」


「先ほども言ったけど、わたしは怒ってなどいないよ。ただ、一つだけ聞きたい。ここから持って行ったものは、きみたちの役に立ったのかどうかを」


「立ったと思うぜ。この百年で人類ってのは大きく発展したからな。まあ、それも自分たちで勝ち得たものじゃなかったのは間抜けな話だけどな」


「それはよかった。ここにあるのはわたしたちの文明を破壊したものばかりだからね。実を言うと、危惧していたんだよ」


「危惧してた? だったら、それを直接言えばよかったんじゃねえの? 確かにあんたが外に出たら、いろいろまずいだろうけど、あんたらほどの技術があれば、それができたんじゃねえのか?」


「残念だが、わたしたちも万能ではないのだよ。そうだな、たとえば情報を世界中に送信できる装置があるとしよう。だけど、受信できなければ何の意味もない。そう思わないかい?」


 エピゾの言葉は理にかなっている一方で、腑に落ちないものをレフは感じていた。伝達手段くらい、彼らが用意できないとは思えなかったからだ。その不審が顔に出ていたのか、レフの思考を読み取ったかのようにエピゾは説明を付け加えた。


「納得できないという顔をしているが、本当にないんだよ。ここから出たら、まずいときみは言ったが、実はそうなんだ。わたしはこの森を出ると死んでしまう。表現をずいぶんとはしょってはいるけど、まあ、そういうことだ」


「余計意味がわからなくなったぞ。ちゃんと説明してくれよ」


「ああ、すまない。自分でわかっていることを他人に理解させることがどうにも苦手でね。それを話すにはこの森がどんな場所かを知らなければならない。この森は周囲と比べて、時間が止まっていると思われるぐらいにゆっくりと進んでいるんだ。つまり、ここで心臓が一回鼓動する間に、外の世界では百回心臓が動いているという具合だね」


「ちょっと待ってくれ。だとしたら、おれたちがここに居続けたら、外の世界では百年とか、二百年とか進んでしまうってことか?」


「その通り。これでわかっただろう。わたしはこの森に気が遠くなるほどの時間を過ごした。外に出た途端、時間の流れがわたしに襲いかかり、あっという間にこの身体は朽ちてしまうだろう。だけど、まあ、きみたちはそれほど焦る必要はないよ。ここで疲れを癒やす程度ならば、きみたちの時間軸がこの森と一体化することはないからね」


 それがどこまで信に値するか、わかったものではない。そう思ってから、レフの脳裏に天啓が舞い降りた。これは逆に利用できないかと思ったのだ。仮にここで一日過ごしたら、外では一ヶ月経っていたとしよう。アズレトを初めとした追尾者はどう思うだろうか。よもや暗鬱森に潜むはずがない。監視の目をかいくぐって遠くへ逃れたのだと思うのではないか。少なくとも常人ならば、そう考えるに違いない。


 さらに考えを進めれば、暗鬱森にほとぼりが冷めるまで潜んでいればいいのではないだろうか。


 いや、妙案だと思われたこの策には重大な欠陥があることに、レフはすぐ気づいた。エピゾの言葉を借りれば、外に出た瞬間、二つの世界の時間差を埋めるために急激な加齢が伴うはずだ。体感時間と実時間の差異は心身にどう影響するのかと思うと、うかつに試すわけにもいかない。そもそもそういった微調整ができるような環境でもないだろう。


 そうなると、どうしても聞いておかなければならないことができた。聞くのは勇気がいるが、レフは意を決して、エピゾに訊ねた。


「なあ、だとしたらさ、うちのご先祖さまは一体ここに何日滞在したんだ? 一応生きて出られたってことは、それほど長い間ここにいたわけじゃないんだろうが」


「そうだね……たしか十五日かそこらだと思ったけど。いや、彼と過ごした時間は実に楽しかったよ。わたしも外の世界のことが知れて、なんだかこの世界の一員に戻れたかのような錯覚を受けたほどだからね」


 エピゾが目を細めて、懐かしむ一方で、レフの頭脳は必死に計算を始めていた。ユージェヌが暗鬱森で二十日滞在して、外の世界では何年経ったのか、考えるだに恐ろしいが、確認せずにすむことではない。レフは重ねて、エピゾに質問した。


「ご先祖さまがあんたを楽しませたのは何よりだけど、外の世界じゃ一体何年経ったのか、わかるか?」


「さて、それはわかりかねる。ただ、試算らしきものは、この森に閉じ込められたときにしてみたがね」


「それを知りたいんだ。教えてくれないか?」


「四十四年ってところだろうか。きみたちの暦に合わせるとそうなるが。もし、わたしの計算が正しいなら、わたしはユージェヌにひどいことをしたことになる。彼と一緒にいたとき、内外の時間差のことなどすっかりし常念してしまっていたのだから」


「よっ……」


 レフはあまりの事実に鸚鵡返しすらできずに言葉を失った。つまり、単純計算すると、暗鬱森での一日が外の世界の約三年に相当するということだ。たった十五日で四十四年もの年を重ねたユージェヌの心境もさることながら、自分たちもそうなるかも知れないとの恐怖がレフの心臓を冷たい手でわしづかみした。


 二の句を失ったレフにエピゾは弁明のような言葉を付け加えた。


「あくまでも試算だよ。何の根拠もない、ただの暇つぶしでやって計算さ。そんなに悲観的になることはないと思う。その計算というのも単純に自乗数倍しただけなんだ。つまりこちらの一日が向こうの二日、二日が四日、三日が八日という具合にね。で、十五日目が三万二千七百六十八日になって、年に直すと八十九年……あれ、計算が合わないね。となると十四日だと思う、ユージェヌが滞在したのは」


 エピゾの計算がレフの救いになるわけもなかったが、逆算して考えると、内外の差を一年以内に留めようとすれば、八日は滞在できることになる。もっとも、その計算が正しいのかどうかはわからないが。


 しかし、レフには以前暗鬱森に入り、抜けたという経験から現況と照らし合わせることができた。あのとき、暗鬱森に潜んでいたのは三刻ほどだ。追われている立場だったので、時間感覚が正しいのかどうかはいまいち不明な部分があり、周囲の状況など深く観察する余裕もなかったものの、今思い返せば、昼間に暗鬱森に入って、出たら夜だったような記憶がある。追ってきた警邏隊がすっかりどこかに消えたのを安堵した記憶の方が遙かに強くて、深く気にもとめなかったが、日付も変わっていたかも知れない。


 アズレトの裏を掻くためにも、ほんの少しだけ滞在してもいいのかも知れない。そう思ったとき、エピゾに先を制されてしまった。


「まあ、少し休んでいくといい。そこのお嬢さんはもう限界みたいだからね」


 エピゾにいわれるまで、リェータの存在を忘れていたレフが彼女を見てみると、なんと立ったまま寝ようとしているではないか。


「おまえ、今日一日寝てたんじゃねえのかよ?」


「寝て……ない。だって、音うるさい、眠れ……ない」


 確かにあの電導貨車が発する騒音の中、いくらリェータの神経が図太いとしても眠れるものではあるまい。


 仕方がない。レフは肩をすくめて、一泊の宿を求めることにした。エピゾは快く受け入れてくれ、寝床まで提供してくれたが、レフにはユージェヌがどのような人生を送ったか、詳しく聞かれたためについに休むことができなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る