第四話 終着点

包囲網

 暗鬱森の守人にして、時間の牢獄に捕らわれた咎人のエピゾとの対話はレフにとってまるっきり無益なものではなかったにせよ、何度も睡魔に襲われては無理矢理起こされて、ほとんど頭の中に内容が入ってこなかった。


 ただ、一つだけはっきりと頭に刻印された逸話がある。それはこの森がなぜこうなったかという原因だ。


 エピゾがこの世に生を受けたとき、彼の種族たるヒュペルメゲテス・デンドロン族は種の衰退期に入っていたという。高度な文明を打ち立て、この世界をあまねく支配し、それだけでは足りず、星々の彼方にまで手を伸ばしたほどの強勢ぶりを誇った彼らも緩慢で着実な滅びへと向かっていた。


 当然のことながら、彼らの自己保存の本能は滅亡に抗った。そこで彼らが行ったことは身体の不老化である。体内に流れる時間を止めてしまえば、永遠に死ぬことはない。単純な道理だけにこの世界の真理に近いところに彼らは辿り着いたと言えよう。


 彼らの試みはある程度成功した。ただし、それは失敗以上の惨事でもあったのだ。彼らがなしえたのは「限定的な空間における時間の遅延」であり、世界そのものを崩壊に追い込みかけない危険なものだった。


 現に世界の時間軸から切り離された空間は徐々に乖離していき、終いには全くの異物へとなりはてたのだから。その異物は排除されることなく、今もなお現存していることが不幸であり、さらに不幸なことに解除する手段を持ち得なかったことにある。


 いずれ人類の科学文明がかつての巨人族以上に高度なものとなったとき、エピゾは解放されるのだろうか。それまで彼はたった一人であの森に居続けなければならない。たまたま鉄の犬に殺されずに彼の元に辿り着いた「不運」なものが彼の無聊を慰めるにしても、膨大な時の砂に紛れ込んだ一粒の砂金のようなものでいずれは埋もれ、見えなくなってしまうだろう。


「あの人、かわいそう」


 レフとエピゾ、二人の会話をどこまでリェータが理解できたかは定かではないが、その一言にすべてが集約されていると言えよう。この集落にはエピゾのほかに十二人の仲間がいたそうだが、いずれも永遠に続く責め苦に耐えられなくなり、自ら森の外に出て、命を絶ったのだという。エピゾがそうしなかったのは、彼の精神がまだ柔軟性を失っておらず、それが彼の孤独をさらに大きなものとしていた。


 カストルム方面へ鉄の犬に先導されながら、レフは改めてエピゾの邸宅を振り返った。リェータが言ったように、彼に同情する以外どんなことができると言うのだろうか。いつかエピゾは満足のうちにその生を閉じることができるのか、あるいは外の世界の住人に復帰できるのか、どちらになるにせよ、その魂が安らかであることを祈らずにはいられなかった。


「祈る、か」


 かつてのレフならば、他人がどんな目に遭おうと冷酷に無視できた。今は目を背けることが卑怯だと思えるようになってきている。その変化がレフを戸惑わせる。小悪党が人道主義者を気取ってどうするのかとの内なる声が責め苛むも、リェータを見ていると、それが不思議と自然なものに思えてくる。今は心の最奥から聞こえてくるかすかな声に耳を澄ませ、その導きに従おう。偽善だの何だのとはすべてが終わってから考えればいいことだ。


 レフに変化をもたらした当のリェータは昨日とは打って変わって、鉄の犬に興味津々の体でその周りをうろついたり、返事がないとわかっているのに聞き慣れない言葉で話しかけている。どうやらリェータの故郷の言葉らしいが、全くわからないので、疎外感もひとしおである。


 つい、リェータに掛ける言葉に棘が混じってしまう。


「おい、リェータ。おまえ、昨日までその犬のこと怖がってたじゃねえか? 何だって、今日に限ってご機嫌なんだよ?」


「え? 今日は怖くないよ」


「おれに言わせりゃ、昨日と何も変わんねえよ。あの口見てみろよ。おれらなんて一噛みであの世行きだぜ」


 レフに言われて、改めてリェータが鉄の犬を観察したところ、急に青ざめた顔をして、身体を震わせた。そのままさりげなく距離を取って、レフの後ろへと戻ってくる。どうやら鉄の犬よりは魅力的だとリェータに思われているらしいと知ったレフも悪い気はしなかったが、次の瞬間には人外の存在と比較している自分が情けなくなり、つい溜息をついた。


 ただ、リェータが鉄の犬の違いを察したのは間違いではなかった。エピゾが言うには、暗鬱森には八頭の鉄の犬が巡回しており、彼らは「侵入者を排除せよ」との簡単な命を受けているが、そのほかにユージェヌだけは通すように伝えてあったらしい。エピゾですら勘違いしたレフを鉄の犬が客人のように遇したのは偶然ではなかった。つまりは光球による瞬間催眠など用いずとも、レフの言葉なら鉄の犬は従ったということだ。


 さらにエピゾと鉄の犬は意識を共有することができ、今、レフとリェータを森の外に案内しているのはエピゾだと言ってもいい。リェータが鉄の犬に親愛の感情を向けたのは、初対面から悪感情を持たなかったエピゾの雰囲気を感じ取ったからなのだろう。


 いっそのこと、森の外までお供してくれれば、旅の頼もしい力になろうが、そううまくいかないのが世の常だ。エピゾと同様、鉄の犬もまた森の外に出たら、膨大な時間の流れに耐えきれず、一瞬にして塵と化してしまう。もし残るとしたら、エピゾが暮らしていたあの集落の建造物くらいだろう。


 あの建物の建材は石でできているようで、何か別の素材で作られたかのような印象を受けた。手触りが石のそれとは全く違うからだ。無機物特有の冷たさがなく、ほのかに温かい。


 視点を変えれば、生物のようで気持ち悪いが、その石が今レフとリェータの首から下がっていた。単なる石の破片に穴を開け、そこに紐を通した簡易なもので、とてもお洒落とは言いがたい代物だ。エピゾが友情の証というので、やむなく貰っておいたが、こういうのは売れないし、また、捨てられないから困る。森を出た瞬間になくなってくれるのが最もよいが、経年劣化を受けにくい素材らしく、あまりその点は期待できそうにない。


 レフは紐を摘まんで、石を掲げて、よく観察してみた。何らかの鉱石だったら、金銭的な価値も生じようが、見た目は本当にただの石だ。うっすらと赤く見えることと、非常に硬いのが特徴だ。持っていたナイフで表面を削ってみたものの、ナイフの刃の方が欠けてしまったほどで、石の表面には擦り傷一つついていなかった。今の人類にとっては未知の物質だろうが、学者ではないレフには今のところ使い道がない。暗鬱森に入った証明と言っても、誰も信じてはくれないだろう。


 そうやって、レフが石を観察していると、リェータもまた懐から石を取り出して、レフのそれと合わせてみせる。何がおもしろいのか、リェータは健康的な白い歯を見せて、笑った。


「おそろい」


「おれには同じには見えないんだけどな」


「同じ形違う。でも同じもの」


 どうやら、リェータは同じ素材でできていると言いたいのだろう。それを言ったら、今リェータが着ている服とレフのそれは同じ繊維でできているから同じものと言っているようなものだが、レフはあえて、指摘しなかった。余計なことを言って、リェータを怒らせる面倒はごめんだ。


 ふとそう思ってから、なんと和やかな旅路だろうと、レフは苦笑せざるを得ない。これで本当に追われていなかったら、どんなによいか。リェータの故郷にまっすぐ行かずとも、この大陸のあちこちを見て回れたであろうに。妄想とはわかっていても、ついそう願わずに入れらない。


 しかし、現実は常に非情だった。レフは決して忘れていたわけではないが、やはり心のどこかに隙ができていたことは否めない。暗鬱森の西端へと到着する直前、突然鉄の犬が歩みを止めた。何事かと鉄の犬の影からその前方を窺うと、そこには外の世界が広がっていたが、感激とは無縁の光景が広がっていたのである。


「アズレト……! 何でここにいやがるんだ!」


 レフは慌ててリェータを抱きかかえると、近くの木の陰に隠れた。それからもう一度顔だけ出して、確認するも、一度見た光景が変わることはなかった。アズレトと機甲兵が暗鬱森の外側に展開していたからである。暗鬱森の境界線を直線にしたら、グラン・ユグムから大陸西端までの距離になろう。にもかかわらず、一点だけに絞って、張り込んでいるなどあまりにも常軌を逸している。


 レフが真っ先に疑ったのはヤンとユリヤの存在であるが、暗鬱森に入るとは彼らに言ってないことを考えると、まずない。レフはよりにもよってヤンとユリヤにわずかでも疑念を抱いた自身の不明を恥じ、思考を刷新し、もう一度初めから考え直した。


 考えられるのは監視の目に止まってしまったことだ。アズレトとの邂逅で余裕を失ってしまい、つい周囲の警戒をおろそかにした。レフの目からすれば、隠れられるような場所はなかったはずだが、確信をもって断言できるわけではない。


 やはりここは一部始終を見られていたという前提で話を進めるべきだろうが、一つ疑問が生じる。監視者はレフとリェータが暗鬱森に入ったところも見たはずだ。アズレトに報告したとしても、逃げられないと観念した二人が心中のために暗鬱森を旅の終着地に選んだと判断してもおかしくはない。いや、アズレトとしても、リェータを無理に追うことに利益はない。彼ならば、主人であるヨシフをどうとでも言いくるめられるからだ。


 よもや暗鬱森を東側のベクラ北道から入り、西側のカストルム西北道と西道をつなぐズミヤ旧道へ抜けるとはまず誰も考えない。暗鬱森を踏破したものなど、少なくとも公式にはいないのだから。それなのに、なぜアズレトはレフとリェータが暗鬱森を近道として利用すると考えたのか。そこに至るまでの材料があまりにも少なすぎ、そもそも何をもって判断の基準にしたのか、考えれば考えるほど答えは霧の中へと消えていくかのようだ。


 しかし、アズレトの思考過程を辿ることにあまり意味はなく、彼が何らかの方法で逃走者を追尾できる能力が備わっていることを認めるべきだろう。その前提を踏まえた上で今後の逃走路を考えようとしたが、ここで恐るべき答えがレフにもたらされた。


「やべえぞ、おれたち、逃げ場がねえ」


 仮にベクラ北道へ戻るとしたら、南北から挟撃される恐れがある。北のカストルム西北道と南のカストルム西道も同様だ。暗鬱森は時間が緩やかに進むので、どう逃げてもアズレトたちの足が一歩も二歩も速く現場へと到着できるからである。


 レフは歯がみした。いっそのことここで数日過ごすべきか。奴隷探索が長期に渡れば、拘束時間が増える部下たちの不満も募ろう。何よりもヨシフがしびれを切らすかも知れない。そう思ったが、あまりにも危険が大きい。今こうしている間にも外側はどのくらい時間が経っているのかもわからないからだ。エピゾ本人も自分の計算は当てにならないと言及していただけにこれ以上とどまるのは得策ではない。


「ちっ! だからか……」


 アズレトが暗鬱森を出てきたレフとリェータを確保するために身を隠さず、ズミヤ旧道に堂々と姿を晒しているのは、逃げ道を完全に塞いだという示威行動に他ならないからだ。暗鬱森西側だけを押さえて、後は監視の報告を待っていれば、どこにでも急行できる態勢だ。抜かりはほとんどなかった


 何かアズレトを出し抜く方法はないか、レフは鞄から地図を取り出そうとしたとき、腕の中に抱えたリェータが小声で何かを訴えていることに気づいた。レフは顔をリェータの横顔に近づけると、彼女は吐息のような悲鳴を上げた。接触している部分から伝わる体温も高く感じる。何か異常が起こったかと、レフはリェータに声を掛けた。


「おい、大丈夫か? おまえ、顔真っ赤じゃねえか?」


「レフ……こういうの、だめ。抱っこするの、赤ちゃんと好きな人だけ……」


 何を言っているかと思えば、密着しているのが恥ずかしいときた。昨日など自分から背中に張りついてきたではないか。どこまで純真なんだとあきれる思いだが、下手に抗弁しない方がこの場合、正解であることをレフは本能的な部位で理解していた。故に素直に謝った。


「ああ、悪いな。でも、ちょっと、おれの後ろ見てみ?」


 リェータはまだ赤い顔をしたまま、レフの身体越しに背後を見た。すぐにアズレトを見たのだろう、「あ」という声とともに再びレフの腕の中へと帰ってきた。顔色はまるで氷水に浸かったかのようにすっかり冷めて、身体は極寒の地にいるかのように震えている。


「な、なんで、あの人いる?」


「そりゃ、おれが知りてえよ。だけど、あいつ、ずいぶんとおまえにご執心のようだぜ」


「ゴシューシン?」


「ああ、すげえ好きって意味だ。おれよりよっぽど将来性があって、男としては有望だぜ」


「いや。わたし、あの人嫌い。怖い」


 リェータのアズレトに対する強烈な拒否反応を見て、レフはつい胸がすくのを覚えてしまった。さらに優越感を抱きかけたところで、その恥ずかしさに気づき、レフも顔を赤くするも、そそくさと鞄の中から地図を取りだして、広げた。同時にリェータの目の前に出すことでもあったので、彼女は不思議そうに複数の色で色分けされた図をまじまじと見つめた。


「これ、何?」


「地図だよ。知らねえか?」


「聞いたことある。いろんな場所書いてある」


「まあ、そんなところだ。で、おれたちが今いる場所がここだ。で、こっち側へと行きたいが、奴らが邪魔してる。たぶんどこからこの森を出ても、あいつらの方が先回りしてくる。それで、今どこから逃げようか、考えているところだ」


 どうやらリェータも一緒になって悩んでくれるらしく、腕を組み、真剣な表情で地図を睨んでいた。レフも負けじと地図と向き合うが、どうにも考えがまとまらない。そこにリェータが地図上のある一点を指さした。


「レフ、ここ行ける?」


 リェータの人差し指の先にはジュアムの文字が躍っていた。かつてのジュアム辺境伯領のことで、カストルム皇帝を三人も輩出した名門が治めていた。地理的にはベクラの南にあり、同じように南北に長い地域、西側をカストルムと接しているのも同様だ。


 地形は東部のグラン・ユグムに近い場所を除き、平坦だが、土地は痩せていて、耕作には向かない。帝国領に編入してから、帝国資本の工場が立て続けに建てられ、今日では電導車の生産世界一の座を獲得している。


 最初、レフはリェータの案を言下に却下しようとしたが、ふと思いとどまった。地図とかつて読んだことのある書籍を記憶の中から引っ張り出したとき、何かが結びつきそうになったからだ。像の焦点を結ぶのは骨が折れたが、その甲斐もあって、レフは一つの答えに辿り着いた。


 ジュアムは東部リグーシカ湖畔の工業地帯を中心として、その周囲に労働者たちが住まう居住地域とに分けられている。城壁がないために都市化が広域化していき、ついには地域全体が一つの都市を形成するようになった。その賑わいは西都に及ばずとも、帝国第二の都市にして、かつてのカストルム連合帝国の都カストリアにも匹敵するという。カストルムのように反帝国の気質は薄いとはいえ、一時的に身を隠し、危難をやり過ごすには持って来いの場所であろう。


 さらに逃走者にとって都合のよいことに、電導車を輸送するために帝国全土に蜘蛛の巣のように張り巡らされた鉄軌網の集積地でもあった。南北、および、西への国内線、南への国際線があり、いざとなれば、国際線の貨物室に乗り込めば、距離も稼げよう。


 利点はもう一つある。電導車のことだ。特に電導二輪車は小回りがきき、購入するにせよ、盗難するにせよ、逃走手段の幅を広げることにもなる。行ってみる価値は充分にある。


 しかし、ジュアムへと歩を向ける欠点は利点を大きく上回る。というのも、暗鬱森南端からジュアムまで徒歩で二日ほどかかることだ。その間、身を隠す場所も少なく、いくつかの村もある。都市とは異なり、閉鎖的な部分が強い村などでの異邦人の姿は異常に目立とう。


 レフの中でしばらく利点と欠点、どちらがより可能性が高いか、葛藤していたが、結論は意外に早く出た。どちらにせよ、西か、南に向かう手筈になっていて、西がふさがれたのだから、南に向かうしかないではないか。北や、もう一度ベクラ北道に戻ることも考えたが、包囲網が狭まるだけでいいことはない。むしろ外側へと突き破った方が逃走の確率は高まるであろう。譬えそれがわずかなものでも賭けてみる価値はある。


「よし、おまえの言うとおり、ジュアムに向かうぞ。と、その前に一芝居打っておきたいな」


 レフは傍で直立のまま、全く動かない鉄の犬を呼び寄せた。まるで忠犬のように、レフの前に座り直す。


「なあ、おまえ、ほかの仲間って呼ぶことできるか?」


 レフの言葉を認識したのか、鉄の犬は虚空に向かって吠えるまねをした。リェータが咄嗟に耳を手で押さえたことから、レフには聞こえない音を出したのだろう。それからほぼ一瞬のうちにレフたちは鉄の犬八頭に囲まれていた。さすがにこれだけ揃うと壮観と言うより、空恐ろしさだけが際立つ。リェータなどここしか安全な場所はないとばかりにレフの胸に顔を押しつけ、視界を閉ざしてしまったくらいだ。


「おいおい、全頭きたら、侵入者を誰が撃退するんだよ。ここに案内してきた犬と、あと三頭だけ残ってくれ。ほかは森の安全を守る仕事に戻ってくれよ」


 鉄の犬の中で誰が残るかとの議論は一瞬で終わったらしく、四頭はすぐに森の奥へと消えていった。レフはそれを見届けた後、旅行鞄からレフとリェータの服を無造作に一着ずつ取り出した。何をするのかとの表情で見つめるリェータに対し、レフは小さく謝った。


「悪いな、リェータ。ユリヤに買って貰った服、一着無駄にするぜ。後でもっといいのを買ってやるから、今は我慢してくれ」


 そう言うと、リェータの了承を得ることもなく、二頭の鉄の犬にそれぞれ衣服をくわえさせた。


「おれたちが大声を出したら、おまえたち二頭は森の際を人間が走る速度で北に向かってくれ。で、そっちのおまえは吠えながら……あれ、鉄の犬って吠えるのか? いや、まあいいや、とにかく吠えることができたら、そうして前を走る二頭を追ってくれ。声が出せないなら、なんか獲物を追っている風に暴れてくれればいい。できるか?」


 鉄の犬からの返答はないが、彼らはレフの命令を理解したようにわずかに離れた場所で待機した。


「よし。じゃあ、リェータ、一二の三でありったけの大声を出せ。いくぞ、一二の三!」


 レフとリェータは大きく息を吸い込むと、あらん限りの大音声を発した。もし、森に鳥や獣がいたら、慌てて声のした方とは逆方向に慌てて逃げ出すであろうほどの声はその外側にも轟いたらしい。突然、森の奥から大声がすれば、歴戦の勇士といえどもひるむであろう。


 しかも、逃げ回るふりをする鉄の犬の演技が絶妙で、衣服が森の外にわずかに出るように走っている。さらにそれを追う鉄の犬も吠えこそはしなかったが、何かを追っていることを強調するかのような動きをしている。森の外からは誰かが鉄の犬に追われていると誤認しても仕方がないだろう。


 ただし、これも冷静になれば、暗鬱森に人が入ったまま、出てこないことはないことに気づくはずだ。ほんの少しだけ気を逸らせればいい。


 レフの思惑は思った以上にうまくいきそうで、アズレトとともにいた機甲兵が北へと鉄の犬を追っていった。それを見て、レフは今まで案内してきた鉄の犬の前足を軽く叩いた。


「おまえはおれたちを森の南側へと導いてくれ」


 レフの呼びかけに従い、鉄の犬はゆっくりとレフたちが歩く速度で南へと歩を向けた。その後にレフとリェータが続く。


 このとき、レフは逃げることに夢中になっていて、森の外に注意を払うことを忘れていた。機甲兵がいなくなったその場所で、アズレトがただ一人残って、見えるはずのない森の奥を凝視していたことにも気づかなかった。


 しかし、アズレトはやがて機甲兵とともに馬首を北へと巡らせると、そのまま走り去っていった。

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