南へ
西都ヴィェーチルの南門を過ぎてから、三刻ほど過ぎたが、まだヤンが運転する電導貨車は追いつかない。かなりの骨董品だったので、速度は出ないだろうが、そろそろ合流してもおかしくない時間だ。なのに、機械音の一つも聞こえない。その代わりに機甲兵を一体見かけた。これ見よがしに突っ立っているところ見ると、やはり囮なのかもしれない。
「こりゃ、国境越えるまで気が抜けねえな」
最低でも一ヶ月は緊張を強いられることになり、レフはうんざりしたようにかいてもいない汗をぬぐうふりをした。そういうレフはどこかの若様の気ままな一人旅という様子で、しかも自分の体力を過信し、疲れているという演出までしてみせたのである。これで誰も監視してなかったらが、ただの間抜けだが、何もかも怪しく見える中で道化の化粧を落とすわけにはいかない。
レフにとって幸運だったのは、西都から出てくる人がそれなりにいたことである。誰もが祭り好きというわけではなく、喧騒を逃れ、郊外や隣接都市へと逃れるように小旅行するものもいるというわけだ。南門から最も近い街スドナでも徒歩で半日ほどなので、鉄軌道車も寄り合い貨車も利用しないものも多い。
どうにかスドナまでヤンが追いついてくれればとの淡い期待は脆くも崩れた。どこかで捕まったか。引き返すべきか。いや、それでは不自然すぎる。信じて待つほかない。レフの脳裏で最悪の展開が繰り広げられるも、打開策は一向に出てこない。
「くそっ、ヤンのやつ、どこで道草食ってやがんだ?」
進退の決断を迫られたレフはつい毒づいたが、それで事態が改善するわけでもない。こんなことなら合流地点を定めておくべきだったと後悔した。すでに日は傾き、空は茜色と灰色と群青色が空の支配権を懸けて争っている。後数刻もすれば、完全に日も沈んでしまうだろう。
進むにせよ、退くにせよ、どちらにも利点と欠点が同質同量に存在する。夜間、徒歩での一人旅など目立って仕方がないというもので、監視者の立場からすれば、より怪しく映るに違いないのだ。かといって、スドナで待つのもまずい。ヤンの行程ではスドナでは止まらないことになっているからだ。なまじスドナで足を止めてしまい、その間にヤンに追い抜かれるという事態だけは避けたい。
となれば、そのまま進むしかない。レフは意を決して、スドナ大橋を渡っていく。スドナはグラナート河の南北両岸に建設された街で、かつてはここがヴァラール王国の国境地帯となっていた。かつてのヴァラールは徒歩で半日も行けば、そこが国境になるほどの小さな国だったことがわかる。それが今や大陸の覇権国家となったのだから、何が起こるか、わからないものだ。
このスドナ大橋を越えれば、かつてのベクラ公国だ。葡萄の国とも称されるほどの葡萄の産地で、かつ北限であるともされる。土地の水はけがいいので、葡萄以外の作物が育たなかったとも換言できるが、ベクラで生産された葡萄とその加工品は遠く海外からも買いつけに来るほどだ。
このまま南に進めば、ベクラだが、グラナート河に沿って西に進めば、カストルムへと行ける。実はヴィェーチルの西門から出ても、公路は大きく南へと湾曲し、カストルム方面に続いている。どちらにせよ、カストルムへは赴けるのだが、西門から出た方が若干距離が短いので、カストルム方面へは西門から出るのが一般的だ。
レフの計画ではスドナを渡りきったところで、ヤンと別れ、西に進むつもりだった。ベクラに進むと見せかけて、カストルムへと向かうのは、やはりその土地が帝国にとって難治の地だからである。いくら反帝国組織が役に立たないとしても、強引なことをすれば、民衆の反感を買う。カストルムには追っ手を攪乱させるためにも行くべきであろう。
しかし、その手段は断たれた。そのまま南に進めば、ベクラの首都だったベクラート、そのさらに南に行くこと一日まで西進はできなくなる。なぜなら、カストルムとの境には暗鬱森が広がっているからだ。この森に入ることはすなわち自殺行為と同義であるのは、帝国民であれば誰でも知っていることだ。帝国は支配した地域すべてに人の手を加えたが、グラン・ユグムとこの暗鬱森にだけは未だ開発が及ばないところでもあった。間違って入らないよう進入禁止の標識が森の周囲に鬱陶しいくらいに立てられているほどだ。
暗鬱森が危険なのは木々が密生して、その下が闇夜のように暗いこともあるが、何よりも森の唯一の生物である「鉄の犬」の存在が大きい。身の丈は人の数倍もあり、六本足で闊歩し、獣毛の代わりに鉄の針が生えている生物を犬と呼んでいいものかどうか、学会でも意見が分かれるところだが、一つだけわかっているのは森に一歩でも踏み込めば、どこからともなくやってきて、侵入者を容赦も慈悲もなく噛み殺してしまうことだ。
かつて帝国自慢の機甲兵も暗鬱森に挑み、鉄の犬に対抗できるだけの武力もあったのだが、鉄の犬は攻撃を受けてもすぐに修復する機能があり、何度倒しても蘇っては向かってくるため、ついには機甲兵が鉄の犬の強靱な牙に食い千切られてしまった。それから帝国は暗鬱森に手を出さなくなったのである。
誰も横断、ないし、縦断したことがないとされる暗鬱森を、レフは横断したことがあった。ブラート救児院を飛び出した直後のことだ、下手を踏んで、官憲に追われたとき、つい暗鬱森へと逃げ込んでしまったのだ。官憲もよもや暗鬱森には足を踏み入れまいと思ったらしく、彼らはすぐ傍にレフがいたにもかかわらず、そのまま素通りしていったのである。
ほっとしたのもつかの間、森の奥から不穏な気配が近づいてくるのを察し、振り向くと、そこに鉄の犬がいた。そこから先はあまり記憶にないのだが、どうやら光球の禁呪を反射的に発動してしまったらしい。光球の瞬間催眠が効いたらしく、レフは鉄の犬を従えて、まんまと森を横断した経緯を持っている。
しかし、今回はリェータが一緒だ。できうる限りの危険を避けたいところだが、そうも言ってられない状況に追い込まれた。スドナを過ぎてしまえば、もう一本道でしかないのだから。道が分岐するのは、ベクラートを南にさらに一日ばかり行ったところだ。移動の選択肢が狭められた以上、暗鬱森を抜けることも考慮に入れなければならない。
計画の練り直しに気を取られているうちに、レフはスドナ大橋を越え、ベクラ北道と通称される公路へと歩を進めていく。ちなみにグラナート河に沿って西進する公路をカストルム西北道と呼ぶ。レフはカストルム西北道を見ながら、却ってこちらに進まなくてもよかったのではないかと思い直した。
ヴィェーチルから出てから間もないというのに幾多の突発的事故により、計画は大幅に修正を余儀なくされたが、相手に手の内を読まれないという点においては間違ってないと思ったのだ。いかにアズレトが他者の心理を読むことに長けていたとしても、偶然の出来事までは読み切れまい。レフとしても対応するのが大変になるが、それは追いかける方も同じである。ヤンが来たら、遅延の罪で一発殴ってやろうかと思ったが、今回のことに免じて、レフは寛大な心で応じてやることにした。
やがて完全に日は没し、頭上には藍色の空が広がり、足下は注意して歩かないと、転んでしまいそうなほど暗くなった。すでにスドナは背後に遠く、進行方向右手には暗鬱森が広がり、すべてを飲み込もうとする闇が手招きしているようにも見える。さすがにこう歩きづめだと疲れも出てくる。本当なら電導貨車の荷台に乗り込んで、優雅に寝転びながらスドナまで距離を稼げると思っていただけに、その期待と現実の乖離による精神的疲労が肉体にも及んだようだった。
どこか見通しのよい場所で一度小休止を取ろうとしたその時である、なにやらひどく不快な金属音と律動的な駆動音が織りなす絶妙な不協和音が後方から聞こえたような気がした。一度は気のせいかと思いきや、その音は徐々に大きさを増し、夜の闇を引き裂いてくるかのように近づいてくる。
「いや、まさかな……」
理性のきわめて冷静な部分は現実を把握していたが、感情の大部分が受け入れを拒絶していた。十中八九ヤンが追いついてきたのだろうが、よもやここまで「ポンコツ」だとは思わなかったのだ。こんなに大きな音を出していては、注目してくださいと言っているようなものだ。いや、露出狂にも等しいだろう。
逆に言えば、これだけ目立つことをしているのだから、犯罪行為などしていないのではないかと思わせることができるかもしれない。もっとも、そう思ってくれたら、喜ばしい程度の話だが。
レフは頭を抱えたくなるのを堪えて、音のした方へと不安そうな顔を作ってから、振り返る。この近くに潜める場所と言えば、暗鬱森くらいしかなく、誰かの断末魔の悲鳴が聞こえてこない以上、森へ足を踏み入れたものはいないことになる。
やがて電導貨車から発せられる照明がレフを照らした。逆光で操縦席の様子はよくは見えないが、レフを見つけたヤンが喜びのあまり声を掛けそうになるのを、隣に座っているユリヤが慌てて口を塞いだのだけはどうにか見て取れた。ユリヤがついてきたのは予想外だったが、確かにヤン一人ではいろいろ不安がある。これから葡萄酒の買い付けするにしても、ヤンならばきっと足下を見られよう。物怖じしないユリヤがついていれば、その点は安心できるというものだ。
電導貨車は騒音公害にも似た音を立てつつ、レフの傍に横付けした。窓から顔を出したヤンが決められたとおりの台詞を大声で棒読みする。
「やあ、こんにちは! よかったら、乗っていきませんか? なに、かまいませんよ! 旅は道連れと言いますしね!」
ヤンは応用が利かないばかりか、レフの台詞まで飛ばしてしまった。近くに演劇の学校があるそうだから、金銭に余裕ができたら是非似通うべきだろう。レフはこめかみに青筋を浮かべつつ、「見知らぬ人」の好意を受け取ることにして、幌のついた荷台へと乗り込んだ。
レフを乗せると、電導貨車はひどい音を立てながら、また発進する。レフは幌の縁を合わせ、外から見えないようにすると、荷台の床を軽く叩いた。
「おい、リェータ、無事か?」
「大……丈夫、じゃ……ないかも……腰、痛い」
ほぼ一日中二重底の中で横たわっていた上にひどい振動がリェータの身体を容赦なくいじめたのだろう。辛抱生活を強いられてきたリェータですら泣き言を言う始末だ。レフは苦笑して、リェータに語りかけた。
「休憩できる場所があったら、すぐに止まってやるから、それまで我慢しな」
「うん……」
これはまた弱々しい返事だと、レフは再度苦笑して、できるだけ早く休めるようにしてやろうと思いつつ、荷台の前方、運転席との仕切りに身体を密着させるように座り直した。無事合流できたからよかったものの、ここまで遅くなった原因を聞いておきたかった。
「で、なんでここまで遅くなったんだよ?」
「仕方がないでしょ! 西都を出るだけでも一苦労だったんだから!」
ヤンの代わりにユリヤが憤慨して話すには、西都では交通規制が敷かれ、誘導員に誘導という名のたらい回しを受けた結果、出たのはなんと北門だったという。北門から城壁沿いに南下して、目的の南門に辿り着いたときにはすでに日が暮れていたらしい。
そこからは全速で駆けてきたが、いかんせん旧式も旧式、骨董屋か博物館にしかない動力機関では人が走るよりやや速い程度の速度しか出ず、合流するのにこうも手間取ったというわけだ。ここまでの不幸が重なると、レフとしてもねぎらいの言葉を掛けるほかない。
「そりゃご苦労さん。運賃ははずませて貰うぜ」
「是非そうして貰いたいわ。何せあんたからまだ投資の金額を受け取ってないんだからね」
「わかってるよ。で、おまえまで来たら、あのガキどもの飯とかどうするんだよ?」
「心配いらないわ。ワディムとルーダに任せてきたもの。もうあの二人も十二歳だし、いろいろ教えてきたから、三日ぐらいは大丈夫でしょ。あたしなんて、どっかの誰かさんのせいで九歳の時にはヤン兄の手伝いしなきゃならなかったしさ! どっかの誰かさんのせいでね!」
五年前に出て行ったとき、最も年長だったのが十六歳のヤンで、次にレフの十一歳、ユリヤの九歳が続き、ほかは九歳未満の孤児しかいなかった。本来なら十六歳で卒院する予定だったヤンは前院長が精神病を患い、入院してしまったために、やむなくブラート救児院の院長に収まった。
レフはヤンの院長就任の直前に飛び出ていったため、九歳のユリヤにお鉢が回ってきたというわけだ。それを恨んでいるとすれば、正当な権利の行使だったので、レフはその点には何も抗弁しなかった。償う時間もなければ、その機会も永久に失われるだろう。なので、存分に恨んでいて貰いたいところである。
レフはユリヤとの話を強引に打ち切って、ヤンへと目を向けた。
「ヤン、止められる場所があったら、止めてくれ。リェータが限界に近い」
「ああ、わかった。ごめんよ、早くレフに追いつきたくて、彼女のことまで気が回らなかったみたいだ」
それでいいと、レフは心の中でヤンの行動を是認した。ヤンのことだから、周囲に目を向けずに無造作にリェータを出してしまうに違いない。いくらユリヤの気が利くと言っても、おそらくは監視の目まで気が回るまい。今までそんな生活ではなかったのだから、当然のことだ。
「おれは後ろを見てる。何かあったら、小石を飛ばすから、打ち合わせたとおりの対応をしてくれ」
「あ、ああ」
ヤンが緊張した様子で頷くので、多少不安になるが、そこはユリヤが何とか補佐してくれるだろうと期待しつつ、レフは荷台の後部に移る。幌を上げ、後方に広がる闇を見透かそうとしながらも、表面上は電導貨車に揺られて、眠気を堪えている体を作る。
変化はレフが乗車してから一刻半後に起こった。やにわに後方から二つの発光体が見えたのだ。さらには馬蹄が石畳を蹴る音と、無限軌道が石畳を削る音が重なり、その音は加速度的に接近してきた。その音の正体が判明したとき、レフは背筋に氷塊を押し当てられたかのような寒さを覚えた。
「嘘だろ……何であいつがこっちに来たんだ?」
乗馬しているのがアズレトだと瞬時に理解したのは、一度東都で彼の姿を見たからである。リェータを迎えに来たアズレトは葦毛の馬に乗っていたはずだ。それが後方からの照明によって、闇から浮かび上がるようにその姿を明瞭にしていく。
もはや逃げる余裕もなく、逃げたとしても瞬時に追いつかれるだろう。アズレトの後方にいるのは二型機甲兵二体。初めて見るが、あの鉄の塊がこうも速く走ることができようとはさすがに思っていなかった。詐欺師のレフが思わず詐欺だと叫びたくなるほどだ。
ただ、叫んだのはレフではなく、後方から駆けつけたものたちである。
「前の電導車、速やかに停車せよ! 繰り返す! 停車せよ!」
ヤンに合図するまでもなく、彼は電導貨車をゆっくりと停車させた。すると、後方の集団の中から乗馬の軍人が馬を下りて、近づいてきた。後方から機甲兵の照明によって照らし出されたのは間違いなくアズレトである。一歩近づいてくるごとにレフの心臓もまた合わせるように拍動を速くさせていく。
指呼の間まで近づいたアズレトは表面上は礼儀正しくレフに対した。
「失礼。役職によって、いくつか質問させて貰いたい。しばし時間をいただけるだろうか?」
「ああ、悪いな。おれは乗せて貰っただけだ。この車の持ち主に用があるってんなら、運転席の方へ行ってくれよ」
「わかりました。ですが、後ほどあなたにもいくつか訊ねたきことがあるので、ここにいて貰えないだろうか?」
「へいへい、わかりましたよ」
妙になれなれしいレフの態度は半ば計算されたものだが、この短いやりとりだけでレフの心臓は胸骨を突き破らんばかりに跳ねていたのだ。ばれてなければいいがと思っているうちに、アズレトは貨車の前方に回り、ヤンと何事かを話していた。時折ユリヤの声がするところを見ると、台本を忘れたらしいヤンの援護に回っているようだった。
レフの懸念とは裏腹にヤンが行商許可証を見せたことでアズレトの方もそれを信頼したらしく、一通り礼を言うと、再びレフの元へと姿を現した。
「失礼。小官に姓名を教えていただけないだろうか?」
「悪いけどさ、それ、勘弁してくれないかな? だって、あんたら、親父の……」
レフは余計なことを言ったとばかりに口元を慌てて抑えるふりをした。アズレトにどこまで演技が通じたかはわからないが、彼はレフの小芝居に乗ってきた。
「ほう、何か事情がおありのようですな?」
「やっぱり話さなきゃだめ?」
「話していただければ、いろいろ嫌疑も晴れると思いますが?」
「ああ、もう仕方ねえな! 実はさ、おれ親父に追われてるんだよ。で、おれはあんたらがその追っ手だと思ったわけ。違うの?」
「さて、あなたの父君がどなたかは存じ上げませんが、小官らは国命を受けて動いておるものです。故に違うと言い切れましょう」
「はっ! 何が国命だ、バーカ! あの豚の我が儘の間違いだろ? でさ、豚の下で働くってどんな気持ち? ねえ、どんな気持ち?」
そう罵倒してやりたいのを堪えながら、レフはあくまでも父の影に怯える良家の子息を演じた。アズレトがこれで騙されてくれたかどうか、彼の表情を見る限り、どうとも言いがたいが、手帳になにやら書き込み、それが終わるやいなや、もう用はないと言わんばかりに一礼して去りかけた。
アズレトが背を向けたことで、凌ぎきったと思ったレフはつい表情を弛緩させたが、数歩歩いたところで急にアズレトは振り返る。
「申し訳ないが、最後にもう一つ。どこかでお会いしたことがありませんか?」
「いやあ、どうだろうな? 都は人が多いから、どっかで見かけたことがあるんじゃない?」
「左様ですか。ならばもう一つ。実は小官らはある人物を探しています。そのものは多重債務者であり、契約を果たさず逃亡した罪に問われています。おそらくは協力者もいると思われますが、何かご存じありませんか?」
アズレトの質問はまさに直球だった。なぜよりによってこの質問を自分にするのか、レフの頭蓋で警告と疑問が渦巻くも、間を置かず、無意識的に答えられたのは上出来だったかもしれない。
「そんなこと言われても困るぜ。名前とか、特徴とか教えて貰わないとさ」
「失礼。軍規により答えかねます。心当たりをと思ったのですが、どうやら見込み違いだったようで。ご協力感謝します。夜間の旅は危険ですので、十分に注意してください」
そう言い残すと、アズレトは再び馬上の人となり、ヤンの電導貨車を追い抜いて、そのままグラナート方面へと走り去って行ってしまった。それを二体の二型機甲兵が追う。しばらく蹄と無限軌道が石畳を噛む音が聞こえていたが、やがて夜の闇へと溶け込んで、ついには聞こえなくなった。
その音を聞き届けてから、レフは呼吸をしていないことに気づき、大きく周囲の空気をむさぼった。アズレトが最後にした質問の意図が量りかねたが、今となっては同じ方向にアズレトがいるというだけで悪寒が止まらない。すぐにでも別の道を行くべきだ。
ヤンが出発しようとしたので、レフは荷台から降り、ここで別れることを告げた。
「ここまでだ、ヤン。おれたちは別の道を行く」
「そ、そんな急に……グラナートまでついてきてくれると思ったのに」
「甘ったれんな。どうせおれに全部やらせる気なんだろ?」
「いや、そんなことは……」
ヤンが言葉を濁したことから、あわよくばレフをこのまま留めておきたいとの意図がはっきりと見えてしまった。ヤンに必要とされていること自体悪い気はしなかったが、もうここで道を違えるべきなのだ。もうヤンにはユリヤという頼もしい相棒もいるのだから。
「ヤン、ここでお別れだ。今までおまえに迷惑ばかり掛けてすまなかったな」
「そんなこと言わないでくれ。まるでもう二度と会えないみたいじゃないか」
「かもな。だけど、それは別に悪いことじゃない。別れなんて、常に理不尽なものさ。おれたちだけが特別なんじゃない」
一般論だけに、その言葉はレフの胸にも深く突き刺さる。言葉にならないヤンを今は置き、ユリヤへと目を向けた。
「ユリヤ、ヤンのことよろしく頼むぜ。おまえはおれよりよっぽど頼りになるから、あまり心配はしてないけどな」
「な、何だよ、それ。褒めたって何も出ないぞ」
「事実だよ。それから、ほら、資金だ。持ってけ」
レフは無造作に金の入った革袋をユリヤに放って投げた。ユリヤが何気なしに覗いてみると、百銀幣が二十枚、つまり銀幣二千枚という大金が詰まっていた。電導貨車を新しく買い換えた上に、荷台に収まりきれないほどの葡萄酒を購入できるほどの金額である。ユリヤは目を丸くして、レフと革袋を何度も見比べた。
「言っておくがな、それはまっとうな金だから、安心しろ。いいか、全部使い切るなよ。多少残っていると余裕ができるもんだ。その余裕が冷静さを保つことにもなる。どんな相手と商談するにせよ、そういうのは大切だろ?」
「レフ……あんた……?」
「話は終わりだ。まずはリェータを下ろすの手伝ってくれ」
ヤンとともに二重底から引きずり出したリェータはひどくぐったりしていたが、外の空気を吸ったことで気力は回復できたようだ。レフは持っていた携帯用の食料と水を渡し、リェータに人心地つかせると、改めてヤンとユリヤへと対した。
「よし、おまえら、もう行っていいぞ。ああ、そうだ。もし、あの連中がおれのことを聞いてきたら、スドナに戻ったって言っとけ。いくらやつが目敏かろうが、証拠がなきゃおまえらをどうこうするなんてできっこねえんだから。いいか? 今ここからおれたちは何の関係もない他人だ。何を聞かれようとも、知らぬ存ぜぬを通せよ」
「レフ……」
「泣くなよ、ヤン。まあ、ほとぼりが冷めたら、また戻ってくるかもしれないし、この先何があるかなんて、わからねえさ」
ヤンを慰めつつも、レフはもう戻ってくることはないだろうと確信していた。一抹の寂寥を抱えていると、ユリヤの震える声がレフの耳を叩く。
「このお金、貰うなんて言ってないんだから。ちゃんと返すから、あんたも戻ってきなさいよ」
「は? 何で借りた方が偉そうなんだ? おまえがおれのところまで返しに来いよ」
「わかったわよ。あんたがどこにいようが、必ず見つけ出して、たたき返してやるわよ!」
「その時はちゃんと利息も忘れるなよ」
ヤンとユリヤ、この二人が組めば、意外と商人としての大成するかもしれないとの希望にも似たレフの予想は的中することになる。後年になって、ヴァラール十商の中に二人が設立した「ブラート商会」も入っていたからだ。さらに後年、彼らが没した後に書かれた伝記にレフの名前は一行も記載されなかった。ヤンもユリヤもレフの最後の言いつけを守り、彼を見知らぬ他人として扱い、他言しなかったのである。
名残を惜しむヤンの尻を蹴飛ばすように追い立てると、レフは彼らの姿が見えなくなるまで見送った。その姿がぼけていき、いつしか泣いていることに、リェータが涙をぬぐってくれるまで気づかなかった。リェータは気遣わしそうな視線を向けてきた。
「レフ、つらい?」
「はっ、つらくなるのはここからだっての。今からこのおっかねえ森を突っ切るが、行けるか?」
「うん」
リェータが力強く頷いたので、レフは微笑し、改めて暗鬱森を見た。闇は依然暗く、見通しはきかない。それでもどこかに通じていると信じて、レフは一歩森へと踏み込んでいった。
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