ブラート救児院

 すでに今夜の宿は決めてはいたものの、人目につく可能性を考慮すれば、利用すべきではなかった。安宿だと壁が薄すぎて、よく休めないだろうし、だからといって高級な宿泊施設に泊まれば、周囲から奇異の視線を向けられることは必定である。外見が派手な少年とイシュタカル風の服を着た少女の二人組は目立って仕方がない。どちらにせよ、不特定多数の目にとまるのはできるだけ避けるべきだろう。


 だとすれば、レフにとって、当てにできるのは一つしかなかった。気が進まないが、一両日中の安全くらいは確保できるとなれば、四の五の言っている暇はない。


「あーあ、嫌だなあ、あいつに頼るの。こうなるとわかってりゃ、事前に隠れ家くらい用意したのになあ」


 レフは内心で大きなため息をついた。リェータに出会わなければ、レフは西都に来てから、住処を探そうとしていたのだ。東都に移住したときでも、それで何とかなったし、別に都にこだわる必要もない。ある程度の人口を抱えた都市であれば、十分稼げるのだから。


 ともあれ、帝都で野宿するという惨めな選択はなくなり、ひとまずは安堵の息をついたレフは、ふとリェータの様子が気になって振り返った。鉄軌道車を降りてから一言も喋らない。リェータのお冠状態は継続中らしく、レフと目線が合うと、これ見よがしに反らしてみせる。


 これだけ感情豊かなのに、奴隷であることをよくも甘んじていられたものだとレフは苦笑する一方で、リェータの心情の一端はわかるような気がした。肉体的自由を奪われてきた彼女は精神を抑圧することで奴隷という無残な境遇に耐えてきたのだろう。今まで鬱積してきたものをぶつけるのにレフは格好の相手だったに違いない。


 レフの笑いは苦みをさらに増していくが、不快ではなかった。あまりはしゃがないようにいずれ釘を刺しておくとして、西都を発ってから三時ほど経っている。そろそろ空腹を覚える頃に違いない。そうでなくても、怒りを緩和するために和解を持ち込むのもいいと思って、リェータに声をかけた。


「どこかで飯でも食うか? 腹減っただろ?」


「減ってない」


 リェータが短い一言を言い終わるよりも早く、彼女の腹の虫が切なげで甲高い悲鳴を上げた。あまりにも健康的なリェータの肉体に、レフはつい失笑しかけてから、慌てて口を塞いだ。リェータの目に涙がたまり、頭巾からかすかに見える顔も赤くなっていったからだ。


 今更だが、レフは聞かなかったふりをして、彼女の名誉を守るために言葉を選びながら、何とかごまかそうと言葉を続ける。


「おれはもう腹が減りすぎて、今にも倒れそうだっての。まあ、適当に何か買うから、好きに食えよ」


 ごまかし得たとは到底言いがたいものの、レフは強引に今の状況を押し通すことにした。夜になっても営業している露店や夜間に開く屋台を覗いては、目についたものを片端から買っていった。途中、紙袋を貰い、重たく、変形しにくいものから買ったものを詰めていく。


「ほら、これ食え」


 レフは揚げパンをリェータに差し出したが、そのときの彼女の内心で起こった葛藤は傍目から見ても激しいもので、揚げパンに震える手を伸ばしては引っ込めることを繰り返す。


 レフの施しなど受けまいとする抗う心と食欲の戦いは、生存本能の方に軍配が上がり、リェータの抵抗心を根元から折った。レフから揚げパンを奪い取ると、顔を覆う布を一部外して、即座に口に運ぶ。すると、その瞬間に揚げパンが消失してしまった。


 たった一個では足りないと言いたげに、リェータの期待を込めた視線はレフの顔面に矢の如く突き刺さる。レフは物理的痛覚を覚えつつ、紙袋ごと渡すと、一瞬ごとに食料がなくなっていく。野生動物のように食い散らかしながらも、そこそこ気品があるように見えるのは、リェータが持って生まれた才能とでも言うのだろうか。


 あっという間もなく、紙袋の底に林檎が二個ほど残し、すべて平らげたリェータは唖然とするレフを尻目に実に満足げな表情を浮かべていた。


 いったいこの華奢な身体のどこに食料が消えたも恐怖だったが、それ以上に今後の食費が心配になってきた。


 この先、リェータとの旅がどの程度日数がかかるのかはまだ不分明だが、一食でこれでは旅路の途上で餓死してしまうのではないかという危機感にも襲われる。今、レフの手元には銀幣四千枚という大金があるが、旅の終わりまで持つかどうか。


 いや、先のことを考えるのはよそう。悲観的になるばかりだ。レフは心機一転し、これから向かう場所について、考えを巡らせた。それはそれで気が重くはなるが、避けては通れぬとあっては真っ直ぐ進むしかあるまい。


 とりあえずリェータが食い散らかした食料を再び買い直した。これから赴く先への迷惑料として使うつもりだったからだ。


 レフはリェータに顔を隠すよう命じると、人気のない道を選んで歩き始めた。進んでいくうちに次第に懐かしさがこみ上げてくる。ろくでもない思い出ばかりだったはずなのに、それなりに郷愁に近い感情が心のどこかに存在したようだ。


 そして、ついにレフは目的の場所へとたどり着いた。


「ここを飛び出して五年経つのか。早いんだか、遅いんだか、よくわかんねえけどな」


 レフの目の前には廃屋と言っても過言ではない古びた建物があった。錆びた鉄柵門の上部にブラート救児院との文字が躍っている。


 懐かしさと不愉快さが同時に持ち上がり、胃の底が冷えたり、熱くなったりと、自分でも意外に思うほどの感慨があった。


 五年前、レフはブラート救児院を抜け出すと、そのまま西都からも脱し、十一歳という若さで単身帝国西部を旅して回ったのだ。


 そのおかげでかなり地理に詳しくなったが、よもやリェータを逃がす役にも立とうとはさすがに神ならぬ身では思えるはずもない。


 その後、放浪を一年で終わらせ、その後は東都に赴き、リェータと出会うまで詐欺師としての人生を歩むことになる。


 ろくでもない人生だと自嘲したくもなるが、さらに奴隷を盗んでくるなど不届きもほどがある。本来ならば、どの面下げてブラート救児院に戻るのかと罵倒されても仕方がないものの、リェータのことを慮れば、そのくらいは耐えられるというものだ。


 レフは裏口に回ると、院長の執務室の様子を窺った。ランプの光に照らされ、若い男が数字の書かれた本を読みながら、頭を抱えている姿が映る。


 麦わら色の髪はぼさぼさ、銀縁眼鏡はもう度が合ってないようで、顔を何度も本に近づけては戻すを繰り返している。間違いなくレフの知っているヤンの姿だった。レフは窓を三回、三回、五回と立て続けにノックした。


 するとノックの音が終わるか終わらないかのうちに中が慌ただしくなり、窓が内側から勢いよく開かれた。ヤンはそこから飛び出すように身を乗り出して、暗がりに目を凝らす。彼の視線の先に以前とは異なる、それでいて面影を多く残したレフの姿を見いだした。


「よお、ヤン。久しぶり。相変わらず冴えねえ面してんなあ」


「レフ! 本当にレフか?」


「声がでけえ。悪いが入れてくれないか?」


「あ、ああ、ちょっと待っててくれ」


 ヤンが窓から身を引っ込めた後、何かを蹴飛ばす音と壊れる音がひとしきりあり、それがやむと、蝶番がはずそうな勢いで裏口の扉が開かれた。ヤンの性格を知悉しているレフが身を引いたからよかったものの、外開きの扉は凶器となって、レフを吹き飛ばすところだった。そそっかしいと言うにはあまりにも危険が過ぎる。わざとやっているのではないかと思えるくらいだが、ヤンの悪気のない顔を見ていると、人間として最低限の注意力すら欠けていると恐怖せざるを得ない。


 ついレフは苦言の一つや二つも言いたくはなったが、いつまでも外にいたくはないので、ヤンを押しのけ、リェータの手を引きながら強引に中へと入る。三人とも屋内に入ったところで、レフは外の様子を窺い、特に異常がないことを確認してから、扉を閉め、鍵をかけた。


 ヤンが何かを言いかけるのを無視して、レフは久しぶりにブラート救児院の食堂にあって、周囲を見渡してみた。


 できることなら、何も変わっていないとの感想がほしいところだったが、どう贔屓目に見ても、出て行った五年前よりも衰勢の度合いが進んでいるように映る。確かに不定期だったとは言え、ブラート救児院には少なからぬ寄付をしたはずなのに、どんな放漫経営をしたら、このような惨状に陥るというのか。


 レフのこめかみに青筋がくっきりと浮かんできたが、ヤンをつるし上げるのは後回しにして、まずは用件を伝えることにした。


「ヤン、突然訪ねてきて悪いんだけど、こいつの寝床、一つ用意してくれないか?」


「あ、ああ。なら僕の部屋を使うといい。僕は執務室で寝ればいいけど、それよりもレフ、彼女は誰なんだい?」


「聞くな。押しかけておいて、言っていい台詞じゃねえが、最悪の厄ネタだ。巻き込まれたくなかったら、知らない方がいい」


「レフ、またおまえはそんな危険なことを……?」


「説教は後にしろ。まずはこいつを寝かしたいんだ」


 食事の後、リェータはずっとおとなしかったが、それは睡魔に襲われていたからだ。遅い夕食を取った場所からここまで騙し騙し連れてはきたものの、もう限界が近いらしく、目はうつろで、ともすればレフにもたれかかって寝てしまおうとする。


 いや、限界はとっくに超えていて、リェータの精神はついに夢の世界へと旅立ってしまい、肉体は完全に弛緩して床に倒れ込むところを、間一髪でレフが抱え上げる。


「ぐっ! こいつ、意外と重いな。ヤン、見てないで、手伝えよ」


「わ、わかった」


 レフとヤン、二人は苦心しながら、リェータをヤンの部屋へと運んでいく。そこは代々の院長が用いてきたが、売れるものを売ってきたせいで、粗末なベッドと本棚、それとテーブルと椅子が一脚しか残っていない。


 そのベッドにリェータを寝かせると、大きな軋みを上げる。その音で目を覚ますほど、リェータの眠りは浅くなく、深い寝息は規則的な律動を崩さなかった。


 それでもさすがに寝苦しかろうと、レフはリェータに着させたハバラと靴を脱がせた。リェータの顔があらわになると、その様子を見ていたヤンが驚きの声を上げる。


「か、彼女はこの国の人じゃないのかい?」


「この国どころか、この大陸の人間でもねえけどな。まあ、とりあえずここから出ようや。意識のない女の姿を鑑賞するなんて趣味、お互い持ってねえだろ?」


 レフにそう言われたら、さすがに反論もできず、ヤンは自分の執務室へとレフを通す。そこで二人きりになると、ヤンは緊張を解いた顔で、レフに対した。


「レフが出て行って、もう五年になるんだな。何はともあれ、帰ってきてくれて、うれしいよ」


「悪いが、帰ってきたわけじゃねえ。遷都祭に合わせて、出て行くよ」


 皇帝が遷都してから五日間、国内外から人を集め、遷都を祝す祭典が盛大に開催される。上から下まで狂騒に沸き、毎回死人が出るほどの混雑ぶりだが、レフはそれを逆に利用しようと考えていた。西都ヴィェーチルに出入りする人間はそれこそ海辺の砂ほどもあり、いちいち取り調べるわけにもいかないからである。


 ただ、遷都祭二日目、三日目となると、催し物が増えるのに比例して人も増えるために、今度は人の波に逆らうのが困難になる。遷都祭初日こそ、最も安全に西都を脱出できる好機というわけだ。問題はヴィェーチルを離れた後にある。下るほどに人が少なくなり、その分、目につく可能性が高くなるからだ。


 さらにウラガン大陸西部における最北端の都市でもある西都ヴィェーチルから伸びる公路は南門と西門からしか出ていない。


 つまり、脱出路が二つしかないということだ。捜査を攪乱させるために東都に戻ることも考えないではなかったが、結局のところ、リェータを故郷に帰すためには、大陸西南部へと行かねばならず、二度手間であるばかりか、もう一度戻ってくる際にノーチなどで待ち伏せされたら、一本道のために逃げる場所もなくなる。


 必然的に南か、西に逃れるほかなく、どちらにも検問所を設けるに決まっている。当然のことながら、突破しやすいのはアズレトが来ない方だ。いかに才能があったとしても、身体を二つに分けることができぬ以上、どちらかに偏重するはずである。そればかりは天運に身を任せるしかなく、せいぜいアズレトと遭遇しないよう祈るべきだろう。もっとも、その天運とやらが最も当てにできないわけだが。


 未来がさほど芳しくないとの認識をしたのはこれで何度目だろうか。レフは指折り数えようとして、その行為の無益さに気づいて、やめた。


 今すべきことはヤンと徹底的に話すことだ。もうブラート救児院に多額の寄付をしてくれた優しい「ユーリー・アーヴェルバフ」はいなくなってしまうのだから。ブラート救児院の現状と今後の対策は夜を徹してでも詰めておかねばならないところだ。


 レフは鋭い目つきでヤンを見据えると、巨大な感情を押し殺しながら、静かに訊ねた。


「おれのことはどうでもいいが、ヤン、おまえに聞きたいことがある。今、ここに何人の孤児がいるんだ?」


「に、二十八人だ」


 罪を懺悔するようなヤンの告白に、レフは絶句した。明らかにブラート救児院が養える許容量を超えていたからだ。


 今までの院長たちはどんなに多くても、十五人未満で抑えてきた。現にレフが飛び出したときは、レフとヤンを含めて十四人しかいなかったのだ。その倍を抱えたとあっては、いかにレフが寄付をしようと穴の明いた鍋に水を注ぐようなもので、経営が改善することなどありようはずもない。


「おまえが困ったやつを見捨てられないってのはわかってる。それを踏まえて聞くけどな、ほかの救児院に回すとか、養子縁組とかしたのか?」


「もちろんしたさ。だけど、ほかももう限度いっぱい孤児を抱えているし、篤志家だってそういるわけじゃない。それにわかってるだろう? 僕らがほかの孤児と違うってのは」


 ブラート救児院に来る孤児はいずれも家庭に困窮などによる経済的事情や死別などによる強制的な別離がないにもかかわらず、保護者が保護者であることをやめた結果、捨てられたものばかりだ。


 絶対的な庇護者たる親にすら望まれなかった彼らが他者に愛情など持てるはずもなく、次第に攻撃的で内向的になっていき、転院しようが、養子に迎えられようが、どこに行っても問題を起こすので、やがてブラート救児院の孤児を誰も引き取らなくなってしまった。


 孤児にとって不幸なのは、ブラート救児院にいるというだけでけちがついたことになることだ。悪評は尾鰭に背鰭をつけて、拡大再生産していくから、人のよいヤンなどはどう手を打っていいのかもわからないのだろう。


 ヤンが悪いわけでもなく、孤児に非があるわけでは決してない。あるとすれば社会の不備であり、国家を運営しているものたちこそが責められるべきだ。そこまでの事情がわかってなお、レフは厳しい言葉をヤンに投げつけざるを得ない。


「じゃあ、どうするよ? このまま座して死を待つか? 口開けてたって、誰もそこに飯なんか入れてくんねえんだぞ」


「わかってるよ、レフ。僕だって何もしてこなかったわけじゃないんだ」


「それで、このざまか? それじゃ、何も理解してないし、行動してないのと同じだぜ。この際だからはっきり言っておくぞ。おまえが善意でやってることは美徳だろうがな、てめえの手に余ってんなら、そりゃ単なる愚行だぞ。もっとはっきり言ってやろうか? おまえの善意がここのガキどもを殺すってことだ」


「そ、そんな言い方ないだろ! だったら、どうすればよかったっていうんだ? 捨てられた子供たちをさらに見捨てろとでもいうのか?」


 そう、見捨てなければならない。ヤンにはブラート救児院の孤児たちが大人になり、社会へ羽ばたくまで見守る義務があるからだ。


 ブラート救児院の子供たちと他の孤児を分け隔てなく見てもいけない。差別し、排除し、徹底的に不利益を取り除く必要がある。


 孤児たちに平等と博愛を説くのはいいが、院長はそれを決して実践してはならない。その意味では歴代院長の経営方針はヤンよりも遙かに優れていた。譬え人品がいかに卑しかろうともだ。


 しかし、そう言おうとして、レフははたと口をつぐんだ。何もヤンと議論する気もなく、また、その無益さを理解したからだが、明後日西都を離れれば、おそらくは、いや、確実にこれが永別となるだろうと思うと、つい言葉が溢れて止まらなくなってしまった。せめてヤンに今後の道筋を定めさせ、食うに困らぬ程度の指針を与えておきたい。


 やはり言うべきだ。レフは自身の考えを翻し、口を開こうとしたそのとき、不意に執務室の扉がぶしつけに開かれた。そこにいたのは寝間着をだらしなく着た少女だ。彼女は寝ぼけ眼をこすりながら、声を荒げたヤンをやや不明瞭な声で責めた。


「ヤン兄、今何時だと思ってんのさ? そんな叫ぶほどたまってるなら、あたしが相手に……げっ!」


 ヤンの執務室に客人がいるとは思わなかったようで、現実に戻ってきた少女は気恥ずかしさのあまり顔を茹だった甲殻類のように赤くしたが、客人の顔を見た途端、何か思い当たるものがあるというようにまじまじと見つめてくる。


「あれ? あたし、あんたのこと、どこかで見たことがあるような……ああっ! あんた、レフか! どの面下げて戻ってきやがった!」


 そう言うやいなや、少女は腕まくりして、剣呑な表情でレフに近づく。レフも彼女の顔にどこか見覚えがあったものの、どうにも思い出せない。首をかしげていると、ヤンがレフをかばうように立ちふさがり、その答えを教えてくれた。


「ま、待つんだ、ユリヤ! 暴力に訴えるのはよくないって、あれほど言っただろう?」


「あいつだけは例外だよ! あいつのせいでヤン兄がどれだけ苦労したか、それをわからせるには一発ぶん殴らないといけないんだ!」


「ああ、おまえ、ユリヤか。うわあ、ずいぶんと『がさつ』に育ったなあ」


 レフの脳裏の人名辞典に載っているユリヤと今の彼女はずいぶんと雰囲気が変わってしまったが、なるほど顔立ちそのものは変わってない。


 記憶にあるユリヤは何かとレフの周りをうろちょろしたが、レフは常に邪険にしか扱わなかった。その恨みを返すというのならば、再会するやいなや向けられた敵意も少しはわかる。


 殴られてやってもいいが、それ以上にいじり倒してやりたいとの欲求が芽生えた。リェータと同じくらいからかい甲斐がありそうだ。何しろレフの安い挑発にも簡単に乗ってきたからだ。


「何だと、この野郎!」


 どうやらユリヤの琴線に触れた、というよりは引きちぎったらしく、血相を変えてレフに迫ろうとしたが、すんでの所でヤンに羽交い締めにされ、凶行は未然で防がれた。レフのおちょくりもあり、ユリアはしばらくヤンの腕の中で暴れ狂っていたものの、体力の消耗に従い、次第に落ち着きを取り戻していく。


 もう暴れる心配がないと思ったヤンが離すと、ユリヤは荒い息づかいとともにレフをにらみつける。


「いつか……ぶっ飛ばす」


「だったら早くしてくれよ。明後日には出て行くからさ」


 レフが戻ってきたのではないことを知り、ユリヤは眉間にしわを寄せる。レフが事情を大まかに話し、一応の納得を見せたものの、話がヤンとの口論に及んだとき、ユリヤの顔に再び怒気がみなぎった。


「何だよ、それ? 今まであたしらのこと放っておいて、どの口でヤン兄のことを責めてるんだよ? それにこれを見ろよ」


 ユリヤはヤンの執務机の引き出しから、一枚の銅板を取り出した。それを見て、レフはつい感心した声を上げた。


「へえ、それ、行商許可証じゃねえか。試験がえらく難しいらしいが、よく受かったな」


「まあな! さすが、ヤン兄だろ?」


「おまえのじゃねえのかよ。まあ、それはいいけど、だったら融資を受けられるんだろ? 銀幣百枚くらいなら商工会が出してくれるし、それを担保にすりゃ、銀行からも五百枚くらい貸してくれるはずだよな? で、おまえら、何の商売を始めたんだ?」


 レフとしては当然の質問だったが、ヤンとユリア、二人揃って押し黙ってしまう。それだけで大方の事情を察したレフは溜息をつきたいのを堪えて、口を割りたがらない二人を根気よく尋問した結果、予想通りの答えが返ってきて、途方もない徒労感をレフは味わった。


「要するに商売に失敗して、融資の銀幣百枚を擦ったあげくに借金だけが残ったと。で、その借金はどうした?」


「それがさ、ユーリー何とかって人が寄付してくれるんだけど、それを借金の返済に使っちゃったんだ……でも、ヤン兄を責めないでくれよ。借金返さないと、許可証取り上げるって言うからさ、ヤン兄だって、仕方なくその金に手をつけざるを得なかっただけなんだ」


 いつの間にかヤンたちの危機を救っていたらしいと思うと、レフも悪くない気がしたが、いつまでも悦に入ってはいられない。問題が金で解決するのなら、多少は力になってやれる。レフは表情を改め、ヤンに向き直る。


「さっきは悪かったな。何もしてないとか言ってよ」


「いや、いいんだ。レフの言うとおりさ。だから、レフ、戻ってきてくれないか? おまえは昔から頭がよかったし、気も回った。だから、商売でもその力が役に立つと思うんだ。頼むよ」


「悪いな。三日前だったら、おまえの頼みを聞いてやってもよかったが、今はやるべきことがある」


「そうか……」


「そうしょげかえるなよ。金だったら、おれが少し持ってるから出してやるよ」


「うん、ありがとう、レフ。でも、今度は何を扱ったらいいんだか、わからないんだよ」


「おいおい、そうやって下を向いてるから、周りが見えないんだろうが。顔を上げて、周りをよく見てみろ。商機が至るところで転がってるじゃねえか」


 レフに言われて、ヤンは顔を上げ、実際に辺りを見渡してみたが、彼が霊感をひらめくことはなかった。なので、レフはあきれながらも、辛抱強く言葉をさらに続けた。


「あのなあ、明後日から遷都祭だろ? で、祭りになったら、何が最も消費されると思う? 酒だよ。カストルムは穀倉地帯で麦がよくとれるから、当然麦酒が造られる。で、ベクラは葡萄の産地だ。どちらも三日で往復できる距離だ。遷都祭も三日目、四日目となりゃ、当然酒も不足する。小売りでも、酒場でもそうだ。そこに売りゃ、足下見ないでも、結構な高値で売れるはずだし、実際に自分たちで売ってもいい。そう思わねえか?」


 懇切丁寧なレフの説明に聞き入っていたヤンとユリアはその途中から急に表情を明るくさせていく。まるで長年喉に詰まったものが取れたと言わんばかりだ。ヤンはレフの手を握り、涙ながらに何度も感謝の言葉を繰り返す。誰かに感謝されたことの少ないレフはしばし口をゆがめて、ヤンの気が済むまでその居心地の悪さに耐えなければならなかった。

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