第三話 遷都祭
遷都祭前日
遷都を翌日に控え、西都ヴィェーチルは上から下まで祭りの準備に忙殺されていた。
レフもその日は長い旅路を耐えるための準備に費やそうと決めていたが、朝方ちょっとした事件が起こって、多少時間を取られてしまった。
自業自得なのだが、レフはリェータのことをヤンにしか教えてなかったので、彼女を見たユリヤが騒ぎ立てたのである。
だが、そこは同性で同年代であることもあり、生まれた場所が大きく異なれども、打ち解けるまでそう時間はかからなかった。他の孤児たちもリェータの姿に驚いたものの、お互い傷を持つもの同士の同調と言うべきか、こちらもすぐに慣れ親しんでしまった。まるで元々ブラート救児院にいたかのように彼らの中心に居座ってしまえるのはもはや芸と言ってもいいかもしれない。
ともあれ、これでリェータをブラート救児院に残して、自分は一人買い出しに出かけられると思ったが、レフはふとあることに気づいた。リェータの身につけるもののことだ。ハバラのように上に着るものはレフでも購入できたが、下着となるとそうはいかない。数日分の換えは用意しておいてやりたい。とはいえ、自分で買いに行くとなると、非常な勇気を必要とする。
レフはユリヤをちらりと見た。リェータとユリヤが同性という事実に著しく納得しがたいものを感じてはいたが、ここはどうあってもユリヤに頼むほかない。なので、レフはユリヤに声をかけた。
「なあ、ユリヤ、ちっと頼みがあるんだが」
「やだ」
言下に拒絶され、レフは言葉と顔色を失う。呆然としたのは一瞬のことで、取って代わった怒りが頬を小刻みに震えさせるも、それ以上の表出を防ぎ、レフは重ねてユリヤに頼み込む。
「おれの頼みじゃねえよ。リェータの下着をおまえに買ってきて貰いたいってことだよ」
「うわ、なんでそうデリカシーに欠けることを言うのかな? 最低を通り越して、極悪だよ」
「おまえにデリカシーなんて言葉があったのが驚きだよ」
そう言いたいのを必死に堪えて、余った金は自由に使っていいという条件で、ユリヤに頼み事を飲ませることに何とか成功した。銀幣二枚という少なからぬ出費にいささか暗然とした気持ちになりながらも、リェータに決して外出しないよう言い含めた後で、レフも西都へと繰り出すことにした。
東都もそうだったが、西都も未完成の都市であり、その一方で老朽化した建造物の取り壊しなどもあり、工事の音が絶えることはない。それゆえレフの目には懐かしさと目新しさの両方が飛び込んできて、記憶にある町並みと比してみるのも楽しい。レフも西都生まれの西都育ちなので、祭りが近づくと心が逸るし、その祭りに参加できず、立ち去らなければならないことには人並みに寂寥感を覚えたりもする。
そんな感傷に浸る一方で、レフはこの国を離れることに妙な高揚を覚えていた。おそらくは期待しているのだ。レフは心の内に生じた変化の正体をすでに覚っていた。リェータと手と手を取り合っての逃避行などという甘い幻想に身を焦がしたわけではなく、レフは常に変化を求めていたことに気づかされたのだ。極端な言い方をすれば、リェータの存在はあくまでも動機付け、つまりはおまけのようなものだ。
レフは何気なしに空を見上げる。西都も東都と変わらず灰色の雲が空を覆っていた。思えば、この国が嫌いだった。正確にはこの国の頭上に広がる鉛色の空が大嫌いだった。北大洋の冷たく湿った風と南方からの乾いた風が西都周辺でぶつかり、雲が形成されるのだと、何かの本で読んだとき、わざわざこんな場所に都を造らないでもいいだろうにと思ったものだ。
曇天はのしかかるような圧力を常に与え続け、人の心を押しつぶそうとするかのよう。いや、西都や東都の住人は慣れたもので空模様がどんなであろうと、今更気にもすまい。レフだけがこの陰気な曇り空を憎んでいたと言ってもいい。まるで空が自分の心を映し出したかのようで実に不愉快だった。
おまけに冬ともなれば、一日中雪が降り、さらに陰気さを増していく。昼間は薄暗く、夜は灯火があっても暗く感じられる。春の訪れはどこの国よりも遅く、冬の到来はどこの国よりも早い。遷都祭が終われば、すぐに秋穫祭が待っている。その頃には息も白くなり始めている頃だろう。
本格的な冬の前に脱出できて、本当によかったと、レフはつくづくそう思わざるを得ない。冬になれば、どこもかしこも雪に覆われ、逃げるどころではなくなるからだ。確かに主要幹線道は物流の妨げにならぬよう除雪されるものの、その周囲に積み上げられた雪が天然の隔壁となって幹線道以外の脱出路を塞いでしまうので、やはり遠くまで逃げおおせるというわけにはいかない。だからといって、雪解けまで潜伏できるかと言えば、おそらくそれも無理だ。西都がいかに広いとはいえ、隅から隅まで調べるだけの時間は優にあるほど帝国北部の冬は長いからである。
あるいはカストルムまで無事逃げ切れたのなら、冬を乗り過ごせる可能性も出てこよう。彼の地は反帝国の気風が強く、最も早くヴァラールに併呑されたが、同化政策は最も遅れているというのが現状だからだ。ことさら旧カストルム民を差別したわけではなく、むしろ病的なまでに平等に扱ったのだが、かつては己こそがウラガン大陸西部の覇者だったという過去の栄光が彼らの現在を縛ってもいた。
そこまで考えてから、無駄な仮定だと思い、レフは思考遊戯を打ち切った。考えるよりもやるべきことが山のようにあるのだから。まずは情報を集めるべきだろう。南と西、どちらがより手薄か、それを調べるだけでも意味があるからだ。兵力がより配置されていない方にアズレトはいるだろう。彼の本来の実力を知るよしもないが、世評を鑑みるに、そう誇張されたものがあるとは思えない。慎重を期するに越したことはない。
レフの手には一枚の名刺がある。東都で両替商イライダから渡されたものだ。両替すべき金はないが、彼女の情報網は非常に有益である。活用しない手はないが、問題は西都に引っ越しているかどうかだ。イライダのことだから、よもや遷都祭の混雑している間に越してくるとは思わないが、彼女の動向だけはどうにも読めないので、いなかったら、別の対処を考えるしかない。
「にしても、またすげえところに店を構えたな」
レフが生粋の西都っ子でも、当然すべてを知っているわけでもなく、名刺に書かれた住所に行ってみたら、裏町に近い貧民窟に出てしまい、よもやこんなところで大金を扱っている両替商がいるなど、誰も思いはしないはずだ。もし、周囲に知られれば、よってたかって襲われるに違いないが、それでもイライダが今まで無事だったのは人ではなく妖怪だからであろう。レフのイライダに対する評価はひどいものだが、能力だけは信を置いていたので、彼女が人か怪異かなど関係なかった。
店の前に行くと、扉には「開店」の板が掛けられている。どうやら中にイライダはいるらしい。そう思って、中に入ると、店内は東都と同じく部屋を二分するかのような鉄格子と壁があった。しかも相変わらず室内は薄暗いし、その奥から響く声はやはり陰惨な印象がある。
「レフかい?」
「よう、ばあさん。引っ越してきたんだな。よかったよ、あんたに会えて」
「そうかい。なら、まず扉の看板を下ろしてきな。下ろしたら、鍵を掛けるんだ。さあ、早くおし」
どんな禁呪を用いたのか、抗することを許さない迫力で、イライダはレフに命じ、レフも抵抗する間もなく言われたとおりにした。その行動の中で、レフはイライダがすべてを知っていることを覚った。さすがは三百年も生きていると評判の老婆だと、つい感心してしまった。
「終わったぜ」
レフは部屋のしきりに半円形に明いた穴に向かって声を掛けたが、しばらくイライダは答えなかった。やがて大きな溜息とともに、闇の奥から返答があった。
「全く大それたことをしたもんだよ」
「おれもそう思うぜ。未だに何であんなことをしたのか、わかってないくらいだしな」
レフも今更隠さないし、悪びれないが、懸念があった。イライダが知っているということはほかの誰かも当然知り得たことになるからだ。故にレフは訊ねざるを得なかった。
「でよ、あんたが知っているってことは、おれを追っかけてるやつも知ってるってことだよな? どこまでその情報が渡ってるのかを知っておきたいだが?」
「知ってるのはわたしだけだよ。今あんたが教えてくれたばかりだからね」
「ちっ、引っかけたのかよ、ばばあ。相変わらず食えねえな」
忌々しげにレフが舌打ちすると、奥からは空気が漏れたかのようなイライダの笑い声が這い出てきた。どうすれば、この老婆に精神的損害を与えることができるかと、レフは真剣に考え出したが、すぐにイライダの笑声は止み、代わりに今まで聞いたことのない真剣な口調で、彼女は話を続けた。
「しかし、まあ、あんたもついてないね。よりにもよってアズレトって坊やを相手にしなきゃならないんだから」
「全くだ。二回ほど間近で見たが、正直うんざりしたよ。本当、誰かに代わってほしいくらいさ」
「自分で選んだ道だ。自分のけつは自分で拭くんだね」
「わかってるよ。だから、真っ先にあんたを訪ねてきたんだ。情報をくれ。特にあのアズレトの動向が知りたい」
「すまないね。そりゃ教えられない。何せわたしの目と耳を持ってしても、あの坊やがどこにいるのかすらわからないんだから」
肝心要の情報が得られず、レフは失望したが、すぐに頭を切り換える。一つ確実なのはアズレトが必ずレフを追ってくることだ。何しろアズレトの顔と経歴と面子に泥を塗ったばかりか、さらに擦り込んだのだ。これで怒り狂わないとしたら、アズレトの度量は人を超越したと言えるだろう。アズレトが自身でも制御できないほどの怒りの濁流に呑み込まれ、冷静な判断ができないとしたら、それは慶賀すべきことだが、あまり期待を寄せるものではない。アズレトが至って冷静であると仮定した上で、推測は進めるべきだ。その土台となるべき情報を、レフはイライダに訊ねる。
「じゃあ、泥豚がどの程度の私兵を持っているのかを聞きたい。さすがに逃亡奴隷一人を探すのに陸軍を出してくるとも思えないしな」
「ああ、それならわかるよ。というか、どの王も皇帝から機甲兵十体を与えられてるんだ。後は私費で賄うしかないが、多くてせいぜい二十体ってところだね。まあ、あの豚のことだ、おそらく与えられた金を軍事に使うなんてことはしないだろうから、十体で間違いないと思うよ」
「なるほど。じゃあ、もう一つ。西門と南門、ここ数日でどちらの方が多く機甲兵が出て行ったか、わかるか?」
「何だってそんな質問をするんだい? ……って、ああ、そういうことかい。あんたも相当悪知恵が働くね。ちょっとお待ち」
レフの質問の意図をイライダは察したらしく、仕切りの奥から紙の束を荒々しくめくる音がした。しばらくして、その音が止んだ。
「ああ、あったあった。今日の朝方っても、まだ暗いうちに西門から五体、南門から三体の機甲兵が公路警備という名目で出撃しているよ。所属も書いてあるね。ああ、あんたの読み通りだよ。第八皇子つきの兵士さ」
「計算が合わねえな。あんたの報告だと八体しか出てないってことになる。残り二体はどうしたんだ?」
「フーリク王府で待機ってなってるね。となると、あの坊やもそこにいるんだろうよ」
イライダの報告にレフは満足そうに頷いた。おおかた計算通りだ。レフは自分が追う立場になって何度も考えてみた。西と南、どちらにも兵を配すが、すべては投入しない。西都に伏せておいて、西か南、どちらかから報告を受ければ、挟撃態勢を取ることもできよう。その全体図を俯瞰してみるには、後方にいなければならない。つまりアズレトもそこにいなければならないということになる。
そして、その予想は八、九割ほど当たっているだろう。問題はそこからだ。南と西、どちらに逃げても、後方からアズレトが迫ってくることが確定となったからである。おそらくは検問などとあからさまなことは決してすまい。公路沿いに機甲兵を配備して、怪しいと思われる人や貨車など片端から報告するに違いない。随時送られてくる雑多な情報からアズレトが何を選ぶかで彼の能力が推し量れよう。
「どっちに逃げても、同じことなら、南に行った方がいいな」
南が手薄だからというのではなく、逃亡者の心理として、一刻も早く安全を得たいと思うのが常であり、まず反帝国の気色が強いカストルムへと逃げようとするだろう。ここまで逃げれば、後は反帝国組織に身を寄せるなり、力を借りるなりすれば、追っ手のことを気に掛けずにすむとも考えるはずだ。
しかし、その安全など何も保証されていない。あるのは楽観という名の愚考であり、最悪の結末を迎えて、ようやく自分自身の過ちに気づく。レフはアズレトが冷笑を浮かべ、待ち構えている最後を想像して、全身に悪寒が走り抜けた。
今までの推察を踏まえ、カストルム方面へ一直線に進むのは望ましくないという結論が出る。そうとなれば、南、旧ベクラ公国方面へと逃れるべきだろう。ベクラならば、方向転換がいつでもできるのが強みでもある。無論、東側はグラン・ユグムに遮られるが、いざとなれば、ヴァラール、カストルム、ベクラ三国にまたがって存在する広大な森林地帯「暗鬱森」を通っていけばいい。いかに機甲兵と言えど、暗鬱森にはうかつに近づけぬのだから。
いかにアズレトの意表を衝き、帝国外へと脱することができるか。そこに活路を見いだすしかなかった。帝国領を出るまでが勝負だ。帝国の周辺国が譬え属国、保護国と言えど、一応の自治が建前上認められる以上、国境を越えてまでアズレトが追いかけてくるとも思えない。国際問題になれば、いかにアズレトがヨシフの庇護を受けていると言っても、他の皇族が手を出してくるに違いないのだから。
「これで一応の指針はできたな……」
いかに綿密な計画を立てようとも、些細な一事ですべて崩れてしまうこともある。ここはこの程度でよしとすべきだ。詰め切れなかった残りの部分は臨機応変に対応していくしかない。
「それじゃ、ばあさん、いろいろ世話になったな。たぶん、これが今生の別れだ。達者で生きろよ」
「そりゃ寂しくなるね。だけど、最後だと言うなら、わたしの仕事、一つ引き受けな」
「勘弁してくれよ。悪いけど、時間がねえんだ」
「そう時間は取らせないよ。この家の裏にあるごみを捨ててきてほしいんだ。それだけだよ。世話になったというのなら、そのくらいしても罰は当たるまい?」
最後の最後にくだらない頼まれごとを押しつけられたことに、レフは不愉快な表情を隠しもしなかったが、ぶつぶつと文句を言いつつ、律儀に果たそうとする。裏に回るまで、かなりの距離を歩かされたが、やっと裏手に回ると、確かに勝手口に何か落ちている。見れば、肩から掛ける鞄があった。
「なんだ、これ?」
ごみだからかまうまいと、鞄の中身を見て、レフの目が限界まで開かれた。そこにあったのは二枚の偽造旅券に日持ちする食料、地図にナイフなどの道具類が入っていたからだ。これがイライダの餞別だと知ったレフは裏口に向かって声を掛けた。
「おいおい、ばあさん、ここまでされる義理はねえぞ」
「何のことだい? わたしはごみを捨ててきておくれと言ったんだよ。そのごみがどうなろうと、わたしの知ったこっちゃないね」
レフは舌打ちしたが、その顔は穏やかだった。そこで電流が走るように、この世界がそれほど捨てたものではなかったことを理解した。頑なに人は悪だと思い込み、視野を狭め、勝手に世界を縮めてきた。何のことはない、今までずっとその場で足踏みをしていただけだ。ようやく一歩踏み出せたレフだからこそ、続く言葉も素直に出てきた。
「ありがとな、ばあさん、いや、イライダ」
「気をつけてお行き。あんたの旅が無事成就できることを祈ってるよ」
「ああ。あと、迷惑ついでに一つ頼んでおきたい。ブラート救児院にヤンって院長がいる。馬鹿だが、信頼できるやつだ。表だって助けてくれとは言わないが、ほんの少しでいいから目を掛けてやってくれないか?」
「わかったよ。あんたの心残りがないようにしてやるさ。だから、後ろなんて決して振り返るんじゃないよ」
「ありがとう。じゃあな」
別れそのものは淡泊だったが、言葉には万感の思いが詰まっていた。その中には後悔もある。イライダだけではなく、もう少し人と交わり、言葉を交わし、その思いを知るべきではなかったかと。人の心の内にこそ求めていた真実があったのではないかと。
だが、今更愚痴っても仕方がない。時は過ぎ、二度と戻らぬ。だとすれば、前を向いて歩いて行くしかないではないか。
顔を上げたとき、空を覆う雲の隙間から陽光が漏れ出した。まるでレフの心を映し出したかのように、あるいは道を照らし出すかのように。
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