東都ウートラからの脱出

 奴隷市は今日も開催されていた。


 彼らは遷都など関係なく、リェータさえ売れれば、本格的な冬が来る前に東か、南に逃れるだろう。あと一月もすれば、野営するたびに凍死者が出るようになるほど寒さが厳しくなる。それまでにどうにかかつてはイシュタカルという国があった地域の南方まで行かねばならない。奴隷に体調を崩され、死なれでもしたら、今までの「維持費」が無駄になってしまうというものだ。故に遷都日、もしくはその前日に東都を離れるだろう。


 逆算すると、今夜、もしくは明日にリェータは引き渡されることになる。ヨシフの許へ行ってしまえば、いや、アズレトが連れて行ってしまえば、奪取は限りなく困難になろう。その前に動く必要があった。


 しかし、レフはこの期に及んで、まだ自身の行動の意義について悩んでいた。仮に計画が成功したとしても、犯罪者として追われることになり、しかも皇族に喧嘩を売ったというおまけつきだ。失敗すればその場で命がなくなるかもしれない。どちらに転んでも、レフの未来は暗澹としたものになろう。


 今なら引き返せる。レフの理性は何度もそう呼びかけてきたが、すべて無視し、宵闇が迫る中、レフは奴隷市が開かれる場所へと急いだ。


 レフはこのとき貴族然とした格好をやめ、夜陰に溶け込みそうな地味なものを着用している。さらに顔の白さが浮き出さないように紺色の襟巻きを首に掛け、いざというときは顔に巻き付ければ、人相もわからなくなるだろうとの考えがあった。


 この時間ともなれば、奴隷市が開かれる天幕は片付けられてしまうはずだが、レフが到着したときはまだ張られており、何かいつもとは違う事情ができたことがわかる。当たりをつけていた甲斐があり、おそらくは今日が引き取り期日なのだろう。


 アズレトと奴隷商の間で平和的に取引できたことは結構だが、それもご破算となると思えば、いかにレフが悪党と言えど、同情心が少しばかりはわいてくるというものだ。


 だが、それもリェータを奪い取れればこそである。一歩間違えれば、逆に自分が同情を寄せられることにもなりかねない。


 レフは襟巻きを口元に上げ、慎重を期して、天幕へと近づいた。周囲に人影はなく、普段なら天幕を片付けるために右往左往している人足たちまでがいないところを見ると、アズレトが迎えに来るまで遠ざけられたに違いない。


 好都合だ。人目に止まることだけがレフの懸念だったために、好機を逃す前に次の行動に移る。


 今、リェータの周囲には商隊長と護衛しかいないはずだ。以前忍び込んだときに護衛の数は十二人と聞き出していたので、新たに雇っていなければ、さほど苦労はないだろうが、レフはその可能性を最初から切り捨てていた。


 昨日の今日で新たに護衛を雇うこともできかねるだろうし、何か起こったとしてもアズレトが来るまで堪え忍べばいいのだ。アズレトはきっと機甲兵を連れてくるに違いなく、一体だけでも護衛十二人を遙かに上回る戦力を持っているのだから。


 制限時間内に決着をつけるとするのならば、少しばかり強引な手段を使わなければならない。襟巻きを頭からかぶるように覆ったレフはバッグから発煙筒を取り出し、火をつけると、天幕へと放り込んだ。たちまちのうちに周囲が煙で満たされ、異変に気づいた護衛たちがまず外に出てきた。


 まずは四人。レフは慌てず、無言のまま、彼らの正面に回り、光球を飛ばす。四人の護衛がレフに気づいたときにはすでに催眠状態に陥っていた。レフはその場で寝るよう命じると、巣穴に湯をかけられた蟻のように外に出てくる護衛を片端から眠らせていく。


 十二人全員を眠らせると、レフは天幕へと入り、控え室へと入り込んだ。そこにはまるで輿入れのように着飾ったリェータと商隊長の姿があった。


 商隊長は始めレフを護衛と勘違いし、状況の説明を求めようと口を開いたところで、レフが放った光球が鼻先に当たり、次の瞬間には瞳から焦点と光が失われ、口からは涎が滴った。


 レフは奴隷商のことなど見向きもせずに、顔まで覆った襟巻きを外すと、真っ直ぐリェータを見つめた。対するリェータは事態の急変とその先にレフがいたことでさすがに驚いたように目を開く。


「あなた……レフ?」


「覚えてくれていて光栄だよ。が、暢気にお喋りしてる時間がねえ。選べ。このまま奴隷として惨めに生きるか、それともおれと一緒にここから逃げて、一か八かの可能性に賭けるか。二つに一つだ」


 突如開かれた未来への選択肢がリェータを戸惑わせる。つい先刻まで自らの運命を甘受するだけだったのだから、それも当然のことだ。かろうじて、レフが示した一方の選択を鸚鵡返しした。


「逃げる……? どこに?」


「ここじゃねえどこかだ。行き先はあんたが決めろ。行く当てがねえってんなら、あんたの故郷でもいいだろ? そこまでおれが連れてってやるよ。だから、早く決めてくれ。時間がねえんだ」


 レフの口調はまだ冷静さを保っていたが、表情は一瞬ごとに余裕が失われ、代わりに焦慮の色が濃くなっていく。


 レフが急かすのには光球の催眠効果が一刻も保たないことを知っていたからだ。一人に催眠をかけるときはあまり時間を気にしなくてもいいが、複数にかけるとどうやら効果時間が人数分に乗算するように減るらしいのだ。


 最初にかかった護衛がいつ覚醒してもおかしくはない。今にもなだれ込んでくるのではないかと思うと、心ばかりが逸り、天幕への入り口を何度も確認してしまう。


 いっそ強引に拐かすべきか。脳裏に危険な思考が明滅し始めたものの、レフはすぐに考えを改める。この逃走劇はリェータが自らの意思で行わなければ意味がないからである。このまま攫っても、彼女の立場は奴隷と何ら変わりがない。主人が奴隷商からレフに替わっただけのことだ。


 リェータの心がどこを向いているのか、時間はないが、確かめる必要もありそうだ。リェータが躊躇しているのにもかまわず、レフは言葉を続けた。


「先に言っておくけどな、おれと逃げても無事に逃げられるとは限らねえ。すぐに捕まって、結局あの豚のところに行く時間が少し延びるだけかもしれない。うまくいくなんて甘いことは言わねえ。だけどな、自分の未来を自分で決めてえってんなら、おれと一緒に来い。もう時間がねえんだ」


 レフが他人に対し、こうも真摯に向き合ったのは初めてのことだっただろう。レフに自覚はなかったが、その言葉の重みは変化を恐れるかのようなリェータをも揺り動かした。


「わたし、ここから出ていいの?」


「てめえの魂の有り様はてめえで決めろ。他人に自分の未来を委ねるな。あんたがあんた自身の頭で考えて行動するんだ」


 自由とは常に責任を伴う。自分で考え、行動したすべての結果は自分が負わなければならない。ゆえにレフは一切の助け船を出さなかった。彼女がどんな選択をしようと、受け入れるつもりでいた。再度手を振り払えば、そこでおしまいである。もう二度と会うこともあるまい。


 レフの問いかけからリェータの変化までごく短い時間ではあったが、レフにとっては永遠に近い時間が過ぎたかのように感じ、再度返答を促そうと口を開こうとした瞬間、リェータの目から一筋の涙がしたたり落ちた。彼女の表情に変化はない。ただ涙だけが止まらない。


「帰りたい。もう故郷ない。思い出ない。でも、母様が教えてくれた故郷見てみたい」


「わかった。おれが何とかしてやる。なら、こいつを上から羽織れ」


 我が意を得たりと口の端をあげたレフはバッグから一着の服を取り出し、リェータに放った。それはイシュタカル南部の砂漠地方の女性が着るハバラというもので、頭から足下まですっぽりと覆う暗色の服である。西都では物珍しいが、東都ではイシュタカル地方からの労働者とその家族も多く住んでおり、比較的多く見られる。リェータがそれを着て歩いても、何の不審もないというわけだった。


 リェータは見慣れぬ服に苦心しながら着てみると、どうにかそれらしい体裁を整えることができた。運のよいことに手枷足枷は両方とも外されて、足には靴まで履かされている。皇族へと差し出すのに奴隷ではばつが悪いのだろうが、その事情にはありがたく乗っかることにした。


「行くぞ。少し走るが、大丈夫か?」


「平気。走るの得意」


「そりゃいい。なら、遅れずについてこいよ」


 レフは控えの裏口を開けると、外の様子を窺った。


 周辺住民が天幕から立ち上る煙に気づいた様子だが、遠巻きに見ているだけで積極的に関与しようとしない。延焼しなければそれでいいと思っているようだ。


 野次馬の目はすべて煙に向いている。奴隷市の天幕から出てくるレフとリェータの姿を見られるとしても、目撃者は少数にとどまるはずだ。逃げるのに最適とは言わずとも、今以上の好機はまず訪れないだろう。


 すでに逃走経路はいくつか考えてあった。そのうちの二つばかりが野次馬に潰されたものの、人混みは奴隷市からの逃亡者を隠す森の役目を果たすはずだ。


 レフは裏口から飛び出ると、近くの物陰目指して走った。途中、後ろを振り返ると、思った以上にリェータの足が速く、何度も追いつかれそうになる。俊敏さでは誰にも引けを取らないと自負していただけに、自尊心が揺らいだが、ここはぐっと飲み込んだ。


 その後レフは野次馬を迂回するように回り込むと、その後ろを悠然と歩くことにした。一歩遅れて、リェータが続く。


 ここで慌てて走れば、いらぬ疑いもかかる。リェータが背中を突っつくも、レフはそれを無視し、街灯のない方へと歩いて行く。


 路地に入り、周囲に誰もいなくなったのを確認してから、レフは一息ついたが、そのとき、大通りに重たい金属が石畳を打つ音がした。リェータを残し、大通りを見てみると、騎乗したアズレトを先頭に、機甲兵二体がそれに続き、さらにその後ろには帝国の紋章が入った馬車があった。彼らがリェータを迎えにきたのは明白である。


「危ねえ。あと一歩遅かったら、あいつらと鉢合わせしてたのかよ。だけど、こりゃ早くしないとすぐばれるな」


 アズレトが奴隷市の異変を知れば、即座に東都東部全域に文字通り蟻の這い出る隙もない非常線を張るだろう。さらにそこから主要幹線と周辺の町や村に、装甲を薄くし、機動力を増した二型機甲兵を配備するはずだ。よもや銃や砲を装備した火力偏重の新型、三型まで引っ張ってくるとは思えないが、油断はできない。いかに通常装備の一型に比して、装甲が薄いとしても、生身の人間が対抗できるわけはないからだ。


 喧嘩を売った相手の強大さを改めて思い知らされ、レフの心に後悔がよぎらなかったと言えば嘘になるが、すぐに弱気になった自分を叱咤し、アズレトたちが遠くに行くのを見送ってから、リェータの元に戻ろうとしたとき、すぐ後ろに彼女がいて、思わず悲鳴を上げそうになる。どうにかとどまったものの、その声は動揺を隠しきれなかった。


「お、おまっ、なんでそこにいんだよ? 隠れてろって言っただろ?」


「ご、ごめんなさい。でも、暗いのいや」


 夜の闇や街灯が届かない路地の暗がりはレフや小悪党にとって、身を隠す場所であり、安全を保証するものであったが、奴隷でありながら、日の光の下で生きてきたリェータが闇を恐れるのは当然のことだったろう。レフはそこに劣等感を抱きながらも、頭を掻いて、反省した。


「まあ、いいよ。で、見たか、今の?」


「うん。あれ、わたし連れに来た人?」


「ああ。で、もうすぐ追ってくる人になるけどな」


 せめてリェータの前では見栄を張って、軽口を叩こうとしたが、アズレトと対峙しなければならないという事実はレフを少なからず臆させた。その心が伝染したのか、リェータが縋るようにレフの服を摘まんだその手はかすかに震えていた。


「あの人、怖い」


 顔までを覆う服を着ているため、彼女がどんな表情をしているのかはわからなかったが、唯一露出している瞳には恐れの色が表れている。アズレトに対する感想は、レフも全面的に同感ではあるものの、口には出さず、自身を発憤させるためにことさら不敵な笑みを浮かべる。


「そんじゃ、さっさとここから離れるとしようぜ」


「うん。それでどこに行くの?」


「まずは国内線の駅だな。そこから西都ヴィェーチルに向かう」


 そのためには大通りを三本越えなければならないが、駅までの道程はさほど困難なく、環状鉄軌道車にも乗ってたどり着くことができた。まだ非常線が張られる前なのだろう、やたら幸運が続くが、レフはそれを全く当てにしていなかった。東都から脱出できて初めて息がつけるというものだ。


 駅に着いたとき、最終便はすでに歩廊の傍に止まっていた。レフは切符を取り出し、二人が乗るべき車両を確認する。二号車の十号室、それが二人の席だ。


 動力車を除き、一号車から二号車までが一等席、三号車から五号車までが二等席であり、残りが三等席となっている。一等席は全席が個室となっていて、長距離鉄軌道車などは寝台もついているが、西都までの短距離なので、二人がけの座席のほかに固定されたテーブルがあるだけだ。


 レフが十号室の扉を開けて、中に入ろうとすると、その脇からリェータが先に乗り込んで、ちゃっかり窓際席を確保する。顔はやはり見えないが、レフに向ける視線はやたら得意げだ。レフは苦笑しつつ、リェータの隣に腰掛けた。


「そんなに窓際がよかったのかよ?」


「うん。これ、ずっと乗ってみたかった」


 どこかで鉄軌車が走るのを見たのだろう、リェータの瞳はこれ以上ないくらいに輝いている。ここまで喜んでくれれば、わざわざ一等席を取った甲斐があるというものだ。


 リェータのはしゃぎように満足する一方で、レフの心はまだ完全な安らぎを得てない。もうそろそろ発車時刻のはずで、何度も懐中時計を気にしてしまう。


 レフの焦心が限界に達した頃、彼にとって福音でもある発車のベルが鳴った。その音に驚いたようにリェータは身体を大きく震わせたが、発車の瞬間のがたんという揺れはさらに大きく、小さく悲鳴にも似た声を上げる。


 その声にレフはつい笑いかけたが、発車のベルに混じって異音が聞こえ、レフの心臓は胸骨を破りかねないほど大きく跳ねた。


 気のせいではなかった。明らかに鉄軌道車のものではない金属音が窓の外から聞こえる。窓に顔を押しつけ、動いてもいない景色を楽しむリェータの上から外の様子を窺うと、駅の外に機甲兵の姿を認め、さらに心臓が激しく胸を打つのを覚えた。


「畜生、もう来たか?」


 どうやら駅の外で悶着があるようだが、鉄軌道車は止まらない。このまま行けと、レフは心の底から祈った。その祈りが天に通じたかどうか、一度走り始めた鉄軌道車は加速をつけ、駅から離れつつある。夜の東都ウートラを抜けて、ようやくレフは自分の座席に戻り、大きく息をつく。


「綱渡りすぎるだろ」


 自ら望んでこの状況に陥ったとはいえ、こうも際どいことばかりだと心臓に悪いというものだ。窓を突き破らんばかりに顔を密着させ、高速で流れていく景色に時折小さな歓声を上げるリェータの姿を見て、レフはその剛胆さをうらやましがればいいのか、それともその鈍さにあきれればいいのか、どちらともとれず中途半端な表情でただリェータの後ろ姿を見つめていた。

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