詐欺師の決意
魔が差した。
一晩明けて、冷静になってみると、レフはつくづくそう思わざるを得なかった。普通に考えれば、奴隷の逃亡幇助など割に合わないのはわかっているはずだ。
単純にこの国の刑法に照らし合わせれば、窃盗罪に加えて、誘拐拉致罪もつく。逃走の途中で奴隷をけがを負わせれば、傷害罪もあるし、死なせれば、殺人罪か、過失致死罪にも問われる。
法は奴隷の人権を守ってはくれないくせに、法曹の場に立たされると急に人道主義者が大挙して押し寄せるのはなぜなのだろうか。
幸運だったのは、リェータの方から断ってくれたことだ。当然だろう。ついさっき出会ったばかりで、しかも得体の知れない男に自身の命運をゆだねるものはいない。
おそらくは昏冥大陸出身であろうリェータも拒絶したところを見ると、いかに文化風習が異なれども、人間である以上、普遍的な価値観が存在するのかもしれない。
「ま、普通はそうなるよな」
淡々と言いつつも、レフは胸に小さな痛みが刺さるのをずっと感じていて、内心では持て余し、苛立ってもいた。
部屋にこもっていると、よからぬことばかり考えてしまいそうになってので、外に出てはみたが、当てがないので、東都を足の赴くままに散策した。
馴染みの安食堂で昼食を兼ねた朝食を平らげた後は本当にやることがなくなってしまう。
己の本分に立ち戻り、誰かをだまして、金を巻き上げようとも考えたが、金に困っているわけでもなく、どうにも気が乗らない。
さて、どこで時間をつぶすべきかと思案に暮れている間にも、足は動き続けていて、無意識のうちに習慣化した行跡を辿っていく。
レフの心が現実へと帰ってきたとき、目の前には奴隷市の天幕があった。レフが目を瞬かせていると、どうやら今日の競売は終わったようで、天幕の出口から身なりだけはいい人買い連中が溢れるように出てきた。
レフはその流れに巻き込まれないよう、近くの路地に逃げ込み、彼らの様子を何となく見ていた。
と、そのとき、二人の若い人買いの会話が漏れ聞こえ、レフはその後ろを追う。
「おまえが言ってた女奴隷っての、出てこなかったじゃないか」
「おれを責めるなよ。おれだって、がっかりきてんだからさ。せっかく親父の金庫から金幣千枚くすねてきたってのによ」
「馬鹿! 声が大きいっての! おまえが大金持ってることを知られたら、襲われるだろうが!」
「安心しろよ。ここにいる連中は金幣千枚くらいで動じるようなかわいげなんてありゃしないんだからさ」
警戒感のかけらもない彼らの後ろを歩いているレフには文字通り値千金の情報だったが、彼の詐欺師としての感覚はこのとき麻痺しており、リェータが出てこなかったという一事にのみ集中していた。
少し深く考えれば、あらかた見当がつく。昨日、あれだけの混乱を起こしたのだ。もう競売には出てこないだろう。となれば、奴隷商があらかじめ当たりをつけていた相手とのみ交渉するかもしれない。
金幣千枚、もしくはそれ以上の金を気前よく出せるとなれば、数は限られる。リェータが売られる先もおおかた絞られるというものだ。
と、そこまで考えてから、彼女の行く末に思いをはせている自分が心底不可解であり、レフは人の流れから外れ、再び近くの路地に身を潜め、なぜそう思ったのかを考えた。
自分自身を改めて観察することで、いい暇つぶしにもなるだろうとの判断ではあったが、それはすぐに中断させられた。天幕から遅れて出てきた中年の人買い三人の会話がレフの耳をたたいたからだ。
「いったい何なのだ、あの若造は! 我らを差し置いて、一人で交渉しようとは!」
「しっ! 大きな声を出すものではないぞ。やつの制服を見ただろう? 皇族の侍従武官だぞ」
「皇族だって? いったい誰があの奴隷女を買うって言うんだ?」
「それがな……どうやら泥豚王らしいんだよ」
帝国広しと言えども、そう呼ばれるのは一人だけだ。フーリク王ヨシフその人であり、無論泥豚王とは蔑称である。
泥豚とは帝国領では産しない品種の豚で、常に泥に浸かっているためにそう呼ばれており、見た目は汚らしいが、肉は非常に美味で、帝国では高級食材としても知られている。帝国でも何度か持ち込んで、育てようと試みたものがいたが、秋の早くから春の遅くまで泥が凍ってしまうこの北方の地では飼育するのが難しく、何度も失敗している事情がある。
温室で育てるにしても、採算が合わないので、もっぱら輸入するほかない。食卓を潤す食材となる泥豚がヨシフと同列に扱われていることを知ったら、逆に名誉毀損で訴えるかもしれない。
それほどまでにヨシフの人柄は褒められたものではなかった。
皇族は一般人とは異なる刑法である「皇籍法」によって裁かれるが、これはある意味特に厳しいものがある。
皇室の権威をおとしめるような行為を働けば、問答無用で皇籍を剥奪されるほどだが、ヨシフはそれを何回も犯してきたのだ。民間への収奪行為、住居の不法侵入、傷害、その他諸々数え上げればきりがない。かろうじて殺人を犯していないのだけが救いだが、そうでなくとも、本来ならヨシフは何度皇籍を剥奪されたかわからない。
そんなヨシフが未だ皇族で居続けられるのは二人の人物が深く関わっている。
一人は現皇帝カルル二世だ。熾烈な後継者争いを勝ち抜いただけに決して無能ではなかったが、歴代の皇帝と比して、見劣りするのまた事実である。しかも、情によって法を枉げることがしばしばあり、それが結果的にヨシフを救っている。
ヨシフがカルル二世にとって特別な存在かと言えば、おそらくはそうなるのだろう。ヨシフはカルル二世にとって甥に当たり、夭折した弟フランツの忘れ形見なので、余計哀れに思ったのだ。ともすると、自分の子供たちよりも厚遇する節もあり、しかも「八王」の一角を占めるまでにも至ったのである。
八王とは皇位継承権を持つ皇族を指し、それぞれ帝国が滅ぼした国の名が与えられる。
すなわちカストルム王ディミトリ、ベクラ王ボリス、ジュアム王ダニーラ、イシュタカル王アルトゥール、レレク王オリガ、アンドログラファ王カピトリーナ、モリアーナ王コンスタンティン、そして、フーリク王ヨシフとなる。単純にこの並びの順に第一皇子から第八皇子と呼ばれることもあり、女性であっても皇子と呼ばれる。
王と言っても、領地などはなく、皇宮の一角に王府を与えられ、王としての執務を果たすのみだ。ここで皇帝としての執務を学ぶというわけだが、今やヨシフが王府に現れることはない。なぜなら、もう彼の身体は動かなくなっていたからである。
長年の荒淫と過食がヨシフの身体を蝕んでいき、脂肪の塊が大人二人分もついた人ならざる何かへと変貌しつつあった。両の足で立てなくなり、心臓が時折激しく痛むことがあってなおヨシフは自らの健康を省みず、同様の生活を送っている。
もうヨシフは長くない。その認識が彼の気ままを許してきたこともある。他の王も最初からヨシフが皇位継承に絡んでくるとは思っていなかったが、余命幾ばくもないとなれば、もはや脅威に値せず、その分、彼に対する追求も緩むというものだった。
だが、ヨシフがこの世界から退場するまでにあと何人の人間が不幸を被ることになるのか。彼の周りが戦々恐々としている中、ただ一人だけ平然と構えているものがいる。
それが二人目であるアズレト・アシュケナージであり、身分はフーリク王付侍従武官だ。この有能な参謀が存在しなければ、いかにヨシフといえども、早い段階での処罰を免れなかっただろうとまで言われている。悪く解釈すれば、ヨシフの悪行の片棒を常に担いできたとも換言できる。
そうであるにもかかわらず、アズレトの評判がヨシフに引きずられるように落ちなかったのは、彼自身があまり表に出なかったこともあるが、他への根回しも怠らなかったからだ。そのおかげで、アズレトはあろうことにカルル二世からの信頼も厚く、皇帝は彼の手を取りながら、命数少ないヨシフの面倒を直に頼んだほどだ。
アズレトはヨシフからの要求をほぼ完全に満たしたばかりか、主人が何かを命じる前にそれを察し、行動したこともあり、ヨシフからは絶対の信頼を置かれている。
逆に要求を果たせないときでも、ヨシフの精神を巧みに誘導してしまい、結果的に自らの信頼をさらに高めさせることにも成功していた。
そのアズレトが奴隷商の天幕を訪ねているらしい。先ほどの人買いたちの話を聞く限りではそうなるはずだ。リェータの情報をどこかで嗅ぎつけたのか、あるいは奴隷商自ら営業しにいったのか、それは定かではないが、ともあれリェータの未来はいかなる人買いに買われていったときよりもひどいものになりそうだった。
「あーあ、かわいそ」
さすがのレフも同情を禁じ得ないが、それもリェータが選んだ道である。前途が無難なものになるよう祈るほかない。
ただ、その前にリェータの買い付けに来たという侍従武官の姿を一目見ておきたかった。皇宮の事情などまるで縁のないレフですらアズレトのことは小耳に挟むくらいだ。どんな人物か、確かめておきたいと思うのも当然のことだ。
しかし、普段ならば、レフの思考はこんな危険な方向へと傾かない。危うきには徹底的に近づかないが故に今の境遇があることを知っているからだ。その侍従武官がおそらくは今まで接した中で最も剣呑な人物だとわかっていながら、見てみたいと思うのはレフにとって異常なことだった。
明らかに精神の均衡を欠きながらも、レフは自らの欲求に赴くまま、奴隷市が開かれていた天幕へと入っていく。表面上は財布でも落としたかのように狼狽の演技を続けながら、天幕内を片付けている奴隷商の手下であろう男に声をかけた。
「あの、すいません。この辺で牛革の財布を見ませんでしたか?」
「財布……ですか? いや、ちょっと見てないですけど、どこにいたかわかりますか?」
「いえ、中が暗くて、どこにいたかまでは……どうしよう……あの財布には金幣八百枚が入っているのに」
財布の中身を聞いたとたん、手下の目が怪しく輝いた。それだけの金があれば、もうこんなところで働かずとも、一生安泰に暮らせる。それどころか、家族と愛人を囲っても、十分にやっていけるほどだ。男の表情に俄然意欲と金銭欲が満ちた。
「わかりました。私も探しますよ」
「ああ、ありがとうございます。じゃあ、僕はあっちを探すので、あなたは向こうをお願いできますか」
「いいですよ。ああ、でも、奥の方へはあまり行かないでくださいよ。今、旦那様が接客中でしてね。何でも偉い人の使いだとか」
「へえ……」
レフの目に冷たい輝きがともったこともわからずに、手下の男はほかのものにとられてなるものかと、目を血走らせ、床を這いつくばるようにして、金幣八百枚が入った幻想の財布を探し始めた。それを見たレフは小さく冷笑すると、進入禁止とされた奥へと向かう。
その手前で一旦手下の方へと目を向けたが、彼はあるはずもない財布とそれに伴う夢を探すのに懸命で、レフのことなどまるで意識から外れているようだ。せいぜいがんばれと内心で応援しながら、レフは天幕の奥、おそらくは壇上に立つ前の控えのような空間へと身を滑らせた。
するとさらに奥から会話が聞こえてきたので、レフは物陰に潜みつつ、耳を澄ました。商談の方はあまりうまくいっていない様子で、奴隷商のうろたえた声がまずレフの聴覚を刺激する。
「いや……しかし、金幣千枚というのは……いえいえ、確かに願ってもない話ではありますが……」
「何を渋る? 奴隷一匹にいったいいくら払えと言うのだ?」
高圧的ではあるが、やけに澄んだ声の持ち主が噂の侍従武官であろう。是非ともご尊顔を拝し奉りたいものだと、首を伸ばして、様子を窺うと、どうにかその横顔だけが見えた。その瞬間、レフはうんざりしたような表情を浮かべた。
「うわあ、とてもじゃねえけど、友達にはなれそうにないな」
垣間見たアズレトの顔は整っていたものの、秀才にありがちな神経質で狭量な性格がにじみ出ていた。第一印象だけで生涯の友誼を結ぶか、あるいは不倶戴天の敵同士となるかに分かれることもあるが、レフにとって、アズレトは確実に後者であった。もっとも、アズレトの方でもレフとの友情などありがたいものとは思わなかっただろうけども。
ただ、アズレトを構成するのが、単に頭の良さや性格の悪さだけではないような気がした。もっと異質な何かが彼の周囲にたゆたっている印象を受けるのである。
もっとよく見ようと目を凝らしたその時である、突然、何かの気配を察したかのようにアズレトがレフの方に顔を向けた。
レフは慌てて身を隠し、早くなる拍動を抑えるのに必死になる。見られてはいないはずだ。向こう側は明るく、こちらは暗い。目を向けたとしても、アズレトの瞳に映るのは闇だけのはずだからだ。
アズレトの勘の良さに舌打ちしたい気分に駆られたが、それもどうにか抑えると、レフは音だけで様子を窺うことにした。
ここから逃げるにしても、アズレトの視線があってはできないからである。その機会は意外と早く訪れる。急に黙ったあげくに、あらぬ方向を向いたアズレトに奴隷商が声をかけたからだ。
「あの、どうかなされましたか?」
「……いや、何でもない。先ほどの話の続きだが、言い値はいくらだ? とりあえず聞いておこう」
再びアズレトと奴隷商が話し始めたのを聞き、レフはその場から逃げ出した。商談の行方は気にかかるが、これ以上は無理だし、予想も簡単につく。おそらくはどこかでアズレトが強引な妥協案を提示するはずで、それを奴隷商がのまなければ、強権を発動させ、無理矢理リェータを奪っていくに違いない。
その際、彼らの営業許可を取り消し、徹底的に潰すことも話すだろう。そこまでされたら、奴隷商としても突っぱねることはできず、いずれリェータを手放さざるを得なくなるはずだ。
奴隷商が最大限得られる利益は自身の想像より遙かに少ない売上金と皇族と渡りを持てるくらいだろうが、それも泥豚王とあってはあまり意味がないというものだ。他の皇族はわざわざ奴隷などを欲さずとも、奉仕してくれるものはそれこそ星の数ほどいるのだから、ヨシフ亡き後は縁も切れてしまう。これも引き際を間違えたら、すべてを失ってしまうのだから、あまりにも割が合わない。
交渉がどう転ぶにせよ、リェータの命運は定まったと言える。これ以上深入りすべきではないとレフの理性は激しく警鐘を鳴らし、徹底的に戒めようとする。それでも感情が揺れ動き、容易に定まらない。
とりあえずその場から去ることにして、レフは再び天幕の中へと戻っていった。すると、まだ手下の男は財布を探しているようだ。その姿に妙な好感を覚え、レフはつい顔が緩んだ。欲望にまみれてはいるが、アズレトに比べれば、何とも言えないかわいらしさがあるというものだ。レフは吹き出しそうになるのを堪えて、男の背中に声をかけた。
「ああ、すいません。財布、見つかりました」
レフが元々持っていた財布を見せたとき、手下の顔には絶望が貼り付けられた。レフは喉元まで出かかった失笑を何とか嚥下しつつ、手伝ってくれた手下をいたわるような表情を浮かべる。
「お手数おかけして申し訳ありませんでした。これ、少ないですけど、迷惑料として受け取ってください」
そう言って手下に手渡されたのは銀幣一枚である。彼が得るべきだった利益は八万分の一にまで減少したわけだが、元々なかった幻想の金幣八百枚よりも現実の銀幣一枚の方が遙かに重みがあるはずだ。そうとも知らず、半ば放心した手下の顔に喜ぶ風はない。レフは感謝の意を表しつつ、天幕を後にした。
手下に向けていたふやけた表情も出た途端に緊張の色を湛える。リェータが売られる先がわかり、遷都まであと四日であることを考えると、一両日中には引き取られるはずだ。その前に救い出さないと、リェータは一生手の届かないところへと移されてしまう。
そこまで考えてから、レフはふと足を止めた。
「救う? 誰が? 誰を?」
誰のところにどんな人名が入るのかをわかっていてなおレフは答えを出すことを逡巡した。救うなどとおこがましいにもほどがあるし、その資格があるとも思えない。そもそも差し伸ばした手はすげなく払われ、その時点で二つの道は交わることなく進んでいくはずだったのだ。
なのに、この胸の痛みと熱さは何なのだろうか。レフはつい胸を押さえ、その意味を自問してみたが、自答はいつまで経っても得られなかった。
そして、答えがないままに、レフは自らの身を分の悪い賭へと投じることになる。
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