詐欺師の答え合わせ

 中に入ると同時に扉代わりの布を下ろすと、内部は闇に包まれた、というわけではなかった。古ぼけたランプがまだ点いていて、淡く周囲を照らしていたからだ。


 天幕内は質素な調度で整えられていたが、他の奴隷と比して、かなりの好待遇らしい。もっとも、すべての奴隷が冷遇されている訳ではなく、むしろ、売れるように健康には留意されているほどだが、その点を差し引いても、個人の天幕が用意されているのは極めて異例のことだ。


 部屋の主はどこにと探すまでもなかった。レフの目当てはベッドに腰掛け、静かに侵入者を見つめていた。瞳の中には怯えもなければ、驚きもない。ただ透徹とした目線をレフに向けている。


 視線が交錯したとき、なぜかレフの背筋に耐えがたい悪寒が走り抜けた。恐怖に近い感情が腹の底からわき起こるのは、今まで自分が見たことのない人間を目の当たりにしているからだと押しつぶされそうな感情の中、レフのきわめて冷静な一部は自身の状態をそう判断した。


 その一方で、口角が上がるのが押さえきれない。レフはその動きに逆らわなかった。いかに相手が動じてないとしても、警戒しているのはまず間違いなく、相手の緊張を解きほぐすためにも笑顔を作っておくのは妥当な行動であると言えよう。少なくとも敵意はないとの意思表示はできる。


 傾城の血を色濃く引いたレフが微笑めば、世の女たちがまず放っておかない。譬え笑顔が強ばっていたとしても、向こうが勝手に好意的に解釈してくれる。望めば、レフは資産家の女主人の寵愛を経て、少なくとも経済的には恵まれた生活をすることも可能だっただろう。


 普段なら、女の反応が見る前からわかるものだが、今回は様子が違った。女奴隷が動じた素振りは微塵もなく、レフを見つめる視線にも変化はない。変化は視覚からではなく、聴覚にもたらされた。


「あなた、だれ? 見たことない人」


 揚音や抑揚に独特の違和感を覚えるが、流暢な大陸公用語、つまりは彼女から発せられたのはヴァラール語だった。おそらくはバラガン大陸に連れてこられて、相当日が経っているのだろう。


 言葉による意思疎通が可能だと知り、レフは内心で安堵の息を漏らす。緊張が緩むと同時に気が大きくなるのもレフの悪癖の一つで、つい軽口のように自己紹介を始めた。


「見たことない? そりゃそうだろ。おれを人売りのくずどもと一緒にするなよ。おれは通りすがりの小悪党、詐欺師のレフ・グレフなんだからさ」


「れふ……ぐれふ? 名前、変」


「そいつぁ、どうも。おれが敬愛すべき親父やら、お袋やら、どっちかが大した期待もなくつけたんだろうよ。まあ、それはいいとして、あんたの名前も教えてもらいたいんだけどな」


 レフとしては軽い気持ちで聞いてみたのだが、思った以上に深刻な顔で女奴隷は首を振った。


「だめ。名前、とても大事。悪い人に名前教える、魂食べられる、これ同じ」


 どうやら自分は悪者認定されたらしいと、自己紹介のまずさにレフは己の失敗を悟った。彼女の本当の名前を聞けないのは残念だが、とりあえずは彼女を示す記号はほしいところだ。レフは両手を挙げ、降参したような態度で、再度訊ねた。


「わかった。あんたの意思は尊重するよ。じゃあ、あんたはここでなんて呼ばれるんだ?」


「ミオート。みんな、そう言ってる」


 ここの奴隷商どもは名付けの感覚がとてつもなくひどいようだ。いくら奴隷でも「蜂蜜」と名づけるのはどうか。レフは失笑しかけたが、さすがに大きな声を出すのははばかられ、全霊の力を込めて、体外に出ようとする笑いを寸前で食い止めた。代わりと言ってはなんだが、レフは彼女の別の仮名を与える。


「おれはここの連中じゃないから、別の名前で呼ばせてもらうぜ。そうだな……リェータなんてどうだ?」


 レフの感覚も奴隷商とあまり変わらないようだ。なぜだかはわからないが、強烈な日差しを浴びたように感じて、つい「夏」と命名してしまったのだから。それでも、あの豚のような奴隷商よりは遙かにましだと思っている。


 女奴隷の同意も得ずについ仮名をつけてしまったが、どうやら向こうに異存はないようだ。異存と言うよりは、他者がどんな風に呼ぼうとも、自分は揺らがないと思っているのだろう。それならそれでいい。話は早いほうが助かるというものだ。もっとも、レフはせっかくつけた名前をここで言う機会はなかったが。


「でさ、ちょっとあんたに聞きたいことがあって、ここまで来たんだ。あんたさ、人買いどもの前に引き出されて時に何を考えていたんだ?」


 リェータはレフの質問がわかりかねるというように小首をかしげた。その様がやけに幼く見え、レフは意外な顔を浮かべる。あまりにも年相応の少女のものだったからだ。リェータのどこかに神聖性を感じていたレフが抱いた感情は自分でもわからない失望に似ていた。


 しばらくして、レフの質問が飲み込めたのだろう、リェータははっとしたように目と口を開いた。


「すっごく眠かった!」


「はあ?」


 レフはつい素っ頓狂な声を上げてしまってから、慌てて口を塞いだ。自分自身でも驚くくらいに大きな声だったからだが、幸い周囲に漏れ出してはいない、もしくは誰の耳にも届いていないようで、しばらく待っても、誰も天幕の中に入ってこなかったので、そこでようやくレフは口から手を離した。


 ただ、そこからがいけない。リェータの言葉を脳裏で反芻していくうちにある事実を思い出したからだ。奴隷が買い手に前にお披露目されるとき、血色がよく見えるよう事前に食事をとらせておくのが普通である。


 つまりリェータは眠気を堪えるために、あのように力強く正面を向いていたというわけだ。たぶん、下を向けば、あの状況でも眠ってしまったほど、睡魔が襲ってきていたのだろう。


 そう解釈したとたん、レフの腹の底から強烈な笑いの発作が噴き上がろうとしていた。ここで大笑いしてしまえば、今度は必ず気づかれる。そうは思っても、まさかそんな理由だったとは予想もつかず、間歇的に起こる失笑の波を我慢するのに全身全霊を費やさねばならなかった。


 それからどのくらいの時間が流れたことか、ややあって、レフはついに自分自身に打ち勝った。まだ笑いの残滓がこびりついているが、大きな発作はないだろう、おそらく。


 レフが必死に戦っている間、リェータは不思議そうに彼をただ見つめていた。何がおかしいのか、わからないといった風情だ。そんな彼女にレフは直接的な回答は避け、用件が済んだことを伝える。


「悪かったな、あんたに時間をとらせて。まあ、その礼ってわけじゃないけど……」


 続く言葉はレフにとっても意外なものだった。心の空隙を衝いて出た、そんな一言がレフの口から飛び出した。


「あんた、ここから逃げたくないか? もし、そうだったら、おれが逃がしてやるぜ」

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