詐欺師の煩悶

 レフが住処としている場所は東都の行政区域から少し外れたところにある。ヴァラールがまだ王国を称していた末期に建てられたという五階建ての建物で、すでに築百年以上経っているが、住んでいる分にはなかなかに快適だ。


 難点は最寄りの鉄軌まで徒歩二刻ほどかかることと、倒壊の危険性におびえて暮らさねばならないことくらいだが、後者に関しては遷都に合わせて、引き払うつもりなので、特に問題はない。


 問題は、最上層のさらに上、屋根裏を違法改築した屋根裏部屋に所狭しと積み上げられた本の処分だった。もはや密林と言い換えてもいいほどに積み上げられた本の塔は絶妙な均衡の上に成り立っており、少しでも触れれば倒れるだけではなく、他の本の塔を連鎖的に巻き込んで、最後には本の洪水が起こるだろう。


 先日までのレフは本の処分に頭を悩ませていたところだが、奴隷市に寄ってからの彼はすでにそのことを失念していた。


 まるで酔っているかのように目の焦点は定まらず、心はどこかに飛躍しているかのようだったが、それでもレフは本の密林をよけつつ、一つも崩すことなく、そのままベッドへと倒れ込んだ。


 しばらくうつぶせのまま、寝床の感触を味わっていたが、やがて仰向けになると、天窓から双子月の姉であるスィーニーが顔をのぞかせており、彼女から発せられる柔らかな青色の光が室内を満たしていく。


 レフは何とはなしに天窓の外に広がる夜空を見ながら、自分の心があの奴隷に占められていることに気づいて、狼狽と納得、両方の感情を抱いていた。


 かつて、自分の心が一つのものに占領されたことはなかった。正確にはその余裕がなかったのだ。何かに心奪われれば、その分別の何かへの対処が遅れることになる。時にそれは致命的な過誤を引き起こし、取り返しのつかない事態を招きかねない。ゆえにレフは常に心のどこかを空虚にするようにしていた。


 そんな心がけがあったにもかかわらず、レフは奴隷市から自宅までどのように帰ってきたかすら覚えてなかった。このとき、レフは大金を持っていたこともあり、通常、いっそう警戒するはずなのだ。放心することはまずない。中心部から離れるに従って悪化していく治安を慮れば、幸運の女神が三回くらい媚びてきたらしく、一度も危険に出くわさなかったのは奇跡と言ってもいい。


 ただ、レフにはそこに思い煩うだけの暇がなかった。あるのはやはり奴隷の娘のことだけだ。恋慕や恋着からなる甘い考えでは決してない。むしろ、レフは女性に対して、無自覚の嫌悪と絶望を抱いていたからである。すべては母親に起因することであり、幼児期に見た彼女の姿は遅効性の毒のようにレフの心へと染み込み、今や致死量限界まで汚染されていた。


 レフの中で渦巻く感情を表すとしたら、羨望、ねたみ、怒りの三種が混ざり合うことなく、それぞれが独自に主張した結果、表現できない負の感情に成長したものと言えよう。それらは彼の価値観に密接に結びついており、いかにゆがみ、曲がっているとしても、自らが築き上げた精神的な城郭の一角が崩されたかのように思えたのだ。


 すべてに失望しているレフにしてみれば、世界はかくあるべきなどという幻想はとうの昔に切り捨てている一方で、奴隷は生気をない顔でうつむき、運命が自身の頭上を飛び越えて決まっていくことを唯々諾々と受け止めるだけの蔑如すべき存在であるとの定義は万年氷のように固着してしまっていたのである。


 現にレフが今まで見てきた奴隷たちはいずれも彼の価値観を覆さなかった。必死にあらがおうと顔を上げるものがいなかったわけではないが、目が泳いでいたり、手足が震えていたりと、韜晦するだけの才能すらないものばかりだった。軽侮以外の価値をどうしても見いだせなかった。


 しかし、あの女奴隷が虚勢やはったりをかましていたとはとうてい思えない。彼女の瞳は猛禽のように力強く、純水のように澄み切っていたからだ。まるで自身の境遇が満ち足りていると言わんばかりな態度が、レフには心底不可解きわまりない。


「何だってんだ、あの女は?」


 そう独り言ちてみるも、やはり回答は得られない。最初から期待などみじんも抱いてはいなかったものの、それでも不愉快になり、忌々しげに舌打ちした。


 普段、レフは疑問が生じたとき、答えを本に求める。彼の部屋が埋もれるほどの乱読の徒であるのはそれゆえだったからだが、本の中に彼が求める回答があった例はごく少ない。むしろ、本を読むことで別の疑問が生じ、却って迷いを増幅させることもあった。


 ただ、学んだこともある。この世界の真理はまだ本の中に書かれておらず、そうであるがために答えなど存在しないのだと。答えなき答えはレフの精神世界を広げ、柔軟性をもたらせた。その結果、拘泥と執着からは解放されたはずと、レフは思い込んでいたが、それが飛んだ勘違いだったことを奴隷市で思わされたわけである。


 一向に考えがまとまらないレフは勢いよく半身を起こした。すると、古びたベッドが乱暴に扱われることへの抗議か、大きな軋みに音を上げるも、主人はその音にすら気づかぬ様子でしばし考え込んでいた。


 さらにその表情を固定させたまま、レフはベッドから降りると、入ってきたときとは逆に本の塔を倒さぬよう外に出て行った。意思の力を感じさせぬ動きで、レフ自身、寒風にさらされ、くしゃみをしたことで、ようやく自身が外に出たことに気づいたほどだ。


「何やってんだ、おれは?」


 行動と意思がかみ合っていないことに少なくない戦慄を覚えたものの、レフはなぜここにいるのか、即座に把握して、そして、失笑しかけた。あの女奴隷の元へと赴こうとしていることに気づいたからだ。


 冷静に考えれば、レフの行動はきわめて合理的だった。と言うのも、あの女奴隷が引き出されたとき、彼女が抱いた気持ちは彼女自身しか知り得ず、それを知りたければ、直接聞きに行くほかないからである。


 しかし、だからといって、この寒さを押してまで聞きに行く必要性があるのか。そう問われれば、レフ自身、首をかしげざるを得ないところだが、足はいつの間にか奴隷市のある方へと向いていた。


 肉体は意思の下で完全に支配していると思い込んでいるレフだが、二度にわたる造反に戸惑いつつも、あえて逆らうことはせず、足の赴くまま、歩いて行く。


 それがよくなかった。しばらく歩いていると、寒さが身にしみてきたのだ。引き返そうにも、相当の距離を歩いてきたので、戻るのが惜しい。かといって、このまま行っても帰りがつらい。


 よもや町中で立ち往生するとは思ってもみず、どこかで暖をとろうと周囲を見渡すと、運良く屋台を見つけ、すかさず飛び込んだ。そこで揚げパンを二つ、暖めた葡萄果汁を手に入れ、人心地つくことができた。


 帰りは帰りで何とかなるだろうと高を括って、先を急ぐことにした。奴隷商を探すのも手間だからだ。


 奴隷商らは城壁内に野営はしない。近隣の住民がいやがるからという理由もあるが、何よりも奴隷の逃亡を防ぐことが優先されるからだ。もし、この広い東都に逃げられてしまったら、人の多さで追うのも一苦労だし、潜伏する場所も多いので、そのまま遁走される可能性も高まる。故に奴隷商は取引を終えると、より郊外へと移動するのだ。


 とはいえ、すでにこの時代、人口が際限なく膨張を続けた結果、城壁外にも民家が建ち並び、都市の境目は非常に曖昧なものになっている。そうなると、奴隷商はより人気のない場所へと移動するに違いない。レフもその事情を知っていたので、奴隷市が開催された場所から最も近い寂れた場所を探すことにした。


 人家の少ない場所というのは限られているか、あるいは帝都から離れなければならないので、場所自体は比較的探すのが容易だった。加えて、奴隷商とは大所帯であることが多く、近くに民家がないのに騒がしい場所を探せば、必然的にたどり着けるというわけだ。


 場違いな音をひたすら追っていけば、自然と足はそこへと向かう。


 東都東大路から東大門を抜け、北方大陸公路をしばらく歩いて、南に目を転じると、小さな林がある。奴隷商とその関係者はそこに天幕を張り、野営していた。今夜は護衛とおぼしき連中が酒を浴びるように飲みながら、下品な笑い声を夜風に響かせていた。


「さて、どうすっかな?」


 レフは木陰に潜むようにしながら、彼らの様子を窺った。護衛の数は予想よりも多くはないにせよ、強行突破できるほど少数でもない。強引な手段は後にとっておくとして、もう少し穏当な手を考える必要がありそうだ。できることなら、大騒ぎにしたくはない。


 さらに贅沢を望めば、誰とも顔を合わせたくはないのだ。下手に覚えられでもしたら、その後、何かあったときに真っ先に疑われることになる。


 では、どうするべきか。レフの頭脳は高速回転し、次から次へと策を繰り出してくるが、どれもあと一つ足りない。このまま悩んでいると、朝になってしまいそうだったので、レフは次善の策を採用した。


「仕方ねえ。全員眠らせるか」


 いくら瞬間催眠の効果がある光球を作り出せるとは言え、すべて合わせて三桁に達しようという人数を眠らせるのは骨だ。


 そんな苦労を負ってまで、話を聞くべきかとの疑問がわき起こってくるが、レフは強引にそれをねじ伏せた。逆にここから引き返しても、後悔が募るに決まってる。どうせだったら、初志を貫徹した方が気分もよいというものだ。


 レフは複数の光球を作り出すと、その光りに気づかれぬよう、そっと手の中にしまい込んだ。あらかじめ作っておけば、不測の事態にも対処できよう。


 そこから先は運だが、いまいち自信がない。もし、自分が幸運な人間であるのならば、こんな時間に奴隷に会いに行こうなどは思わないだろうし、そもそも詐欺師にならずともよかったのだから。


 自らの境遇を再確認し、ため息をついたところで、レフは真っ正面から乗り込むことにした。周囲には逃走防止のための鉄条網が張られていて、絡まないように侵入するのは困難だったからだ。こんなことで一張羅兼作業着を傷つけたくはない。


 レフが無造作に近づくと、退屈そうにあくびをしながら、緊張感のかけらもなくしゃべっていた二人の不寝番もさすがに接近してくる不審者に気づいたようだ。


 誰何の声をかけようとして、レフの格好が貴族然としていて、どうすべきか、一瞬迷ったらしい。もしかしたら、商隊長の知り合いでも訪ねてきたと思ったのかもしれないが、すぐにそんな予約がなされていないことを思い出したようだ。


 再び口を開きかけたところに、レフの光球が高速で飛び出し、瞬く間に彼らの眼前で止まった。すると、彼らの瞳は焦点を失い、体は立っているのがやっとなほど弛緩した。


「お勤めご苦労さん。そのまま見張りを続けてくれてかまわないぜ。ああ、それとおれのことは忘れてくれよ」


 わざわざ言わなくても、目が覚めたら、彼らは勝手に忘れてくれるのだが、いちいち言わないと気が済まないのが、レフの偽悪趣味な表れと言ったところだろう。悠然と二人の間を抜けようとして、少し歩いたところでふと気がついた。彼らに内情を聞けばいいことに。


「なあなあ、ちょっと聞きたいんだけどさ……」


 一刻に満たない時間でレフはこの隊商の実情を知る。まず商隊長はひときわ派手な電導貨車に寝泊まりしていることがわかった。問題は例の奴隷だが、見張り番の彼らには知らされていないようでどう質問しても、ただ彼らは首を振るばかりだ。


 ただ、推測は容易につく。あの女奴隷はこの隊商にあっては同量の黄金と同価値、いや、それ以上に高価なものであり、商隊長としては常に目の届くところにおいておきたいに違いない。


 となると、商隊長と同じ馬車か、あるいはその近くの天幕にいるはずである。当然のことながら、手を出したら、「商品価値」は著しく下がるから、むしろあまり近くに置かないかもしれない。彼が性欲と金銭欲の間でどのような葛藤があったのか、それも知りたいところではあるが、今は後回しにするべきだろう。


 レフは陰から陰へと、松明の灯りを避けるように移動しながら、目的の場所へと向かう。すでに夜も更けているので、野営地に出歩くものはほとんどいない。


 先ほどまで酒盛りを楽しんでいた護衛たちも次第におとなしくなってきている。すべての音が周囲の木々に吸い取られたかのような静寂の中、人の気配だけがそこかしこにあり、言葉にできぬ気持ち悪さがある。


 そんな中、ついにレフは女奴隷がいるとおぼしき天幕へとたどり着いた。その傍にはひときわ目立つ貨車がある。あれが商隊長の乗る貨車だろう。かすかに揺れているが、中で何が行われているのか、あえて考えるまでもない。おさかんなことだとレフは苦笑しつつ、天幕へと目を向ける。


 入り口には見張りが二人。外からの侵入者を防ぐというよりは、奴隷の逃亡を防ぐためのものだろう。手枷足枷をつけて、なお心配なようだが、レフから向かって右の見張りの方はそうでもないらしく、どこからか持ってきた椅子の上で夢の世界へと続く船を漕ぎ出している。もう一人は責任感が相棒よりはあるらしく、周囲に目を光らせていた。


「面倒だな」


 どうせだったら、両方とも光球で催眠状態にしたいところだが、一人はすでに眠りかけていて、目を閉じている。実際に見てくれないことには催眠状態にならないし、不審な物音でもすれば、あの状態では眠りが浅いはずで、すぐに起きるだろう。


 さらに貨車と女奴隷の天幕の周囲は他の天幕や貨車などがなく開けており、下手に光球を飛ばせば、催眠状態になる前に大声を上げられてしまうかもしれない。


 このまま彼らが寝入るのを待つのも一つの方法ではあるが、それでは時間がかかりすぎる。一般的な生活を送ってきたものであれば、この状況を完遂することを不可能だと諦めたかもしれないが、レフの詐欺師としての経験が彼に機転を与えた。このような状況、すでに何百回と繰り返している。今更、慌てふためくものでもなかった。


 要はこちらが近づくのではなく、向こうから来てもらえばいいだけのことだ。レフは近くの木箱の中に手を突っ込むと、そこから缶詰を取り出した。その缶詰を見張りの方へと転がしたのである。


 今までなかったものが現れて、起きて警戒していた見張りはぎょっと驚いたように身体を強ばらせた。すぐに傍で寝ていた相棒をたたき起こす。その相棒は不満げにうめきながら、何が起こったのかを聞き、聞いた後でもう一人の見張りの小心さに舌打ちした。


「んだよ、おおかた明日の食事番が材料でも取りに来て、落としてったんだろうがよ」


「だったら、その姿を見かけるだろ? いないんだよ」


 その会話の途中でまたしても缶詰が彼らの下へと転がってくる。小心と罵った見張りもこれには吃驚したようで、小さく喉の奥で悲鳴にも似た声を上げた。


 この場合、大声で誰がいるのかを探るべきだったのだろうが、野営地の周囲があまりにも不気味な雰囲気なので、彼らはそれに飲まれてしまい、つい声を出すことも忘れ、缶詰が転がってきた方向へと腰が引けた様子で歩を進めていく。


「お、おい、誰かいんのかよ?」


 闇の向こう側にささやきかけるように呼びかけるも答えはない。時折、怪しげな風の音とさぞ張り切っているであろう商隊長の貨車が過重に苦痛の声を上げるくらいで、ほかに何も聞こえない。


 彼らは意を決して、物陰の方へと飛び出していくと、そこには誰もいなかった。安堵の息をつこうとしたが、その息は途中で止まることになる。


「いよっ。夜遅くまで大変だねえ」


 背後から声をかけられて、二人の奴隷がはっと振り返るも、そのとき彼らの眼前には不審者の姿ではなく、煌めく球体があった。驚く声も上げられず、彼らはそれを視認した瞬間、急にうつろな表情を浮かべた。


 その姿を見て、レフはうまくいったとほくそ笑んだものの、いつまでも光球を出しているわけにもいかない。夜の闇の中ではその姿は異様に目立つからである。レフは二人に向かって、親しげな声をかけた。


「まあ、後のことはいいから、さっさと寝ちまいな。もちろんあの椅子の上でさ」


 彼らが持ち場を離れたとあっては後々まずいことになる。病的なまでの繊細さと慎重さでレフは事を進めていく。見張りが完全に寝入るのを確認し、光球を消すと、やや心臓が高鳴るのを感じつつ、彼には珍しく緊張した様子で天幕を開いた。


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