桎梏姫との邂逅

 イライダの許を辞した後、レフはそのまま奴隷市に足を運んだわけではなかった。イライダの言葉を素直に聞くのが癪だったからというひねくれ者の意図はあったにせよ、一儲けした後は必ず銀行に寄ることにしていたからだ。預金などという手堅いことをレフはしない。そもそも住所不定のレフが口座を作れるはずもなかった。


 では、レフは何をしに銀行へと赴いたのか。その答えはレフの顔を見るなり、営業的だけとは思えぬ笑顔を向けてきた女性行員の口から明かされた。


「いらっしゃいませ、アーヴェルバフさま。今日もご寄付ですか?」


「ええ、お願いします」


 レフを知るものがこのやりとりを目の当たりにしたとき、まずどこから口を出すべきか迷ったであろう。偽名で寄付を行い、なおかつ顔と態度と口調を砂糖漬けの砂糖のように甘くしたレフの姿は違和感どころではなかったからだ。


 レフの本性を知らない女性行員だけが書類に必要事項を記入する彼の姿を業務中であることも忘れて、好意的な視線を送っている。寄付者の欄に「ユーリー・アーヴェルバフ」という名が書かれている。服装と相まって実に貴族的な名前だが、帝国人事院が家名を抹消していなければ、レフの身分はいまだ貴族のままだ。


 ただ、帝国は没落した貴族には異様に厳しい。自らの生活すら維持できない貴族は貴族たる資格なしとの認識があったからだ。


 帝国の前身たる王国だった頃、電晶石以外は何も産しない国家であったため、金融国家としての道を歩んできたわけだが、その時分から能なしの大飯食らいでしかなかった貴族は財政を圧迫するという意味でもはや憎悪の対象でしかなかった。


 大抵の功績では爵位は与えられず、征服戦争の折でも叙爵したのはわずかに七家のみだ。そのうちの一家がグレフ侯爵家である。世が世なら、レフはグレフ家の当主として、巨大な重責とそれに伴う権利を行使していたはずだが、あいにく家は彼の代まで保たなかった。


 遠因を辿れば、祖父のラヴレンチの吝嗇さであっただろう。貴族抹殺政策と言ってもいい帝国の方針に貴族達がただ従容と滅びを受け入れるはずは当然なく、生き残るために徒党を組み、抵抗していたが、新規に貴族となったグレフ家はその中には入れなかった。何しろ新興貴族は叙爵以外にその功績を報いる術がないほど有能な人材であり、旧来の貴族の妬みややっかみの対象になっていたのだ。代が移っても、旧貴族は従来の姿勢を崩さなかった。


 ゆえにラヴレンチが自衛という形で利殖の道に進まざるを得なくなったのは当然の成り行きである。文字通り爪に火を灯すような生活をした結果、莫大な財を残した。


 これでグレフ家も数代は安泰かと思われたが、レフの父マクシームは貴族でありながら、貧民よりも惨めな生活をしてきたことに反発を覚えていて、まるで復讐のようにラヴレンチの遺産を食い潰した。


 それでもマクシーム一人ならば、まだ使えきれなかっただろう。彼の目論見を達成させたのは「内助の功」と言ってもいい。マクシームの妻カピトリーナは傾城の美女と言ってもいいほどの容貌を持っていたが、それ以外は人としてあるべきものが欠けていた。夫の散財につきあい、自らをより美しく飾り立てることにのみ没頭した結果、帝国のみならず大陸の端からも男どもがそれこそ腐肉に集る蠅のごとく群がってきた。


 カピトリーナには世の婦人が量の多寡はともかく、一応は備えているであろう貞操観念が根本的に欠落していた。気に入った男を見つけるや、片端から同衾したのである。


 そんな爛れた生活の末に生まれてきたのがレフである。夫との夜の生活は決して皆無ではなかったにせよ、レフが夫婦合作の結果とはとても思えなかっただろう。鮮やかな赤毛は母の遺伝を継いだと強弁できても、琥珀色の瞳は夫婦どちらのものでもなかったからだ。


 しかし、マクシームは妻の不貞を咎めたことは一度もない。いかにカピトリーナが絶世の美女とは言え、貴族連合の輪から外れた新興貴族同士の政略結婚の面が強く、親同士が勝手に決めた婚姻関係もまた彼にとっては憎悪の対象にしかなり得ず、だからといって妻を害することもできず、ただその存在を黙殺する以外、彼の感情は均衡を保ち得なかった。


 カピトリーナのほうでも夫に愛されていないことは承知だったようで、それが彼女の姦淫に拍車をかけた。避妊など全くしなかったから、レフの実の父親は誰であるかはわからない。


 ただ顔だけはカピトリーナの面影を強く残しており、レフはできることならこの顔を引き裂いてしまいたいと思ったことがある。母親に対する憎悪と言うよりは生理的嫌悪というほうが近い。


 目の前の女性行員がまるでどこかの国の王子様にでも出会ったかのような視線を向けてくるので、レフは内心で冷笑を浮かべつつも、表面に出したのは当たり障りのない微笑のみだった。それだけで女性行員の心はいともたやすく陥落した。その間もレフは必要事項を記入し続ける。


 寄付先の欄には「ブラート救児院」と書かれた。レフが五歳から十一歳までの間、身を寄せた場所である。


 レフがグレフ家の中で育ったのはわずかに五年でしかなかった。レフが三歳の時、父マクシームが急逝したからだ。いかにレフが庶出であろうと、後継者として認められていれば、家督を継げたが、グレフ家を厭悪していたと言っても過言ではないマクシームが譬え十年寿命が延びようと、どこの馬の骨ともしれぬ種を世嗣とは認めなかっただろう。


 カピトリーナは育児に関しては、乳母夫妻に任せっきりで、一向に家庭を顧みなかった。彼女は夫の遺産を二年で消費し、グレフ家の遺産を当てにしていたカピトリーナの実家であるブラランベルグ家は激怒し、勘当してしまったのである。元々世評のよくないカピトリーナを放置しておけば、こちらまで延焼しかねないとの判断であり、それはおそらく正しかった。


 ほとんど身一つで追い出され、行く当てのなくなったカピトリーナだが、方便はすぐに見つかった。彼女の肢体自体がすでに財産のようなもので、貴族や豪商専門の高級娼婦となった彼女の元には借金してでも通うものすら現れたほどだ。その後、裏社会の首領の一人に身請けされ、今では娼館の一つを任されているとか。


 その間、カピトリーナはレフに全く見向きもしなかった。乳母夫妻も扱いに困っていたが、グレフ家から給金が出なくなると、レフをブラート救児院に預け、彼らは故郷へと帰ってしまった。


 それを薄情だとレフは批難する気は毛頭ないが、ブラート救児院に預けられたのはいささか恨みにも思っている。


 救児院は元々戦災孤児の救済のための施設だったが、時代が下るにつれ、育児放棄された孤児などを引き受けるようになる。救児院には国家から補助金が出るため、その金を目当てに救児院を開く不届き者も少なからずいた。


 ブラート救児院も御多分に洩れず、おざなりな経営をしていた。それだけならまだしも、前々院長は小児性愛者に孤児達を売り飛ばし、自身もまた重度の変態という人間の風上にも置けぬ男であったから、子供達にしてみれば、まさに地獄そのものであった。


 顔立ちの整ったレフが狙われたのは当然の成り行きだったが、入れられた当時五歳であった彼は院長の誘いが何を意味するのか、母親の件からもすでに知っており、言を左右にして、焦らし続けたのである。


 その一方で子供ながらの狡猾さをもって、前々院長を救児院から追い出す策を立てようとしたのだが、実行に移す前に不慮の死を遂げてしまった。


 次に赴任してきた前院長は悪い男ではなかったものの、意志が弱かった。前々院長が築き上げた子供の人身売買網は思った以上に広がっており、それを目当てに来る「客」どもがひっきりなしに訪れた。中には破落戸もいて、対応する間に前院長は精神を病み、格子窓のついた病院へと送られる羽目になる。


 そして、現院長がレフより六つ年上で、同じ救児院で育った孤児であるヤンであった。レフがこの世で唯一「信じてやってもいい」と思う人物だ。いや、信じると言うよりは危なっかしくて見ていられないと言ったほうが正しいかもしれない。


 ヤンはとかく人を信じすぎる嫌いがあったのだ。あの劣悪な環境の中からこうも純粋培養の人間が輩出されるなど奇跡以外の何物でもないが、やはり院長という立場からすれば、あまりよい傾向ではない。信じるほどに騙されやすく、救児院の経営そのものが傾きかけているのだから。


 レフはその話を聞きつけ、寄付という形で援助することにした。偽善だとは思うのだが、いつ死ぬかわからぬ身で、自分一人では使い切れない金を抱えているよりは使ったほうがいいとの判断があったからだ。偽名を使うのは、散々悪事を働いてきたレフとプラート救路院との間に関係があると思わせないためである。


 レフの苦労と配慮の甲斐あってか、ブラート救児院は危ういながらも何とか存続しているらしいが、いずれ先細りになるのは目に見えていた。レフが送る寄付金の額も一定でなければ、時期も不定であるからだ。レフがいなくなれば、救児院は廃院に追い込まれるほかない。


 ヤンは経営観念が著しく乏しいようで、最初から他者の善意を当てにしている節があり、口を開けていたら、誰かがその日の恵みを与えてくれるとすら思ってすらいるのかもしれない。


 東都遷都の際に彼らとは袂を分かったが、今度の西都遷都で戻った折には一度ヤンには充分に言い含めておかねばならないだろう。


 そう思ってから、なぜそこまでしてやらねばならないのだろうと疑問に思いもしたが、レフは深く考えなかった。考えたところで自答が得られるわけでもないし、そうであるのならば、考えるだけ無駄だ。


 あまりいい思い出はないが、それでも郷愁のようなものを感じるのはあのブラート救児院に今までの半生の半分を過ごしたからだろう。捨てたとばかり思っていたのに、おかしなものだと自嘲気味に口を歪めながら、必要事項を書き終えたレフは銀幣二百枚を出した。


「申し訳ないんですけど、これ、全部銅幣に両替してから寄付してもらえますか?」


 両替するのはブラート救児院において、日々の支払いで銀幣を使うことはまずないからである。


「あ、はい、かしこまりました」


 イライダのような両替商とは異なり、銀行は銀幣二百枚をきっちり銅幣二万枚に替えてくれる。イライダによれば銀幣一枚につき、銅幣九十七枚が今の相場なので、銀行側は銅幣六百枚もの損失になる。この差額分はどこで補填するのだろうという疑問はあるが、その回答は即座に得られた。手数料が両替金額の三パーセントだったからだ。つまり銅幣二万枚に対し、手数料は銅幣六百枚だ。


 よくできてやがると感心と苛立たしさの両方を覚えながらも、手数料分も支払った。さらに自分が使う分を銅幣に両替して、レフは女性行員の名残惜しそうな視線を背中に感じながら、銀行を後にする。


 銀行を出ると、ちょうど目の前に環状鉄軌を走る車両が通りかかったので、少し助走をつけて、飛び乗った。停留所以外での乗降車は一応禁止されてはいるものの、あまり徹底されていないのが現状である。


 レフも見咎められず、彼は銅幣一枚を指で弾いた。すると美しい放物線を描き、銅幣は料金箱へと入っていった。運転手から乗客まで驚いたような顔をレフに向けてきたが、彼は一礼すると、すぐに飛び下りた。そこから一区画分走り、別の車両へと乗り換える。


 環状線は全部で二十もあり、内側から順に番号が振られている。銀行前でレフが乗ったのは内回りの第十四番環状線であり、次に乗り換えたのが外回りの第十五番環状線だ。奴隷市に最寄りの環状線は最も外側を回る第二十番環状線であり、環状線との間は自らの足で走らなければならない。


 その不便さを埋めるために放射状に広がる鉄軌を設置するという話が持ち上がってはいたが、これから西都へと遷都するためにその予算が割り当てられず、一時棚上げとなっている。


 今回は運がよかったらしく、レフが次の鉄軌道車に近づくと、それに合わせたように車両が通過していき、第十九番環状線はまではほとんど時間をかけず行くことができた。


 ただ、第十九番と第二十番環状線の間は他のそれらと比べると、倍ほども遠い。それも第十九番までは城壁の中を通っているのだが、第二十番は城壁の外を走っているからである。表面上、奴隷市が人身売買を行っていないとは言え、さすがに街中で堂々と市を開くほど、彼らも厚顔ではないらしい。


 今日の幸運を全て使い切ったらしいレフは第二十番環状線の鉄軌の前でしばらく待たされたため、やむなく停留所まで歩こうとしたが、その直前になって、内回りの車両が停留所に到着した。


 どうにか停車中の車両に乗り込み、乗車賃を払うと、空いている席に腰を下ろした。車両に揺られると、ついつい睡魔が襲ってくるが、降りる二つ先の停留所までは約半刻ほどなので、寝るにはいささか短い。


 それでもうつらうつらとしかけ、はっと目が覚めたときには目的の停留所を過ぎようとしているところだった。慌てて飛び下りると、奴隷市が開かれている天幕が見えてくる。


 薄汚れた天幕は外観から内部で何が行われているか、さっぱりわからないものだったが、レフは気にせず、天幕の中へと入っていった。内部は薄暗いが、人が密集しており、その熱気と湿気は不快なほどだ。


 レフはいつも最後列で奴隷売買劇を見ている。すでに終わりに近いらしく、元締めの奴隷商が壇上へと上がっていく。


 レフが知っている奴隷商は三人いるが、いずれも体積が三人前くらいありそうな体型をしていた。人を食い物にするだけあって、奴隷商の栄養状態は余人よりよほど恵まれていると見える。奴隷商は燻製肉のような腕を広げ、眼下の買いつけ人に向かって声を張り上げた。


「さあさあ、紳士淑女の皆さま、まことに名残惜しいことですが、今日もこれで最後となりました。では、本日の目玉商品をご覧ください!」


 奴隷商が壇上から身を退くと同時に奧の暗がりから現れた奴隷を見たとき、天幕内の時間が数秒間だけ止まったかのような静寂が訪れた。誰もが壇上の人影に目を奪われてしまったのだ。


 レフも例外ではなかった。目を限界まで見開き、ただ凝視する以外の行動を起こせずにいたのだから。


 現れた奴隷は明らかにウラガン大陸の人間ではなかった。たおやかで真っ直ぐな黒髪は腰まで届くほど長く、蜂蜜色の肌はやや汗ばみ、それが危ういまでの艶に満ちている。女としてと言うよりは人間として何一つ過不足のない身体つきは名工が一生に一度あるかないかの大仕事をしたかのような完璧さだ。


 しかし、外見的な特徴など副次的なものに過ぎない。何よりも目を引くのが、力強い瞳だろう。奴隷という身分にもかかわらず、彼女の瞳には卑屈の色はまったくなかった。それどころか、女王のような冷徹さと裁判官のような厳格さ、そして、人に決して馴れることのない猛禽の鋭気で満ちていた。


 ウラガン大陸における美の基準からは大幅に外れるであろうが、美醜の枠を超越し、人間として圧倒的な存在感と説得力は言葉を奪うに充分な迫力がある。内なる魂の強さとでも言えばいいのか、そこらに転がる有象無象が容易に手を出してよいものではない。


「さあさ、皆さま、ご準備はよろしいですか? まずは金幣一枚から!」


 奴隷売買は基本的に競り売りであるが、最低金額が金幣一枚から始まることはまずない。むしろ、最終価格が最高でも金幣一枚、もしくは二枚と言ったところだ。それだけでも奴隷買い取りがそれほどうまみのあるものではないことがわかるが、出費を取り戻すためにしばしば買われた奴隷は必要以上に酷使されることもある。


 ここにいる買い手はいずれも壇上の奴隷に労働力としての価値に重きは置いていないだろう。


 一時、奴隷が放つ雰囲気に飲まれていた買い手達は奴隷商の声に我に返っただけではなく、目にぎらついた欲望の光を滾らせ、熱狂しながら、競りを始める。値段は瞬く間に高騰し、金幣十枚が二十枚となり、二十枚が五十枚へ、そして、五十枚が百枚へと変わるのに数寸ほどの時間もかからなかった。


 しかし、奴隷売買は現金決算が基本である。金幣百枚などどんな大商人だろうが、どんな大貴族だろうが、財布の中に入っている代物ではない。何しろ西都に一軒家が建てられる値段だ。もっとも、中心部に向かうほどに建屋の敷地面積は狭くなっていくが。


 そうであるにもかかわらず、値段は天井知らずに上がっていく。ついには金幣千枚へ至ったところで奴隷商から停止させられてしまった。最後に値段をつけた買い手は当然のことながら、金幣千枚も持っているわけではない。金なら後で払うと言うものの、さすがにこの場での支払い能力がない以上、お引き取り願うほかない。


 そこで一悶着が起きた。血気に逸った買い手が奴隷商に詰め寄ったのである。それに感染したのか、他の買い手はさらに高額な値段をつけ、自分に売るよう迫る。収拾がつかなくなり、奴隷は一旦奧に引っ込められ、奴隷商と買い手との間で騒ぎとなり、いつ収まるともしれなかった。


 レフはその騒動を全く見ておらず、ただ奴隷が消えていった天幕の奧に広がる暗闇をただ凝視していた。

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