第一話 桎梏姫

詐欺師レフ・グレフの日常

 ウラガン大陸において、史上最大の版図を広げたヴァローナ帝国も今年で建国百年目を迎える。


 来月、つまり五日後の東都ウートラから西都ヴィェーチルへの遷都を控え、上から下までその話で持ちきりとなり、誰もがどことなく熱病に罹ったように浮かれていて、気の早いものはもうすでに西都への移住を開始したようだ。


 絶好の稼ぎ時である。何かと入り用になる生活用品を扱う小売商からすでに活発に動いている搬送業者などはもちろんのこと、あまり真っ当ではない職業にもそのおこぼれがもたらされた。


 レフ・グレフという名の少年もまた恩恵に浴する一人だ。彼を知るものの大半がその名を聞いた途端顔をしかめるほどの札付きの不良少年だった。殺人以外のことは大抵手に染めてきたレフが警邏隊に捕まり、収監されたことは一度や二度のことではない。


 四度の投獄と釈放を経て、レフは今までのやり方では先がないことを覚る。掏摸すり、置き引き、引ったくり、脅迫による強盗などいずれも危険が高い。相手が反撃してきたら、こちらも怪我もしよう。苦労する上に実入りも悪いとあってはさすがに方向転換せざるを得ない。


 要は危険に見合った収入があればいいわけだが、実際行動するとなるとそうはいかない。考えた末、レフが辿り着いたのが詐欺であった。幸いというべきか、人を騙すに最も必要な資質である外見は備わっていたし、後は不当に稼いだ金で身なりを整えれば、良家の子息に見えなくもない。


 レフにとって詐欺師は天職だったようだ。特に財布の重さと知力の軽さが比例する人間を見極めることができる観察眼に優れていた。


 ただ、大金を持ったものがよもや不用心に一人で出歩くことなど滅多にないだろうと常人は考えるはずだ。レフ自身もそう思っていたのだが、財力の大きさが気を大きくするのか、あるいは自分だけは狙われないと高をくくっているのか、どちらにせよ、その手の輩は概して顔に緊張感が欠けていた。


 貴族や大店の次男、三男坊辺りがその典型例だ。生活に困ったことなど一度もなく、金力に物を言わせ、取り巻きも多いが、それを自分自身の力によるものと勘違いする愚者の何と多いことか。


 レフは今日もまたそういった手合いの跡をつけていた。さすがに人通りの多い場所では詐欺もしづらい。目撃者がいなくなる、もしくは極めて少なくなる瞬間を狙って声をかける。その機を得るほうが難しい。獲物が思った方向へと足を向けず、見逃したこともあるほどだ。


 幸いというべきか、今日の獲物は「お得意さん」だった。せしめた金額を合計すれば、一年は何もせずに暮らせていけるであろう。そんな事情があるので、レフは彼のことを年来の大親友のように思っており、その行動の全てを把握していた。


「おいおい、そこから道が狭くなるんだから、もっと気をつけて歩けよ」


 前を歩く男に気を遣うような科白を吐くが、声が小さいので、誰にも聞こえることなく、その忠告は無駄になった。


 男は積まれた木箱に接触しかけ、慌てて避けたため、まるで踊り子のように回転した。すでに酒が入っているらしく、心身の均衡を著しく欠いているためか、盛大に尻餅をついた。しばらく尻の痛みに呻いていたが、文句をいうために顔を上げたとき、そこにあったのが物言わぬ木箱であるのに気づいたようだ。渋い顔をして、服の汚れを叩くと、一つ舌打ちして、再び歩き始める。


 男が向かう先は賭場であり、いつも負けて帰ってくる。ゆえにその前に男から金をせしめねばならないが、レフに焦りの色はない。


 心配なのは、賭場を経営する裏社会の悪党どもだ。官憲の手が届かない裏通りにあっても、それなりに治安が保たれているのは、裏社会を仕切る首領たちが顧客保護を命じているからである。顧客が賭場に金を落とすためには誰もが足を運べるよう「安心安全」が売りでなければならない。その意味では彼らが敵視するのはレフのような小悪党であった。


 無論レフもそれを承知している。見つかれば、見せしめのために腕の一本くらいは斬り落とされようが、彼らに証拠を握られるようなどじは踏んでいない。彼らは彼らでレフから見れば、充分に「間抜け」であり、捕まる気など毛頭ない。貴族風の恰好をした少年が裏通りをどこかに立ち寄ることもなく、ただ散策している様は疑いの目は向けられはするが、注目されることもない。なぜなら、レフもまた顧客かもしれないという可能性があり、そう思われている間は彼らが作りだした安全に守られるからである。


 警邏隊が全ての犯罪者を捕らえられないように、裏通りの悪党も全ての路地に目を光らせるわけにはいかず、死角は常に諸処存在した。レフは人通りが少なく、警戒が薄くなる瞬間を見計らい、男の背中へ音もなく近づくと、いきなり声をかけた。


「やあ、旦那、ごきげんよう」


 背後から突然声をかけられれば、いかに親しげであろうと、後ろを振り向かずにはいられない。男もまた例外ではなく、一度大きく身体を震わせた後、慌てて振り向いたとき、視界の先にあったのは声をかけたものの姿ではなく、親指大の光球だった。これは何だと目を凝らす前に男の瞳は突然焦点を失い、危うかった足許がさらにおぼつかなくなる。


 だが、すんでのところで平衡感覚を取り戻し、それでもなお千鳥足のように近くの路地へと入っていく。まるでからかうように光の球が男の眼前を右に左にと漂いながらも、男をレフの元まで導いた。


「やあ、旦那、今日も会えて嬉しいよ」


 レフの言葉には微塵の嘘もない。何しろこれから稼がせてくれるというのだ。好意以外、どんな感情を持てというのか。


「ほら、旦那旦那、今日もいいもの持ってきてやったぜ」


 そう言いながら、差し出したレフの掌には何も載っていないが、その瞬間、陶然としていた男の目は突然執着の炎を燃え上がらせると、素速い動きでレフの掌にあった「空気」を奪っていく。男は自分の手の中にあるものを大事そうに目の前に掲げ、締まらない笑顔を浮かべた。


 レフが男に仕掛けたのは幻光による瞬間催眠である。世間一般には禁呪と呼ばれるものだが、呼吸や歩き方と同様、誰もが使える力に過ぎない。大抵の人間に操ることのできる禁呪はささやかなものだ。種火程度の火を熾したり、女の服の裾をかすかに持ち上げる風を吹かせたりなど、ほんの少し生活をよくする力だったが、科学技術の発展とともに誰も使わず、廃れてきたという事情がある。


 レフの用いる禁呪もその一つだが、扱える力が上位系統に属するものだった。「光」、「闇」、「混沌」、「次元」、「無」などがそうだ。これらの禁呪を扱えるものは強大な力で歴史に創造と破壊の名を残したが、レフの場合はそこまで大仰なものではない。小さな光球を創り出し、それを相手に見せることで相手の精神を操ることができる。


 レフがこの力に気づいたのは偶然の産物だ。警邏隊に追われていたとき、咄嗟に禁呪を使ったとき、追っていた官憲が急に惚けたように立ち尽くしたことがあった。それがきっかけとなり、レフは詐欺師としてのほとんどインチキとも言える力を手にしたのである。


 ただ、光を見た男が何を見ているのか、レフは知らないし、知りたいとも思わない。今知るべきは男の財布の中身だった。レフは男の脇にさりげな移動すると、腰帯につり下げられている革袋をそっと開けてみた。大きさの割に軽かったが、中身は庶民の財布には及びもつかない金額が入っていた。


「相変わらずすげえなあ。えーと、金幣がひー、ふー、みーっと……」


 ざっと数えて、一金幣が十二枚も入っている。銅幣しか使わない一般民から見れば、目も眩むような、いや、目が潰れるような大金だ。金額に満足したレフは開いたときと同様、男に気づかれぬよう財布の紐を静かに締めると、いまだ興奮したように手の中に収まっている空気を見つめている男に話しかけた。


「そいつはこの世界で唯一無二のもんだぜ」


 これも嘘ではない。呼吸することでしか、その存在を認識できないだろうが、空気がなければこの地上に生きる全ての生物が息絶えよう。その意味では代替のできないものではあるに違いない。


「どうだい? 欲しいかい?」


「……ほ、欲しい! くれ!」


「さすがにただってわけにはいかねえな。旦那にだって、その価値はわかるだろ?」


「金なら……出す! いくらだ?」


「金幣二枚ってところでどうだい?」


 誰のものでもない、それこそ地上最大の権力者であるヴァローナ帝国の皇帝すら所有権を主張していない空気を金幣二枚で売り渡すのは安いのか、高いのか、レフ自身にも判別しがたいところだったが、いずれ責任ある立場に立つであろうこの男がそんな細かいことなど気にしないだろうと思い直す。


「そ、そんな安いのか?」


「価値がわかる旦那だからこその値段でさあね」


「わ、わかった。買おう」


 レフの気が変わったら大変だとばかりに、おぼつかない手で財布の紐を緩め、一金幣二枚を渡す。その重みがレフの掌に加わると、彼は口の端を吊り上げた。


「毎度あり。気をつけて、お帰りになってくださいよ」


 掌に包んだ「何か」を後生大事に抱えて路地を出ようとした男の背中に向かって、レフは一つ指を鳴らした。その瞬間、男の眼前にまとわりついていた光の球が四散し、男は夢から覚めたように顔を上げた。今まで何をしていたのか、思い出せないようだ。男は何度か首を傾げると、わからないことは気にしない性質のようで、そのまま元の目的であった賭場へと足を向け、去って行った。


 レフもまたいつまでも犯行現場に留まるような愚行は犯さない。男への禁呪を解除するやいなや、逆方向へと去っている。


 レフはその足で両替商に向かった。金幣などという高額貨幣を持っているだけで疑われたり、狙われたりと、とかく持ち続ける必然性のないものだからだ。


 両替商は数多くいれども、身元が怪しげなレフが利用できるとなると途端に選択肢が絞られてしまう。ゆえに合法と違法の間を揺れているような、あるいは向こう側に浸かりっぱなしな業者以外おらず、足許を見てくる場合も多い。


 レフが向かう先もどちらかと言えば、違法専門に近いものがあったが、少なくともその中では良心的な店だった。


 その店は看板も出してはないが、それなりに人が来るようで、店の主人が困ったという話は聞かない。レフが扉を開け、中に入ると、室内は薄暗く、部屋の片隅には埃のように闇が積もっている。


 カウンターとその上には無骨な鉄格子とさらにその奧に目の細かい格子状の鉄柵が天井まで続き、部屋を二分していた。唯一、換金するところだけが小さな半月形の穴を明けている。


「おや、レフかい? そろそろ来る頃だと思ってたよ」


 カウンターの奧から嗄れた声が薄闇の中を這いずってきた。幽鬼とてもう少し陽気な声を出すに違いないと思えるほど陰鬱な声音で、一見客などは逃げてしまうともっぱらの評判である。


 レフも最初の頃に比べれば、ずいぶんと慣れたものだが、それでも内心身構えてしまうのは、極寒の中で震えるのを止めることができないのと同じような生理的現象だからだろう。


 ただ、怖がっていると思われるのも癪なので、レフはことさら剽げた声を出す。


「相変わらずばばあのくせに耳はいいんだな」


「あんたの足音はドアを開ける前からわかってたよ」


 両替商イライダは老齢ゆえに視力は衰えていたが、聴力は逆に発達したらしい。老いてなおますます盛んになる老女にレフは一種倒錯した尊敬すら覚えてはいたが、今興味があるのはイライダがどのように健康を保っているかではなく、両替相場だった。


「まあ、いいや。で、どうなってんだ、相場のほうは?」


「一金幣に銀幣百二十ってところだね。銀銅相場はあんたが以前きたときと同じさ。一銀幣は九十八銅幣。まあ、あんたはお得意さんだから、銀は百銅に変えてやってもいいよ」


「また、銀が安くなったのかよ?」


「まあ、仕方ないさね。新しい銀山が予想以上の埋蔵量らしいからね。生産調整はしてるんだろうけど、当分は銀が安いだろうよ」


 帝国において、金銀銅の比率は一対百対一万の固定相場となっているが、実際にそれが守られたためしはない。需要に対し、供給が追いつかないからだ。帝国は大きくなりすぎて、常に流通する通貨が不足している状態でもあった。一時は兌換紙幣を発行し、デノミネーションを試みようとしたが、社会的影響があまりにも大きくなりすぎることを懸念して、断念した。以降、帝国の通貨政策は常に危険な綱渡りを迫られている。


 ただ、発掘技術の向上に伴い、採算が取れずにやむなく廃鉱となった鉱山の再開発や大陸各地の鉱山の買い占め、金幣と銀幣の改鋳と合金比率の変化により、通貨供給量はわずかながらも改善の方向へと向かっていた。


 今は通貨安定化へと進んでいる過渡期ではあるが、目端の利くものはこれを金儲けの好機と捉えるだろう。今、銀が安いのならば、必然的に金と銅が高くなるのが道理である。ゆえに金と銅を安くなった銀へと替えておき、後に金と銅が下がったときに買い戻すことを繰り返せば、いつしか資産は雪だるまのように膨らんでいるはずだ。現にレフはこの取引だけで銀幣四千枚を蓄えることができた。


 レフは一金幣二枚をカウンターに明いた穴へと放った。しばらくして、角の取れた正方形の百銀幣二枚と円形の十銀幣三枚が出てくる。十銀幣分足りないのは手数料と情報提供料だ。正規の取引なら取りすぎだと批難され、組合からも追放されるほどの悪質さだが、所詮はお互い叩けば埃が塊ごと落ちてくる身だ、文句は言えない。レフとしては手数料と言うより、情報に重きを置いているので、その値段は妥当とも思っていた。


「で、なんかいい情報ねえの?」


「今のところはないねえ」


「おい、じゃあ、情報分は金返せよ」


「まあ、待ちなよ。その代わり、別のいいことを教えてやろう」


「ほう?」


 レフはカウンターの上に肘を置き、頭が鉄柵に触れるほど身を乗り出した。投資の情報ではなくとも、イライダの言葉には耳を傾けるくらいの価値はあるからだ。


「あんた、今日も奴隷市に行くんだろう?」


「おい、待てよ。なんでおれが奴隷市に通ってるってことを知ってんだよ?」


「こう見えて、顔は広いほうでね、あんたの動向もちゃんと耳に入ってるのさ」


「そこまでして、おれのことを知りたがるなんて、あんた、おれに惚れてんのか?」


「はっ、そりゃいいね。だけど、あと三十年くらいは人生を重ねるんだね」


「あと三十年も生きるつもりかよ……?」


 猫は半世紀生きると妖異に変化するらしいが、人間もまた何かになってしまうのだろうか。いや、逆だ。妖異が人の姿を借りているのだから、三十年と言わず三百年は生きるに違いない。何しろこのイライダは帝国が王国だった時代から老婆だったともっぱらの噂なのだから。


 その噂の真偽はともかく、イライダの言う三十年はレフにとって永遠とほぼ同義の響きがあった。明日の今ごろには側溝で遺体となって発見されているかもしれない身の上だ。以前に比べれば、ずいぶんと穏便に生きているつもりだが、知らずのうちに恨みを買ったこともあり、いつ背中から刺されるかわかったものではないのだから。


 久しく忘れていた死への恐怖がレフの足許に絡みつき、背筋に氷塊を押し当てられたかのような寒気を覚えたものの、他者の前で怯懦を見せる趣味はなかったので、身体の芯から来る震えを全霊をもって留めると、何食わぬ顔で話の続きを促した。


「話を戻すとして、今日の奴隷市に何があんだよ?」


「おっと、そうだったね。だけど、まあ、話すのはやめておこうかね。あんただって読みかけの本の最後を教えられたくはないだろ?」


 どうやらイライダはレフが乱読の徒であることも承知らしい。レフの部屋には足の踏み場もないほど、本が散逸していた。しかも、専門書の類から幼児向けの絵本まであり、統一性の欠片もない。そのおかげか、妙な知識ばかりがついていく始末だ。


 ともあれ、これ以上探りを入れられるのはごめんだと言いたげに、レフは鼻を鳴らし、イライダの許を去ろうとしたが、その背中に声がかかる。


「お待ちよ。あんたも西都に行くんだろ? だったら、これをもってお行き」


 カウンターの暗闇から現れたのは一枚の紙片である。なにげに手に取ってみると、住所が書かれていた。


「それが西都での店の場所だよ。何かあったら頼ってくるがいい。まあ、金次第じゃがの」


「あんまり欲の皮が突っ張ってると、いい死に方しないぜ」


「いい生き方ができればそれでいいさね」


 レフはイライダの返しを聞いていなかった。その時すでに彼は外に出ていたのだから。

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