第8話

 帰り路、傍に歩く教師の横顔は普段より硬い。

 少女はそんな教師を横目で眺め、そっと手を添える。精一杯の勇気となけなしの笑顔で放ったそれは、けれど教師の瞳の奥ひとつ揺れ動かすことはない。

 だからやっぱりダメなんだろう。私には、なにも言ってくれない。 

 当然だ。私にはそれを聞く権利がない。

 この関係は私が一方的に植え付けた、片思いに過ぎない。

 それに、そこまで子供になれないよ。

 てのひらが、まるでふたりを繋ぎ止める最後の糸であるかのように弱々しく揺れる。

 会話が起きるはずもなく、結局だんまりを決め込んだまま、ホームまで着いた。

 いつものベンチに座って。いつもと同じ缶コーヒーを飲んで。

 言いたいことがあるのに、喉がつっかえたように声を忘れる。れったく、飲み切った缶を何度も指でさする。

 それでもやはり時折、横目でちらついたあなたの唇が、脈のように動く白い首筋が、しみじみと奇麗に見えて、こんな時だというのに魅入ってしまう。

 先生は今、何を考えているんだろう。

 あのひとのこと——? 

 ブラックをいつもよりゆっくりと飲んでいく横顔は、答えを探す少女をわずかに眇める。

 ああ、こんなにコーヒーが不味く感じるのはいつ以来だろう。

 オレは、この子に何もしてやれない。別に教師たらしめる心情なんて持っちゃいないが、こいつはワケが違う。

 学校というものは残酷で、別に生徒を助けてやれるところではない。どんなにソイツが悩んでいても結局その悩みは自分で解決していくしかないからだ。それがプライベート。生徒だってそれが解っているから、一定の(ラインを引いてる。教師の役目はいかにそのラインを見極めて、ギリギリまで寄り添えるかにある。

 だが彼女にはそれがなかった。ラインという概念がそもそもなかった。単純に人として、他人には見られたくない大切な何かをまだ見つけられていなかったのだ。

 だから彼女の変化それ自体は望ましいものだった。

 問題なのは、彼女にとって最悪の結末をオレは自ら招いてしまったということだ。


「————っ」


 今日は苦味が一段と強い。悪い癖だ。鈍痛に目元を押さえる。


「……センセ?」


 大丈夫ですか、とでもいうように少女が近づく。それはきっかけのように感じた。

 少女の口が一度言葉を探し、呑み込む。まるで湧き立った熱を無理やり押さえ混むように、目尻が儚げに歪む。


「せんせ……わ、たし——」


 プルルルルルルルルルルル。

 だが、そのすべてを冷笑うように、唐突にベルが鳴り打つ。すべての覚悟を防がられた口はもう干からびていて、吐いた出たのは白い息だけだった。


「「———」」


 先生の目がわずかに張る。終電だった。電車の近づく明かりがする。

 口から体のすべてが滑り落ちたように私はその場を動けない。

 喘ぐような、懇願の眼差しは届くよりも先に目蓋に防がれてしまう。

 長い沈黙だった。時が止まったようなひどい停滞。苦いコーヒーでも飲んだ、後味の悪い表情。それでもようやく、終止符を打つように先生が立ち上がる。それは諦めと覚悟の混じった複雑なだった。

 それ以上わたしも席に止まることはできなくて。未だ震える脚を思い切りつねって、なんとか立ち上がる。

 もう、会話は訪れない。

 いつの間にか電車はホームに止まっていた。

 ゆっくりと開く扉に続いて、警告線を跨ぐ。

 昨日まで何でもない日々だった。今日も同じ。

 何もでもない先生との、何でもない別れ。くるりっと振り向いて笑顔を見せればそれで終わり。

 それなのに、動くことができない。今、先生の顔を見てしまえば、またこの想いは再発する。

 この関係が好きだった。いびつでも、ただこの日々が続けられたなら満足だった。

 でもそんな魔法は有限で、溶けた夢はすぐに醒めてしまう。

 先生は何も言わず、ただそこに佇んでいた。ボーダーラインの向こう側、伏せた眉毛の下で瞳を逸らす。

 その影を窓に捉えながら音もなく流れる雫——、雨が降っていた。

 夕立だろうか。雲ひとつないはずの空は何を隠しているんだろう。

 少女が刹那に想いを馳せた刻、教師もまた深い憤りに浸っていた。何もできない無力さと、言葉にできない後悔は首を振り乱すように、言葉を吐き出す。


「——じゃあな」


 扉が閉まるよりも早く、教師の影が揺らぐ。


「——待って!」


 ダンっ、とその背中を華奢な涙がふせいだ。

 待って。警告線を踏んで、倒れるように先生の胸に飛び込む。いつもと変わらない大ぶりな掌に指を絡めて、

よろめく先生の表情かおを引き寄せる。

 プルルルルル。

 扉が熱を代わりに吐き出して、ゆっくりと閉まる。誰も乗らなかった電車のライトはまるでネオンのようにふたりぼっちを夜へ置き去る。

「いかないで……」

 もう、その眼はあの人のもとへ向かっているとしても。今日だけは行かないで。

 囁きにも似た懇願はすぐに涙に変わった。心の背伸びはもうおしまい。

 もとのセンチメートルに戻ってしまった唇は、それが合図のようにしゃくりあげる。

 ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい。

 わがままでごめんなさい。悪い子でごめんなさい。

 先生のことをもっと知りたくて、もっと好きでいたいの。

 だから、いっぱい、いっぱい、ごめんなさい。

 心を留める大事な部分が事切れたように、ぐちゃぐちゃに言葉をかき立てる。

 嫌悪と罪悪と嘲笑の入り乱れた、複雑な喉だった。


「………」


 ……オレは、この子にどれだけの想いを殺させてきたのだろう。

 支えていなければすぐに倒れてしまいそうな細い肩。まるで、それが重石(おもし)だったとでもいうように、嗚咽に漏れる言葉ひとつひとつが心を抉る。

 オレごときの躊躇いでは推し量れない数の想いを、憂いを、その小さな腕で抱えてきたのだ。

 なんて浅はかだったのだろう。

 一時の気の迷い。そう思っていた。

 教師を好きになるなんてのは、まだ彼女が世界を知らないだけで、社会にでて色んなやつに触れれば、また違った考えにもなる。

 けれど、そんなのは綺麗事だ。オレはただ、本質的に彼女の好意から逃げていたのだ。剥き出しの心を躊躇いなく見せるあいつの素直さに、きちんと向き合っていなかった。

 少女をる。すっかり腫れてしまった目元をなおも濡らすその想いの強さに、胸が痛む。

 目を閉じて覚悟を決める。そっと少女の頭に手をのせた。


「これで最後にしよう」


 今までのすべてを代弁した、別れの言葉。

 髪を滑った掌が少女の輪郭を包み込むように、首筋を捉え…、しずむ。

 驚いて見張る瞼の端に流れていった雫を、拭き取り、今日を何度でも引き伸ばしてやる。


「センセ、好きです……」


 私たちはいまだホームにいる。ずっと叶わなかった、一度きりの恋人役ファーストレディ

 紅い糸を今夜二人でいていく。

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愛人未満 名▓し @nezumico

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