序章 五話 「開傘」

 厚い空気の壁に正面からぶつかることによる物理的なストレスと氷点下の空気が全身に芯まで冷やす肉体的ストレスが高高度降下用の防寒装備も兼ねた戦闘服の上からでも体を髄まで痛めつけ、その上に急激な気圧の変化までもがブラボー分隊の隊員たちの身体にのしかかっていた。


 高度一万メートル以上を飛ぶ輸送機からパラシュート降下するHALO降下は例え充分な準備と訓練があったとしても体調不良を引き起こすことがあるが、日頃から通常規定の範囲を超えた厳しい訓練をこなしている"ゴースト"の隊員達にとってもそれは例外ではなくウィリアムも体の芯まで堪える低温と気圧の変動に酸素吸気マスクの下で歯を食いしばった。


 輸送機から飛び立った時ははるか下方に広がっていた積乱雲の海原は身体が重力に引きずられて自由落下を始めると、数秒の内に目の前に迫ってきた。


 直によく見てみると月光を反射した雲の表層は薄い霧のようであったが、防護グラス越しにその光景が確認できた時には、六人の身体は厚い雲の中に飲み込まれていた。


 念のために輸送機から”ジャンプ”した時点で、お互いの距離は取っていたが、衝突を避けるために全身の神経を働かせて数メートルの視界も効かない中で姿勢を制御する。通常、このような悪天候下ではHALO降下は行われないが、"ゴースト"の隊員達は例にもよって日常から悪天候下でのHALO降下の訓練を行なっており、味方の位置が見えず、体が自由に動かせない悪視界の空中で衝突を避ける技術を習得していた。


 全く視界が晴れず、周囲一メートルが白霧に包まれている状態が数秒間続いた後、目の前の白い壁が取り払われ、無数の光点がウィリアム達の目に入った。首都カプロリウムの町灯である。厚い雲を抜けたことで"ゴースト"の隊員達の眼下には建物の灯りや行き交う車のライト、首都が放つ光の数々が明滅する様がはっきりと目視できるようになったのだった。


 それらの光の集合から南西方向へ数キロほど離れた場所に、黒い闇の中、そこだけ光が集まった点が上空からも見えた。対応に追われているゲネルバ陸軍とCIAの対策本部の光だ。目標の降下地点は、その光点から更に西に八百メートルほどの位置にあるはずだったが、数千メートルの上空から、それも保護ゴーグル越しの視界では着陸地点まだ目視不可能だった。


 体にぶつかる空気が後方に流れていくとともに漆黒の地面がどんどんと近づいてくる。高度千、九百、八百……。降下と同時に刻々と近づいてくる光点の集合がよりはっきりと見えるようになってきて、ウィリアムはパラシュートを開くためのリップコードを右手で掴んだ。


 六百、五百、四百と、高度は更に下がっていき、ついに高度三百まで降下した瞬間、ウィリアムは右手に掴んだリップコードを一気に引ききった。それと同時に彼の背中に背負われたパイロットシュートが飛び出し、それに続いてラムエアータイプのパラシュートが開いた。漆黒の空に六個のパラシュートが次々と開き、降下の速度を一気に引き留められたブラボー分隊の隊員達の体は高度三百メートルで滑空し始めた。パラシュートが正常に開いたことを確かめた隊員達は今度はヘルメットに装着した暗視ゴーグルを下ろして起動させた。眼球保護バイザー越しの視界に暗緑色の世界が広がり、先ほどまで全くの暗闇だった地形がはっきりと目に移った。今は白緑色に輝く光点として、視界に映る対策本部の西側、熱帯林が覆う山の中に一部だけ不自然に木々がなく、代わりに建物のような人工構造物の見える地点があった。


(間違いない、目標の建物だ)


 ウィリアムは隊内無線を開いた。


「全員、見えているな。一斉に降下するのは無理だ。一人ずつ順番に降下する。まず、最初に私が、次にハワード、リー、アーヴィング、ジョシュア、アールの順に続け。お互いの接触だけには気をつけろ!」


 そう言って無線交信を終えたウィリアムはパラシュートを操作し、私邸の建物屋上に向けて降下を始めた。


 まだ、高度が高くて離れていることもあるだろうが、降下地点の屋上は想像以上に小さく見えた。


(たった一.五平方キロメートル……。全員、無事に降りられるのか…?)


 不安を感じないわけではなかったが、既に戻ることはできなかった。幸い、風は吹いていないのでパラシュートの操作に支障はない。戻ることができないなら、最善の行動をとるのみだと、ウィリアムは降下するパラシュートの操作に意識を集中した。





「"おっさん"、来たぞ!大尉達だ!」


「時間通りだな。風はないから、降下に支障はないはずだ……」


 そこまで言ったイアンのスコープの中には照準の十字線の交点に最初の標的である重機関銃手が既に捉えられていた。


「動くなよ……」


 スポッターに目を当てたスパイクが隣で独り言つのを聞き流しながら、イアンは右手の親指でセーフティを解除したレミントンM40A1のトリガーにかけた人差し指を引き込んだ。

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