第16話 彼女に恋愛心理学を試す彼氏。

「大変なことになってしまった……」

 いつも通りの文芸部室。

 一人で部室にいる俺は、椅子の上で粉砕されたプラスチックの破片を呆然と眺めていた。

 恐らく元は女子用の髪を留めるクリップだろう。それがバラバラになってしまっている。

「これ、多分結朱ゆずのだよな……」

 呟くと同時に頭を抱える。

 事の経緯は簡単。

 いつも通り部室でゲームをしていた俺たちだが、途中で喉が渇いたという結朱が自販機に飲み物を買いに行ったのだ。

 そして、彼女がいない間に本でも読もうと本棚から気になった一冊を掴み、その辺にあった椅子に座ったところ、尻の下からベキッと何かが壊れる音がしたのである。

「やべえ、どうしよう……」

 高いものじゃなさそうだが、お気に入りの品だったら値段なんか関係ないからな。

 とにかく謝って、なんとか許してもらうしかないが……その前に、少しでも怒りを和らげる方法を探さなければ。

「けど、女の子の機嫌を取るなんて、どうしたら……ん?」

 そこでふと、本棚にある一冊の本が目に入った。

 吸い込まれるようにそれを手に取り、表紙に書いてある文字を読む。

「『恋愛心理学で恋人との仲をもっと深めよう』……?」

 今の状況にものすごくうってつけの本があった。天は俺を見捨てていなかったのか。

 突き動かされるようにページをめくる。

『恋人と仲良くなるなら、やはりスキンシップがおすすめ! 特に付き合って間もないカップルの愛情度を高めるには、手を繋いだりハグをしたりという軽いスキンシップが効果的!』

「いきなりハードルが高いものが来たな……」

 俺から結朱へのスキンシップというのは、あまり考えたことがなかったな。

 いきなりやるのも勇気がいりすぎるし、うまくハードルを下げる方法とかないものか。

 本を流し読みしながら、それらしきものを探す。

『続いておすすめなのは、ドアインザフェイス! これは最初に大きな要求をして、それを相手に断らせることで、次にそれより小さな要求をした時に通りやすくするテクニックだ!』

 む……これいいかもな。

 たとえば人に金を借りる時に最初から「千円貸してくれ」って頼むより、「五千円貸してくれ。駄目ならせめて千円だけでも」って頼んだほうが、説得しやすいというテクだ。

 これとスキンシップをうまく組み合わせれば、結朱の機嫌を取れるのではなかろうか。

「ハグ……は無理だな。手を繋ぐことを目標とするか」

 となると、最初にハグをしたいと持ちかけ、断られたところで、せめて手を繋ぎたいと言うのがいいのか。

 なんかすごいボディタッチしたくて必死な感じが出るけど……背に腹は代えられない。

 その時、ちょうど文芸部室のドアが回る音が聞こえてきた。

 俺は今まで読んでいた本を即座に本棚に戻す。

「ただいまー。ごめんね、待たせちゃって。これ、大和やまと君の分」

 缶ジュースを二つ手に持った結朱が、何も知らないニコニコ顔で帰ってきた。

「お、おお。サンキューな。わざわざ俺の分まで」

 ぎこちなく応じながら、俺はなんとかハグを要求できる糸口を考える。

「いえいえ、私は気遣いのできる出来た彼女ですから。どう、惚れ直した?」

 ……ここだ!

「あ、ああ。惚れ直した。というわけで、ちょっと抱き締めてもいいか?」

 人間、追い詰められると何でもできるもので。

 普段は絶対にできない要求を、意外とすんなりぶつけられた。

 当然、普段の俺からは絶対出ない台詞を聞いた結朱は目を見開き、ちょっと赤くなりながら俯く。

「や、大和君からそんなこと言ってくるなんて、なんかすごく意外だね……ま、まあ別にしてくれていいけど」

 あ、あれ? 最初の大きい要求が通っちゃったんだけど!

 話が違う! こういう時はどうすればいいの?

「お、おう……そうか」

 まさかの事態に驚きつつも、吐いた言葉を引っ込めるわけにもいかず、俺はロボットみたいにぎこちない足取りで結朱に近づく。

 結朱も結朱で、冗談だとかやっぱりなしとか言わず、赤くなったまま大人しく俺の到着を待っていた。

「い、いくぞ」

「う、うん」

 間抜けな儀式めいたやりとりを終えると、俺は覚悟を決めて結朱をハグする。

 腕の中にすっぽりと収まる華奢な身体は柔らかく、密着すると甘い匂いがした。

 心臓の鼓動がうるさすぎて、結朱にまで聞こえないか不安になったところで、俺は彼女を離した。

 時間にして僅か数秒。だが、一時間にも感じるような不思議な時間だった。

「な、なんか恥ずかしいね。まさか大和君がこんな積極的に来てくれるなんて、すごい不意打ちだったし。あ、また酔ったりしてないよね?」

 言葉通り、結朱が照れたように笑った。

「正気だって。ぶっちゃけ駄目元だったというか、断られると思ったというか……すまん、嫌でしたか」

 ようやく我に返った俺がものすごい羞恥に襲われていると、結朱は慌てたように首を横に振った。

「そ、そんなことないよ。むしろいつもこのくらいだといいなって……いや、それは心臓が持たないな、うん。たまにはこのくらいでもいいと思う!」

「そ、そうか……」

 個人的には二度とこんな機会はないというか、ないようにしたいというか。

「とにかく、私は割と嫌ではなかったということで」

 ちょっと機嫌良さそうな結朱。

 トラブルはあったが、最初の目的は達成できたようなので良しとするか。

「ふう……でもなんか緊張しすぎて疲れちゃったな。もう少し休憩伸ばそうか」

 そうして結朱は、ジュースのプルトップを開けてから、近くにあった椅子を引く。

 あ、その椅子には……!

「……ん? なにこれ。壊れたヘアクリップ?」

 椅子の上から回収し忘れたヘアクリップが、結朱に見つかってしまった。

 失策――いや、でもいいタイミングだ! ここで謝る!

「すまん、俺が悪かった!」

 一瞬の判断からの土下座を敢行する。

 僅かな沈黙を挟んで、結朱の溜め息が聞こえてきた。

「へえ……大和君が。なんかやけに積極的だと思ったら、ご機嫌取りだったんだ」

「う……」

 あっさりとさっきの行動の真意を見抜かれて、思わず呻く。

 やばい、逆効果だったかも。

「本当に申し訳ない。ついうっかり」

「いや、うっかりじゃこういうことにはならないでしょ。故意としか思えないけど」

「本当に事故だったんだって」

「なにその苦しい言い訳、見損なったよ!」

 予想以上に大きい結朱の怒りに驚く俺に、彼女はトドメの一言を放つ。


「大和君の浮気者!」

「なんで!?」


 あまりに意外な罵倒に、俺は思わず顔を上げた。

 罵倒は覚悟してたけど、その責められ方は考えていなかったわ。

「だってこれ、私のじゃないし! なのに、女の子用のクリップがあるってことは、大和君が他の子を連れ込んだってことじゃん!」

「結朱のじゃ……ない?」

 想像していなかった事実に、俺はぽかんとしてしまう。

 そして、全てを理解するなり深い安堵あんどに包まれた。

「なんだ、そうだったのか……よかった」

「よくないよ! 私という者がありながら!」

「待て待て。誤解だ、ちゃんと順を追って話すから」

 俺は彼女を手で制すると、一から事情を話し始める。

 全てを聞き終えた結朱は、納得したように頷いてみせた。

「……そういうことだったんだ」

「ああ。多分、OBが置きっ放しにしてたんじゃないかな。今まで関係ないものにはあんまり触らないようにしてたし、その椅子の上は死角になってて気付かなかったんだろう」

 これにて一件落着。よかったよかった。

「ふーん……へー」

 と思ったが、結朱の機嫌がまだ直らない。

「おい、どうした結朱」

「べっつにー? ただ、大和君は彼氏のくせに、このクリップが私のものかどうかも分からないんだと思ってさ。こんなの付けてきたことないんだけどなー。ちゃんと私のことを見てれば最初から分かったと思うんだけどなー」

 おおう……また違う地雷を踏んでしまっていた。

「いや、それは……」

「あ、別に言い訳しなくていいです。大和君は私のことなんて気にならないもんね。私が一人で拗ねてても、全く目に入らないでしょうよ」

 完全に怒ってる。まあ、確かに彼氏としてはちょっと良くないミスだな。

「すみません。以後気を付けますので、許していただけないでしょうか」

 再び、深々と頭を下げる俺。

 と、その姿が同情を誘ったのか、結朱の表情が少し和らぐ。

「……許してほしい?」

「はい」

「じゃあこれから一週間、私の言うことに絶対服従すること」

「いやいやいや、それはさすがに厳罰すぎるって」

「そう? なら、特別に今日一日の絶対服従だけで許してあげるけど」

 一日……一日か。それならまあ、あと数時間もないし、いいかな。

 それになんだかんだ心根の優しい奴だし、そう無茶な要求もしてこないだろう。

「分かった。従うので、今回のことはチャラで」

 俺が応じると、結朱の表情がパッと明るくなった。

「うんうん、素直が一番だよ? じゃあ、まずはゲームのレベル上げをやってもらおうか。次に肩揉みして、帰りにコンビニで何か奢ってもらおうかな?」

「お、お手柔らかに頼むな」

 悪戯っぽい表情をする結朱の前で、俺は戦々恐々と頷くしかなかった。


 ――結朱の要求が、見事なドアインザフェイスだったことに気付いたのは、家に帰ってからだった。


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