父達の"春望"

津田薪太郎

第1話


 曾祖父さんの七回忌というので、久しぶりに田舎へ出向くことになった。父の田舎へ出向くのは、五年ばかし前に曾祖母が亡くなって以来のことで、こちらは随分と様子が変わっていたから、田舎といえどさもあろうと私は思っていた。

 が、田舎というのは特段変わりのないもので、山は相変わらず山であったし、駅から遠くにあるこじんまりした田舎の家の周りにも、ビルが立つなどということは無いのだった。

 私が扉を開けると、祖母が迎え入れてくれた。この歳になると、弟の様に無邪気に田舎を喜ぶ気にはならないで、ただ祖父母の健康が心案じられるのであるが、どうも斯様な心配は無用であると言いたげになお二人は矍鑠としていた。

 仏壇に焼香し、明日の法事の用意は大人達に任せて、私と弟はすっかり少なくなった縁側で、祖母が切ってくれた西瓜をのんびりと頬張っていた。田舎ともなると流石に豪華なもので、東京のそれよりもひと回り大きな西瓜が、ごく簡単に手に入る。東京では、同じ値段をかけてもせいぜいが味の悪い西瓜が四分の一と言った次第であろう。

 弟が嬉しげに西瓜を四分の一切り出したのを頬張っている時、祖母が私を呼んだ。

「新ちゃん、新ちゃん。ちょいとこれを見ておくれな」

そう言って祖母が私に見せてきたのは、随分と使い古された帳面であった。

「これなんだい、ばあちゃん」

「あのねぇ、どうやらお父さんの持ち物だったみたいで」

見れば、黄ばんだ表紙には微かに「昭和十…年」という鉛筆書きの文字が読み取れる。

「ああ、これは曾祖父さんの日記かな」

私は頭の中でそう考えた。

「新ちゃんもねぇ、今大学で歴史を勉強してるんでしょう?なら、役に立つかと思ってね」

確かに、幼少の自分より歴史を好む私にとって、この帳面は興味をそそられるものであった。私は、その出所はひとまず置いておいて、祖母から帳面を借り受け、目を通してみることにしたのである。


 帳面は、曾祖父さんが出征した先の、大陸で書かれたものであった。几帳面な曾祖父さんらしく、所属部隊と自分の名前、階級と兵科が書かれている。それによると、この帳面は曾祖父さんが上等兵の、また歩兵として従軍していた時の物らしい。

 以前私は、曾祖父さんが除隊してきた折に持っていたという九五式の軍刀を見た事があったから、少なくとも伍長にはなっていたのであろう。だからこれは、曾祖父さんがまだ従軍して日の浅い時期に書いたものに相違ない。

 曾祖父さんは昭和十二年の、盧溝橋ルーコーチァオ事件から少し後の、八月の第一波に混じって上陸した様である。

 そこから先の数日間は、日本軍の進撃とそれに対する国民党の反撃についての記述で占められていた。

「…月…日。曇り。本日砲撃なお激しく、負傷者多数出る。味方の砲弾の鉄片で、肉を抉られる者多数あり。我所属せる中隊、今日一日で廿の後送負傷者を出せり」

几帳面な曾祖父さんは、一日毎に所属部隊が被った損害を整理し、記述していた。

「…月…日。晴天。本日、同郷にして共に出征せる三田村一等兵、戦死す。元来ならば喪に服すべきところ、戦場にあり、あるべき道理を通せぬ事、口惜しく、また悲しき事なり」


 しばらく読み進めていくと、私は、次第に曾祖父さんの文体が変化しつつある事に気がついた。今までは、それこそ司令部に送付する戦況報告かの様な、最小限の、虚飾を排した、感情を持たぬ短文であった。しかし、段々とそれは曾祖父さんの感情が混じった口語文となり、長くなり、私達に訴えかけんとする為に表現の粋を尽くしたものへと変わって行った。

「…月…日。雨。私達の部隊は、敵軍の戦線を突破し、愈々南京に向けて進撃を開始した。頑強に抵抗した敵軍は、今や脆くも崩れ去り、皇軍の向かうところ、その装備を置き捨てて逃走を続けているかに見える。中隊長殿が、私達に言った。

『今やシナの腰抜け共は、栄えある皇軍の行くところ、次々と武器を投げ出し遁走しておる。一週間、一週間のうちに南京を一気呵成に陥れ、シナの奴らを山へと追い散らしてくれよう』

なんと愚かな。私達は、百万にも満たぬ小勢で、東亜一の"愛国烈士"十億余を、それも彼らの勝手知ったる土地で撃ち破らんとして居る。私にはとても、でき得る事とは思い難い。恐らく私に出来る事は、死ぬ事なく、なんとか妻の元へ帰ることだけだ…」

「…月…日。晴天。相変わらず、私達は敵味方の骸を越えて進撃して居る。今、私は雄大な長江の流れを目にしている。遠く峨眉山より流れ出で、支那数千年の歴史と、何十億という人民の暮らしを支えてきた大河は、久しく私が忘れていた、自然への畏敬の心を思い出させた。私は今、李白杜甫の詠いし地に立って居る。それが私にとって、大きな感慨を抱かせた」

「私は李白に倣い、長江の天際を眺めやった。しかし、碧空に尽きるのは孤帆に有らず、我が軍の内火艇と、それを護衛する砲艦の群れである。彼らは長江を埋め尽くし、鮭となって河を遠く遡上していく。見るに堪えず私が上流に目をやると、村々が焼かれる野火の煙が目に入った。そこからはポツポツと、雨垂れの様に砲撃の音と機関銃の音が響いて来る。私達にとっては単なる騒音でも、その下では何千という同胞と、何万という無辜の人々が倒れているのだ。私は、野火の向こうから流れてきた小屋の破片を見やった。河辺に流れ着いた破片、そこにしがみ付いた子供の骸は、私にとってこの戦争の大義を疑わせるに足る物であった。私は何故、否、私達は何故、異国の地に屍を曝し、銃剣を以て墓標と無し、何らの罪もない無辜の民と争わなくてはならないのであろうか」

 曾祖父さんの日記は、荒唐無稽、或いは「戦場の常」として片付け得る記述がほとんどである。だが、それらの記述は、私に対して妙な現実感を持って語りかけてきた。

 数ヶ月間、帳面に書き綴った日記は、やがて二冊目に入った。私は引き続き、その日記を読み続けた。

「昭和十二年十二月…日。雨。南京城陥落。私達にとっては随一の慶事であるはずだが、私はとても喜ぶ事はできない。私が今、目の前で見て居るものの前で、喜ぶ事などできようか。南京の家々は、敵軍の激しい抵抗と、我が軍の砲火によって次々と潰され、人々はその巻き添えとなった。本来ならば、本来ならば平穏のうちに幸福な生活を営む事ができたはずの人々が、敵である私達に、或いは味方である彼らによって害される様は、ー決して内地の人間は知りようもあるまいがー惨たらしい、と云う言葉で括り得るものでは無い。正しく彼らは、全てによって殺された人々なのである。余りにも、余りにも…。悲嘆を綴る事さえ、私の筆舌は叶わぬ事を、今日ほど悔やむ日はない。激しい戦火によって、南京は、千年以上に渡って守られてきた遺産を喪失し、それ以上に最も貴重なるべき、人民を失った。私はそれをこそ最も嘆く。子を守る為に、自らが盾となって、敵と味方の双方の弾丸に貫かれた母の骸を、私は丁寧に葬った」

「十二月…日。雨。今日、私は最も恥ずべき者となったであろう。私は、私は『目を背けた』。『知る事を拒んだ』。最早私は人間ではない、目を向けるべき事から目を逸らした、余りに哀れな『死人』の一人である。私は、私を呪う。私達によって汚された支那の大地が、殺められた無辜の人々が、たとい私が如何な報いを受けようとも、私がどれだけ苦しもうとも、私を呪い続けるに決まっている。もしも、もしも私がこの地で、いかに惨たく果てようとも、それは正しく報いであろう…」

 この記述に、私は一つ心当たりがあった。今から十年前の事。小学生だった私でも、ごく基礎的なものであるが、「平和学習」と言うものを受けた。そう言っても、本当にごくごくありきたりで簡単なものである。国語の教科書で、「戦争」という漠然としたものについて、物語か何かで学ぶというもの。それを読んだ私は、ただ漠然と、「昔日本人は海外で悪い事をして、そして負けたらしい」

くらいの認識でいた。歴史が好きだったから、ある程度は、少なくとも同学年の友人よりは知っていた筈だが、それでも私にとって、戦争とは現実味のない、ぼんやりとしたイメージでしかなかった。

 夏休み。田舎に帰った私は、仏壇が設えてある広間で寝っ転がって、暇つぶしにと持ってきた本を読んでいた。そこへ曾祖父さんが入ってきた。

「なんだい新、勉強か。あぁ、あぁ熱心な子は、いずれ大成するぞ」

曾祖父さんはそう言う人だった。きっとあの人の中では、どれだけ大きくなったとしても、私は赤子扱いなのだろう。

「ねえ、大爺ちゃん、一つ聞いてもいいかな」

「どうした、なんでも教えてあげるよ?」

「大爺ちゃんは、『戦争』に行ったんでしょ?何をしてきたの?」

「…新。ごめんな、大爺ちゃんはそれには答えられない。大爺ちゃんも、『知らない』事なんだ」

その時の曾祖父さんの顔は苦しみに満ちていて、それ以上何か聞こうとは、全く思えなかった。

 南京での記述以降、曾祖父さんの日記は、今度は退廃的、自棄的になっていく。

「…月…日。曇り。今日も、南京市街で人を殺した。奴らは便衣隊だ。哀れな奴らだ、遙かに高潔な志を持って、自らの祖国を愛して戦う彼らが、私の様な、私の様な、悍しい悪魔にも劣る獣に殺されるとは。全ての約束は、啓示は、教えは、全て偽りに違いない。私の様な卑劣漢が、のうのうと生き延びて居るのが、その証左ではないか…」

「…月…日。晴天。今日、萩原が戦死した。後ろから、手を上げて降伏した敵兵が、隠し持っていた拳銃で、彼の背中を撃ち抜いたのだ。昨日は、宇津木が死んだ。半死半生の傷を負い、三日三晩苦しみ抜いた末、医薬品の不足で死んだ。此処のところ、私の日記には、毎日の様に、苦しんで倒れた戦友の名が並んでいる。やはり、やはり全ては欺瞞に過ぎない。天皇陛下が私達に何をしてくれた?乾パンの一切れさえ、包帯の一巻きさえ、くれてやった事は無い。私は、私はもう沢山だ。かくも悍しい偽りの中で、さらに悍しい獣となって生き永らえるのは」

 曾祖父さんの日記は、此処からもしばらく続く。以降曾祖父さんは、死して本望とも言える無謀な行動をいくつも繰り返した。だが、それに反して曾祖父さんは生き残り、階級もだんだんと上がっていった事が数年間、何冊かに分けられて綴られている。

「昭和十五年…月…日。晴天。我々は今、何処にあるのか。我々は、私の小隊は、最早孤独な敗兵たちの群れと化した。我々にとって、この支那の地は、余りに広い。江南の茫漠たる平野が、それを私に教えて居る。我々は、江南の大地を、ただ自らが何処にあるかも知らず、葦を掻き分け、夕霧の中を彷徨い歩いて居る。支那の地を、疱瘡のように侵略した我が軍は、じき数億の軍によって別個に包囲され、一人残らずこの地に血を吸われるのではあるまいか…」

「…月…日。豪雨。此処は地獄だ。我々は、我々はいったい誰と戦って居るのか?八路軍は、我々の物資と希望に、強かな損害を与えた。だが、最も深刻なのはそれではあるまい。今や我々は…他ならぬ…方に…味方に…されようとして居る。一片の…さえ無く、僅かに付けられた氷砂糖で…合いが起きた。長きに渡る戦友であった永田が、新兵を殴りつけて…取り分を奪って居るのを見た。我々は皆飢えて居る、ギョロリと…目を瞬かせて…バッタも、蛇も…犬さえ、我々には上等な食料と化した。私を正気のうちにとどめて居る唯一の綱は、この日記だ。この日記が…る間だけは…私は…間でいられ…」

 戦線の拡大は、前線の軍に対して極めて深刻な物資の不足をもたらした様である。激しく滲んで、多くが判読不能となった日記の記述が、それを裏付けている。以降の記述の殆どは、紙と鉛筆の節約のためか、大部分が一、二行のごく小さな短文となっている。そして、読み進めて昭和十六年のある日の事。

「昭和十六年…月…日。晴天。今日はなんと素晴らしい日だろうか。私の除隊が決まったのだ。予備役として、内地へ戻れる。それを知って、私がどんなにか嬉しかっただろうか。愛する妻、父母の顔が、切れ切れに目に浮かぶ。除隊の辞令の文面を、一字一句、舐めるように読んだ。頭のシラミが落ちるのも気にならず、私は咽び泣きながら、内地へ帰れる事を喜んだ」

 そこから数日間は、帰還船での出来事が綴られている。対米開戦の前夜の事、日本近海がまだ安全であった故だろう。曾祖父さんが描写する帰還船の中は、程度の差こそあれ、皆戦場から逃れられるという安堵感に溢れていた。

「…月…日。曇り。私は数年振りに、故郷の土を踏んだ。私は真っ先に家へと帰って、愛しい妻に会った。この手にその体を抱きしめた時、あゝ、私は生きているのだと悟った。暫くして、間口から出てきた父母も、私の帰還を喜んだ。私が何より嬉しかったのは、腰の軍刀よりも、金鵄勲章よりも、私の生還の方を、皆が喜んでくれた事である」

 戦中下の、自暴自棄的な、はたまた彷徨の中の絶望的な文体とは打って変わって、希望的、楽観的な描写が増える。言うなれば、「人間たる事を取り戻し」たのであろう。そこから少しの間、日記の記述は、それこそ戦地では全く目のいかないような細かい物事についての記述が多くを占めている。

 しかし、その蜜月は長くは続かなかったようである。

「昭和十七年…月…日。雨。私は、八幡製鐵所で、技師をやることになった。それによって、また住み慣れた此処を離れ、福岡へと出向くことになる。何にせよ、戦争よりは遥かにマシであるが」

「昭和十八年…月…日。晴天。空襲が増えた。今こうして、日記を書いているが、そのうちそれもできなくなるだろう。灯りがなくなるのだ。私にとって、この日記をつける習慣というのは、とても特別なものなのだ。できる事ならば、続けられるように」

 戦況は悪化の一途を辿り、空襲は日常茶飯となった。

「昭和十九年…月…日。曇り。今や帳面も貴重品である。長々と感想を書き綴る事もできまい。また簡潔に。技師新川、グラマンに撃たれ即死(曾祖父さんは、連合国の兵器についてはとことん疎く、プロペラ戦闘機なら「グラマン」、エンジンが四つ以上なら「B-29」くらいしかわからなかったそうである)。旋盤に指を挟んで潰す者、5名。何も夜勤の学生である」

 再び短くなった曾祖父さんの文章。しかし、一字一句の震えが、その短文に込められた並々ならぬ感情を暗示していた。仲間が失われていく事の悲しさ、やるせなさ。そして理不尽さ。恐らく、曾祖父さんの抱く怒りは、連合国の人々に向けられる様な、分かりやすいものでは無かったであろう。もっと大きな、「人間」自身に対して、そして「自分」自身に対して向けられた怒りだったのではあるまいか。

「昭和十九年十一月二十六日。晴天。今日は、今日はまさしく私の人生で最高の日だ。今しがた、私のもとへ電報が届いた。娘が無事に生まれたのだ。産後の日立ちも良好である。素晴らしい、嬉しい。早速名前をつけてやらなくては…」

 その日は、祖母の誕生日の丁度翌日。そして、祖母の名前は「文子」。「武」では無い、「文」によって身を立てよ…。そんな意味を込めたのであろうか。以降もごく簡便な記述が続く。そして、最後のページ。

「昭和二十年八月十五日。晴天。今日、戦争が終わった。皆の胸の中には、それぞれ異なる、複雑な思いが去来した事だろう。確かに、皆それぞれの反応をした。終戦を受け入れられず、憤る者。こうべを垂れたまま、黙して天皇陛下に謝罪する者、連合軍の上陸によって、日本人は殺し尽くされると泣きながら慄く者…。私は、あの時私はどんな顔をしていたであろうか。一度大陸で、私は人間たる資格を失った。そして、今まで私は、報いを受ける事もなく、幸福に生きてきた。この終戦は、私への報いの始まりなのだろうか?私の幸せは、今から何もかも奪い尽くされ、最期に残るのは、焼け跡に立ち尽くす、無力で哀れな獣一匹…。だが、私は一つ気がついた。私は、私を呪う事ができた。私自身を非難し得た。今、こうして最後の日記を書くにあたり、今までに積み上げてきたものを見返している。南京の私の記述は、自らを非難し、激しく罵倒するものだった。では江南での記述はどうであったか。其処で私が綴っていたのは、泣き言であった。バッタを喰らい、戦友の食料さえ奪い取らんとする地獄にあって、私は自分を非難する事さえ出来なかった。詰まるところ、私はどこまでも半端者であった。責を負って死ぬ事も、開き直って罪を正当化する事も出来ぬ、半端者。だが、私はそれを今後悔はしていない。寧ろ、私はそうであった事を嬉しく思う。半端者は、自分の成した事を決して忘れない。半端者は、自分が生きている事の素晴らしさを忘れない。半端者は、自分が自分である事を忘れない。だからきっと、この終戦の報に接した時、私は笑っていた事だろう。私が生きている事の素晴らしさと、これから先も己に向き合えることへの感謝で。この日記も、今日を最後の節目として、終わろう。最後の頁を、この様な慶事で埋められる事を、心から嬉しく思う」

 私が帳面を閉じた時、声が聞こえた。

「新ちゃーん、お夕飯ですよ。今日は新ちゃんが好きな、鰤のカマを煮付けにしましたよ」

「はーい」

私は帳面を閉じて、並べ直し、部屋から出た。

 

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