5年後

 ピピピ…ピピピ…。


 …。


 あぁ、朝か…。


 ぼーっとした意識がスマホのタイマーによって少しずつ覚醒していく。


 今日はプレゼンか…。


 なんて、憂鬱な気分でタイマーを止めるようになったのは、高校生の頃から比べて少しは、大人になったと言う証拠なのだろうか。


 ふぅ…と息を吐くと、スマホがブルルと震えて画面に手を伸ばす。


 その人物の名前を認識して、小さくため息を吐いた。


『おはよー、今日の夜会える?』


 まだ覚醒し切っていない、ぼーっとした頭で文字を打ち返す。


『仕事が終わったら行くわ』


 と、送り返すと、すぐに返信が来た。


 ウサギがハートを作っているスタンプを見て、クスリと鼻を鳴らす。


 ほんと、昔から変わらねーな…。


 …。


 よいしょと上体を起こし、フカフカのベッドから立ち上がる。


 さて、今日は大事な会議だ。しっかりと気を切り替えて…。


 んー、と背伸びをする。


 ポキポキと背骨が鳴った。


「イテテテ…枕あってないのかな?」


 すると少し遅れて布団がもぞもぞと動き出す。


 布団が白いため、まるで真っ白な芋虫みたいなそれは、『ん〜…にゃ〜』と、伸び切った可愛い声を上げながら、布団から顔を出した。


 綺麗な黒髪が四方八方へと流れている。


「ん〜、おはよ…お兄さん…」


「おはよ…その…身体痛くないか?」


「え、うん…大丈夫だよ…でも、ちょっと疲れたかも」


 あはは…と頬をほんのりと赤く染めながら笑う柚葉。


 その綺麗な顔を見ていると、昨晩のことを思い出して、目を合わせていられなかった。


 「そっか」と、息を吐きながら、壁の時計へと目を向ける。


「それじゃ、朝ごはん作るから、できたら呼ぶわ」


「うん、ありがとね、お兄さん」


 にこりと微笑む顔に白い朝日が当たる。


 柔らかくて、白くて、綺麗な顔。


 本当に可愛いお嫁さんを持ったな…。


 なんて、心の中で呟きながらドアノブを握る。


 同時に「お兄さん♪」と、弾むような声に呼び止められて振り向く。


「ん?」


 すると、「えへへ〜」とかわいらしく笑い、胸を布団で隠しながら上体を起こす。


「また、シようね♪」


 白い首筋から、華奢な肩。


 右胸の小さなほくろが見えてドキリとする。

 

 あぁ、もうなんて言うか…仕事に集中できる気がしない…。


 耳がじんわりと暖かくなるのを感じて、「仕事が落ち着いたらな」なんて誤魔化して言ってみたものの…。


「ふふ…はーい♪」


 なんて、反応を見せた柚葉に、俺のポーカーフェイスが通じたのかどうかは、ちょっとばかり自信が持てなかった。

 


 朝食を食べて、歯を磨いて、スーツに着替えて…。


 いつも通りのルーティンをこなして、玄関で靴を履く。


「あ、それと…」


「ん? なに?」


 革靴の紐を結び、カバンを手に取り立ち上がる。


「今日、プレゼンで遅くなるかもしれないから、夕飯は作らなくていいよ」


「え、そーなんだ…。」


 一瞬、シュンとして、残念…と小さくこぼす。けどすぐに首を横に振って。


「でも、頑張ってね! お兄さん!」


 そう言って、華奢な腕を首に回した。


「ん…」


 と、小さく息をもらし、唇を重ねる。


 …。


「ありがと、そんじゃ行ってくるわ」


「はーい、いってらっしゃい♪」


 ガチャリとドアの取っ手を押す。


 開いたドアの隙間から、流れ込むひんやりとした新鮮な空気と、どこまでも広がる青い空は…。



 いつもより、ちょっとだけ心苦しいように思えた。



 


「いやー、今日のプレゼンの進め方、よかったよ!」


 なんて、上司の堅山さんが肩を叩く。


 自分が面倒を見た部下が成果を出したことが嬉しいのだろう。


 妙に上機嫌だった。


「ありがとうございます」


「なんだよ、もっと喜べよ」


「いえ、まだまだ改善すべきところがあって、これぐらいじゃ満足できないですよ」


「えぇー、そっかぁー?俺から見たら100点満点中、96点ぐらいだけどなぁ…」


「俺、完璧に主義なんで」


「あはは!なんだそれ!まぁとりあえずお疲れさん!」


 バシリと背中を叩き、未開封の缶コーヒーを机に置いていく。


 そしてその去り際に。


「やっぱ可愛い嫁さん持ってる男は違うなぁ!」


 と、大声で去っていく堅山さんの背中を見送ると、ポケットのスマホが震える。


 手に持って画面に目を向けた。


『おつかれー、そろそろ終わった頃かな? どーだった? 成果ほーこく!』


 ふふっと鼻を鳴らして文字を打ち返す。


『失敗』


『えぇー! ほんと? なにリストラされちゃうの? なんて言うか…ご愁傷様でした…』


『んなわけあるか。プレゼンは大成功、少なくとも、お前みたいに遅刻とかしないから』


『え、知らないの? ヒーローは遅れて登場するんだよ?』


「アホだな…」


 思わず声が出てしまう。


 と、そんな事をしているうちに、もうじき昼休みが終わろうとしていた。


 急いでLINEを打ち返す。


『遅れた結果、別のヒーローに助けてもらったくせに何言ってんだよ…てか、昼休み終わるから、じゃーな』


 送信して、スマホを閉じた瞬間、ぶるると揺れて、通知の欄を確認する。


 スタンプが送られてきた後に、


『今日、楽しみにしてるね♪』


 と言うメッセージを見て、ふと頭に浮かんだのは、柚葉の顔だった。


 …。


 返信せずに、スマホをポケットにしまった。



 

「お疲れ様でした」


 そう事務室に一声かけてタイムカードを差し込む。


 時刻は17:30分。


 大きなガラス張りの自動ドアが開くと、ツンとした空気が流れ込んできて、思わずマフラーの中に顔を埋める。


「あぁ、マジで寒い…」


 ロングコートを風にたなびかせながら駅へと向かう。


 改札を通って、電車に乗って…。


 そして、いつもとは一つ前の駅で電車を降りた。




 …。


 ずっとモヤモヤしていた。


 —ねぇ、私でもドキドキしてくれる?


 高校生の夏の日。


 柚葉と初めてキスをした夜のこと。


 俺は琴葉ともキスをした。


 口の中で動くザラザラとした感覚。


 全身雨でびしょ濡れのはずなのに、ほんのりと香るシャンプーと香水の匂い。


 甘い快感。


 そして,朝を迎える頃には…。


「あはは…なんだかんだで最後までシちゃったね」


 俺を見つめるトロリとした瞳。うっすらと赤く染めた頬と白い肌。


 それはまるで絵画のように美しく、俺の瞳と心をイバラで締め付けては決して、離すことはなかった。




 インターフォンを押す。


 するとすぐに黒いドアが開いて、


「お仕事おつかれー!カズ♪」


 にこりと笑う。


 長くて綺麗な黒髪がひらりと揺れた。


「あぁ、疲れたわ、とりあえず飯」


「うん、用意できてるよ…さぁさぁ、こちらへ…」


「お前なんか気持ち悪いぞ」


 なんて言いつつ、玄関で革靴を脱いで部屋へと上がる。


 この家に一人暮らししているせいか、どこにいても等しく同じ匂いがした。


 甘い柑橘系の、優しい香り。


 琴葉の匂い。


「これ、作ってみたんだけど、とりあえず食べてみて。そして感想プリーズミー♪」


 薄い黄色の、しっかりと形の整ったオムライス。


 赤いケチャップでパソコン?だろうか、それっぽいものが書かれていてクスリと笑ってしまった。


「お前料理は上手いのに絵は下手だな」


「そっちの感想はいらない」

 

 小さく頬を膨らませる琴葉。


 ははっと小さく笑ってオムライスを口に運んだ。


 サラサラと程よく水分を残したチキンライスと、ケチャップの甘酸っぱい香り。


 薄くクレープ生地みたいに焼いた卵焼きのパサパサ感がよくマッチしていて、控えめに言っても美味しかった。


「うん、ウマいわ」


「えへへ〜、良かった」


 と、テーブルの向かい側で琴葉が微笑む。


 両手で頬杖をついて、もっちりとした大福のようになっていた。


「お前、太った?」


「うっわ、ちょー失礼なんですけど…でもこっちは大きくなったかも」


 と胸を下から持ち上げて、いたずらに微笑む。


 そんな不意打ちに思わず目を逸らして、「やめろバカ」と早口に言った。


「あはは! じょーだんじょーだん! あ、ワイン飲む?」


「あぁ、貰うわ」


「はーい」


 透明なグラスに赤い液体が注がれて、俺の前に一つ置くと、次は自分のガラスにワインを注ぐ。


「それじゃ、お仕事おつかれ」


 と、グラスを小さく掲げて、小さく一口目を口にした。


 グラスから口を離して、はぁ…と息を吐く。


 そんな琴葉には高校生の頃とはちがう色気があって、あぁ、これが大人の女性なんだなって思わず見惚れてしまう。


「なに見てんの?」


 視線が重なる。


 黒くて綺麗なその瞳に、吸い込まれそうな気がして、「なんでもねーよ」って誤魔化しワインに口をつける。


 いつも渋く感じるワインが、妙に甘く感じた。


 そして、オムライスを食べ進めていくと、「ねぇ」と琴葉が口を開いた。


「最近柚葉とはどーなの? 上手くいってる?」


 その質問にウッと吸う息を詰まらせる。


「夫婦円満だよ」と返すとワインを口にした。


「へぇ〜、それならよかった。柚葉も幸せなんだね」


 ちらっと視線を下に向けて、ふふっと笑う。


 左手を隠すようにして自分の右手を重ねると、俺は何も言えなくなった。


 


 夕飯を食べ終わると、テレビをつけて世間話をした。


 大きめのソファーに2人で座って。


 仕事がどうとか、最近外出自粛のせいで遊べてないとか…あとは。


「私さ、作家目指そうかなって思ってる」


「え、作家? と言うとあれか、小説書く仕事か」


「うん」


 小さく頷いて、ふふっと鼻を鳴らす。


「具体的には来年まで働いて、専門学校通って〜…でも小説で食べていける気がしないなぁ〜」


 なんて言いながら、琴葉はガラスの中のワインに視線を落とす。


 その綺麗な横顔が、ガラスの中の赤色に反射しては、静かに揺れていた。


「まぁ、確かにそうかもしれないけど…でも今はそんなこと考えなくてもいいんじゃないか?」


「え?」


 少し驚いたように目を開き、こちらに顔を向ける。そんな琴葉に俺は続けた。


「なんつーかさ、小説を仕事にできるかどうかってのは結果論であって、本当にやりたいことがあるなら、それに取り組んでいる時間を楽しめばいいと思うし…それに…」


「それに?」


「涙とか、笑いとか…そう言うものはふとした時に出るけど、勇気ってのは出そうと思わないと出ないもんだろ? だからそっちの道に勇気を出して行こうとしてるなら、応援するわ」


 どこかの誰かが言うように、人生ってのは一度きり。だからと言って、『やりたい事をやる』というのが全て正解じゃないと思う。


 でも逆に、「あの時やっておけば良かった」っていうのは、人生において明確な失敗だと俺は思ってるんだ。


 だって、時間は不可逆。


 俺にだって戻りたい瞬間もあるけど、それはもう無理だから。


「…ふふ…本当にカズらしいね…」


 そう呟くと、ソファーの上を滑りながら、身体を密着させるように近づいて来て、そっと耳元で囁いた。


「そんなカズのことが、ずっと昔から好き」


 すると、俺の顔に華奢な手が伸びて来て、唇を重ねる。


 口の中で舌を絡めて、小さな水音とともに唇を離す。


 ワインの甘酸っぱい香りが口の中に広がった。


「ねぇ、ベット行こうか?」


 上目遣い。頬を赤く染めながら、そう呟く。


 そして、もう一度甘いキスを交わして…。


「このこと、柚葉にはナイショだからね? カズ♪」


 ふふっと妖美に笑う。


 白い肌、甘い匂い、ねっとりとした快感。


 琴葉の匂いに溺れながら、今日も身体を重ね合うのだった。

 










 

 

 


 


 

 

 



 



 

 

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幼なじみの妹と付き合った あげもち @saku24919

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