第5話 待ちわびてはいないけど、正真正銘部活動


 翌日の放課後。授業を終え、職員室に入部届を提出して修と部室へと向かう。

「お疲れーっス」

「お疲れ様です」

 そう声をかけて部室の扉を開けると。

「……りっ……理宇ちゃん……っ、先輩! 無理だろンなの!」

「おっ、今のいいねぇ、理宇ちゃん先輩って! もう1回呼んでみてよ」

「クソ……。理宇ちゃん先輩! これで満足かよ!」

「んふふ、よしよし。これから私のことは理宇ちゃん先輩って呼んでよくれるよね、コウくん?」

「何の罰ゲームだこれ!?」

 伊羽名先輩をちゃん付けで呼ぶ幸太郎とそれを楽しげに眺める先輩という、マジで意味の分からない光景が広がっていた。状況はよく分からないが、照れている幸太郎が気持ち悪い。

「おや、修くん、薫くん、お疲れ様」

 こちらに気づいた先輩が、声をかけてくる。

「今日はこれで失礼するんで、また明日」

 そう言って帰ろうとすると、幸太郎が縋り付いてくる。

「待ってくれ御幸、富塚! 困ってるオレを助けようとか思わねーのかよ!?」

「……いや、密室で羞恥プレイを楽しむ男女に割って入る勇気は俺にはねえよ」

「お前意味わかんねえ勘違いしてないか!? オレは理宇……ちゃん先輩に脅されてこう呼ばされてるだけだ!」

「気持ち悪い言動でこっちに来るな、バケモノ。修、適当な武器を頼む」

「バケモノ!? お前にはオレがどう見えてんだよ!」

 俺がなんとか幸太郎から距離を取ろうとしていると、修が口を挟んでくる。

「ちょっとちょっと、取り敢えず俺たちにも分かるように状況を説明してよ。それからでいいんじゃないかな」

「……それからって、何がだ?」

 そんな聞くまでもないことに何故か疑問を抱く幸太郎。やれやれ、こいつはこの数日間、工業科ここで何を学んでたんだか。

「「そりゃ、処刑だろ(でしょ)」」

 修と俺の声が重なる。幸せな奴と害をなす奴は処刑、これ常識。

「それ、共通の認識なのか!? オレか? おかしいのはオレの方か!?」

「うるさいな、さっきから。いいから事情を話せって」

 俺がそう言うと、幸太郎はあからさまに納得していない顔で話し始める。

「……オレが、り……理宇ちゃん先輩と昔からの知り合いってのは昨日話したよな」

「相変わらずその呼び方なのか……」

「悪いが我慢してくれ。オレの高校生活がかかってるんだ、マジで」

 その気迫に、つい圧されてしまう。

「お、おう」

「……悪いな。で、まあ……オレは昔、理宇ちゃんって呼んでたんだが、面白がって昔の呼び方で呼ばせようとして来るんだよ」

「ふふ。コウくん、昔は可愛かったんだよ? まあ、今も十二分に可愛いけどね」

 今まで黙ってこちらを眺めていた先輩が、そんな言葉を挟む。

「可愛い? こいつがぁ?」

 幸太郎に視線を戻す。可愛いと言うにはデカすぎるだろ、こいつ。

 幸太郎はため息をひとつ吐くと、続ける。

「で、そんな先輩──あー、理宇ちゃん先輩の悪ふざけがエスカレートした結果、オレは脅されてあんな最悪な呼び方を強いられてる訳だ」

「何をネタに揺すられてるの?」

「進学科に、オレのある事ない事、噂をばら撒くと。『ない事』ならいいんだが、最悪の場合オレ自身も覚えてないような昔の『ある事』を持ち出される可能性がな」

 ……なるほど。それはのっぴきならない事情だ。

「幸太郎……。お前も、苦労してるんだな」

「分かってくれるか、御幸……ッ!」

 友情の涙を分かち合う俺たちを、修は生暖かい目で見ていた。

 そういえばこいつ、タバコの写真で俺と一緒に脅された身ではあるものの、実のところこいつだけは言い逃れの余地があるんだよな……。こいつは機を見てドン底に突き落としてやろう。

「お疲れ様でーす……うわ、何これ?」

 俺がそんな決意を固めているところに、タイミングよく部室に訪れた健二も、俺たちの姿を見て困惑していた。

「ミユとコウは一体何を……?」

「いや……まあ、同じ苦しみを分かち合う者同士の……な」

 そう言ってから、ふと気になって健二に訊ねる。

「そういえば、健二は確か借りを作ったせいで先輩に目をつけられたって言ってたよな。別に脅されてる訳じゃないのか?」

「あー、僕はまあ……脅されてるっちゃ脅されてるね。こう……僕への借しをひけらかして来る感じで。良心にくる感じだったなぁ……」

 そう言いながら、健二が遠い目になる。

 というかこの先輩、本格的に道徳心の箍が外れているんじゃないだろうか。入部届を出したの、早まったかもしれない。

 だが、残念なことにもう後戻りも出来ないのだ。何より、夢と描いた青春を手に入れるため、多少のリスクには目を瞑ろう。

「それで、今日はどんな活動をするんスか、先輩?」

「そんなの、とりあえずは暇つぶししかないだろう」

「え、暇つぶしって……活動は?」

「昨日言っただろう、相談は大体月に1件か2件程度だって。それ以外の期間は、部室で暇つぶし以上にやることなんて無いさ」

 昨日の流れで気合を入れてきただけに、肩透かしだった。

「そういう事なら、僕は1人でゲームでもやってますね」

 健二はそう言い、ノーパソの置かれた机の前に移動する。

「おっと、心配をすることは無いよ。暇つぶしならいくらでも──」


「失礼、します……」


 そんな声とともに部室の扉が開かれたのは、先輩がカバンから引っ張り出したトランプをドヤ顔で掲げるのとほぼ同時だった。

 そこには、少女が立っていた。真面目そうな雰囲気の女の子だ。胸元あたりまで伸ばしたくせっ毛が、小さな呼吸に合わせて揺れている。

どうやら俺たちと同じ1年生らしい。女子ってことは、まあ進学科なのだろう。そんな彼女に、俺たちの視線が一様に集まる。

「え、えっと……もしかして、ご迷惑でしたか……?」

 彼女は、不安そうな声を上げる。

「いやいや、心配しなくても大丈夫。私たちは、どんな時だろうと訪問者を歓迎するよ。それで、ここに来たということはなにかご相談でも? と言っても、仮にそれが入部希望であればご期待には添えない結果になるのだけれどね」

「い、いえ、あの。先輩が、ここで相談してみろっていってくれて、それで」

「ふむふむ。そういう事なら、なんでも私たちに話したまえ。保証は出来ないけれど、できる限り解決に尽力すると約束しよう」

 そんな優しい言葉をかける先輩に、その少女は訝しげな目を向ける。

「その、決して先輩の事を疑っている訳では無いのですけど……後ろの、彼らって」

 そう言って俺らの方を指さす。

「進学科でも話題になってる、初日から痴漢騒ぎを起こしたって言う人じゃ……?」

 思わず頭を抱えた。工業科だけじゃなくて進学科まで!? というかなんで俺の顔割れてんだよ! そんな馬鹿みたいな話真に受けんな!

 文句を言いたいことはこれでもかというくらいに出てくるのに、そのどれを口に出しても解決する未来が見えない。

「あー……。その件についてはともかく、薫くんは面白い子だよ。少なくとも、私の前では。もっとも、裏でわいせつ行為に励んでいたとしても私には分からないけれどね」

「……もうちょっと、後輩を信じてくれないっスかね」

「はは、何を言っているんだ。まだ出会って4日、そんな短い時間で他人のすべてがわかるわけがないだろう。私にわかるのは、君はどうにも楽しい人間である、ってことだけさ」

 確かに正論だが、この人の言う正論と言うだけでなんとなく腑に落ちない。

「……まあ、私にその……そういうことをしないならいいですけど」

「誰がするか!」

 思った以上に信用されていないということだけは分かった。

「まったく、薫のせいで俺たちまで信用を失いかねないんだから、しっかりしてよ?」

「いやテメェは俺が痴漢してないこと知ってるよな!?」

 稲垣さんは、そう修に言う俺を冷たく一瞥する。

「はぁ……。来るとこ、間違えたかなぁ。……そういえば、名乗っていませんでしたね。私は──」

稲垣成実いながきなるみちゃん、で合ってるかな? 私は伊羽名理宇、よろしく」

 彼女が自ら名乗る前に、先輩が名前を言い当てる。知り合いだったのかとも思ったが、稲垣さんの方も驚いている辺り、そういう訳でもないらしい。

「えっ? はい、稲垣です、合ってます。あの、もしかして、私と伊羽名先輩ってどこかでお話したことありましたか……?」

「ううん、私たちは確かに初対面だ。趣味というか、癖というか……全校生徒の顔と名前を覚えちゃってるんだよ、私。驚かせちゃったかな?」

 ……いや、驚かないわけがないだろう。2、3年はともかく、今の様子だと1年生の名前も既に覚えきっているらしい。まだ入学して1週間と経っていない1年生、それも300人以上の名前を、だ。

 頭がいいらしいという話は散々聞いてきたし、思い知らされてもきたが、どうもこの人は想像以上らしい。

 だが、どうやらそれが功を奏したらしく、稲垣さんは早くも先輩に憧れの目を向けていた。

 その人を尊敬の対象に置くのはやめておいた方がいい、と言いたくなったが、今の感じだと何を言われるか分からないので口を噤む。

 そうして、稲垣さんはぽつぽつと話し始めた。

「明日、妹の誕生日なんです」

「ほう、それはめでたいね。私からも、言葉だけでも祝わせてもらうよ」

「ありがとうございます。……それで、妹の誕生日ケーキを買ってあげようと思って、名前入りのを。家の近くのケーキ屋で予約したんです。でも、明日は新入部員の顔合わせがあるらしくて……。できれば私の代わりに予約したケーキを取りに行って欲しいんです」



 彼女の話によると、そのケーキ屋はここから2駅のところにある小さなお店で、6時には閉店するので部活の後に取りに行くと間に合わない……ということらしかった。

 彼女の家もそこから近くにあるので、明日の放課後に電車に乗って受け取りに向かい、近くで時間を潰した後に彼女と落ち合ってそれを受け渡すという手順のようだ。

 それにしても、拍子抜けだった。俺はてっきり。

「誰かを殴るか誰かに殴られる覚悟だったが、簡単なモンだな」

「だね。俺としては薫が殴られるところを見てみたかったけど仕方ない」

「……あの、工業化の男子ってみんなこんな感じなんですか……? 私、こんな人たちと同じ校舎で過ごしてるの……?」

「いやいや、こんな野蛮なのはこの2人だけだから! 僕まで一緒にしないでよ!」

「…………こいつに同じく。オレもこの2人のことは理解出来ねぇ」

 マトモぶってやがるこいつらが、果たしてどれくらいで工業科に染まるのか見ものだ。

「と言うわけで、諸君。聞いた感じ、そう人手も要らなそうだけど、立候補してくれる人はいるかな?」

 そんな先輩の問いかけに幸太郎と健二が続けざまに声を上げる。

「オレ、明日は文芸部の方に顔出したいからパスで」

「コウ、文芸部なんて入ってたんだ。ついでに僕も、明日はちょっと用事あるので」

「なるほど、コウくんと健二くんは無理、と」

 先輩の視線が、残った俺たちの方にスライドする。

 無駄とは分かりつつも目を逸らす俺と修を、案の定気にすることもなく、先輩ははっきりと宣言する。

「というわけで、明日はこの2人にお願いすることにするよ。稲垣さんも、それでいいかな?」

「ま、まあ、はい、先輩がそう言うなら」

「……俺たちには、確認してくれないんスか」

「だって君たち、暇だろう」

 なかなかズバッと言ってくれる。

「ちなみに先輩は、なにかご用事でも?」

「私かい? 私は明日もこの部室にいるという用事があるよ」

 修の問いに、先輩は堂々とそう言ってのけた。

「ま、いいっスけど。別に、そんなに大変な事する訳でもないし」

「……それじゃあ、2人にお願いするけど。私、あなたたちの名前をまだ聞いていないんだけど」

「ああ、悪い。俺は、御幸薫だ」

「俺は富塚修ね。よろしく、稲垣さん」

「ええ、よろしく……お願いします」

 稲垣さんの冷たい声色を聞きながら俺は、あるひとつの懸案事項を思い描いていた。

 この人、もしかして修の見た目に騙されて頭の良い奴だと思い込んでたりしないよな……?

 そういえば、こいつのバカさ加減を深く思い知っているせいで、客観的なイメージを失念していた。

「なあ、稲垣さん」

「……何」

 バカが伝染る、とでも言いたげな目線で──実際似たようなことを思っているんだろうが──稲垣さんが睨んでくる。

「言っとくが、修も俺と変わんないような奴だぞ」

「わかってるわよ。彼も工業科なんでしょう? なら、多かれ少なかれ──」

 と、敢えてだろう、険悪な会話を遮るように先輩が横から話を切り込んできた。

「自己紹介も終わったところで、改めて明日の段取りについて軽く話そうか。まずは、お店の場所だけど──」




*



 どうやら俺たちに取り付いているらしい不運がこの程度で終わるはずがない、という事を実感したのは翌日の放課後だった。

「──マジか」

 思わずそうボヤき、空を仰ぐ。もちろん比喩だ。上を見上げても、視界の先にあるのは教室の天井だけだった。

「マジマジ、大マジ。困ったねぇ、あはは」

 俺とこの不運を分かちあっているはずの修は、いつもと変わらずお気楽に笑っている。

 そんな俺たちの声に負けることなく、雨の音が耳朶をふるわせ続ける。

「電車が遅延、復旧の見込みは今のところなし。でもって傘を忘れた俺たちは濡れネズミ確定。俺が何やったってんだよ……」

「そりゃ、日頃の行いでしょ。というか、傘を忘れたってことについては、天気予報を見てなかった薫にも問題があるよね?」

「言っとくが天気予報を見てなかったのはお前も同じだからな」

 しかし、どうしたものか。現在時刻は4時40分、ケーキ屋は2駅先。走って間に合う距離ではない。この雨で自転車に乗ることが云々以前に、そもそも自転車は最寄り駅の自転車置き場に置きっぱなしだ。

 少し頭をひねり、ちょっとしたことに思いをめぐらせる。例えば、稲垣さんの事とか。今日が誕生日だという、彼女の、妹のこととか。

「で、どうするの薫? 正直、この状況だったら諦めても──」

 修の声を遮る。悪いが、その提案は受け入れてやらない。

「──なあ。お前、小さい頃の誕生日って覚えてるか?」

「んえ? なんの話?」

 間抜けな声を無視して、なおも続ける。

「昔……例えば小学生の頃の誕生日って、今なんかよりよっぽど『特別』だった、と思う」

「まあ、確かに。ケーキを食べたり、新しいおもちゃを買ってもらったりして、すごく楽しかった記憶があるけど」

「稲垣さんの妹さん、何歳かは知らんが──誕生日にケーキが食えないって、本当に悲しい事じゃないか?」

 ここまで言えばさすがに修にも伝わったらしく、胡乱な目で俺を見てくる。

「どうしたのさ、随分とらしくないこと言うね」

 確かに、いくらなんでもクサすぎたかもしれない。……だが、やる前から諦めるのはどうも、不思議と納得できない。

「…………モテたいってんならこれぐらいやんないといけないと思っただけだ。別に、特に深い理由はない」

「えぇ〜? 照れずに、ガラにもなくカッコつけたくなったって正直に言いなよ」

「うるせぇ! それで、お前はどうするんだ」

「ま、仕方ないから付き合うよ」

「よし、そうと決まればこんな所でだらけてる暇はねぇ! とっとと行くぞ!」

 そう意気込んで立ち上がるが。

「でも、ここから走っても明らかに間に合わないよ? 電車も遅延続行中だし」

 修の言葉に出鼻をくじかれる。

「せめて、チャリでもあればな」

「うーん……そうだ!」

 なにか閃いたらしい修が、誰かに電話をかけ始める。

「……もしもし、舟入くん? いきなりだけどさ、自転車ってある? ……うん……本当!? どんなやつ? …………なるほど、鍵は? …………不用心だなぁ……。まあいいや、借りるから! あーあーきこえなーい! じゃあね!」

 会話の流れは俺にはよくわからなかった。そういうことにしておこう。

「よし、自転車確保!」

「ナイス! そうと決まれば──邪魔な荷物は部室にでも置いてくか」

 修の携帯からしきりになっている着信音が誰のものなのか、俺には皆目検討もつかなかった。



「お疲れっス、先輩! とりあえず、俺たちの荷物お願いします!」

「お、薫くんに修くん、お疲れ様。……ごめんね、今ちょうど2人が来たから……って、そんなに慌ててどうしたんだい?」

 どうやら先輩は電話中だったらしく、電話口に謝ってからこちらに意識を向ける。

 だが、とりあえずお構い無しにカバンを放り投げ、濡れると何かと面倒そうなブレザーも脱ぎ捨てる。

「ちょっと、ふたりともいきなり脱ぎ出して何を──! もしかして、本当に私にエッチなことを……」

「何ほざいてんスか! 俺らもう行くんで、失礼します!」

「えっ!? ちょ、ちょっと待つんだ」

「すみません、それはまた今度で!」

 呼び止める先輩の声をバックコーラスに、廊下をひた走る。といっても、こんなのはまだ助走に過ぎない。本当に大変なのはこれからだ。



自転車のスタンドを蹴り上げ、駐輪場から外へと出す。

「修、2人乗りいけるか?」

「もちろん、去年1年どれだけ乗りまわしたと思ってるのさ」

「店の位置は」

 修が携帯で地図アプリを立ち上げる。

「地図さえ見れば」

「よし、ガイド頼む! 昨日みたいに迷ったら承知しねぇぞ……!」

「そっちこそ、言い出したのは薫なのに途中でバテたら許さないからね」

 雨風に晒されながら、サドルにケツを乗せ、荷台の修が腰に手を回してきた感触を確認する。といっても、片手には携帯を持っているはずなのでもう片手の方だけだが。

「行くぞ、しっかり掴まってろよ──!」

 


「そこ真っ直ぐ──あ、左の方が近い!」

 修の指示を受け、適度にブレーキをかけつつハンドルを思いっきり切る。

「うわっ、もうちょっと安全運転できないの!?」

「テメェの指示が遅いからだろ!」

 というか、こんな雨の中2人乗り、それも後ろでながらスマホしてる奴が安全運転を求めるな。

「そこの道で右に曲がったらしばらく真っ直ぐ! あと25分!」

「時間より距離を言え、距離を!」

「あと3割か4割くらい、このペースなら多分間に合うハズ!」

 このペースならとは言っても、俺の体力もそろそろやばいというのは、後ろで座っているだけの修には分かっていないだろう。

 口の中の唾液が粘ついて気持ち悪い。喉の奥がツンと痛む。

「──ッ、ハァ、っ……」

 だが、後ろのこいつにそれを気取られるのは悔しいので必死で呼吸を整えようとする。

「……ッ、やばい、そのまま行くとすぐ交番がある! 脇道に逃げよう……!」

「なっ……。そういうことはもっと早く言え!」

 慌ててハンドルを左に切り、適当な道に飛び込むが──なんとも危ないことに、そこには緩やかな下り坂が広がっていた。

「ちょっ──!? 薫、なんて道入ってんのさ!」

「だから、さっきから指示がおせぇんだよ!」

 咄嗟にブレーキをかけるが、速度と雨と坂道の合わせ技で摩擦が用をなさない。

「何やってるの!? スピード落としてよ!」

「ブレーキが全然聞かねえんだよ!」

 坂道の終わった先にも道は続いているものの、その前には僅かな段差と、車の侵入を止めるための柵。経験上、スピードに乗っている時は小さな段差でも命取りになることを知っているが……今はこれしかない──!

「来るぞ、歯食いしばって死ぬ気で捕まれェえええ!!」

「前! 前見てる!? 死ぬって!」

「うるせぇ、跳ぶぞ!」

「なっ──はあああああぁ!?」

 片腕だけで腰を掴まれていた感覚が、両腕で挟み込まれる感覚に変わる。

 次の瞬間、全身に衝撃が走った。前輪が段差にぶつかり、身体が自転車ごと宙に浮く。

「うわあぁぁぁぁああ!?」

 修の情けない声が響く。

 目下に背の低い柵が通り過ぎ、自転車の前輪が再び地面に着くまでの動きが、やけにゆっくりと見えた。

 当然、そんな勢い任せの跳躍が上手く行くはずもなく、自転車はそのまま横倒しになり、俺たちは地面へと投げ出された。ブロックの地面が冷たい

「ぐう、っ……!」

「どわあぁあ!!」

 全身に痛みはあるが、アドレナリンが出ているからか、それとも打ちどころが良かったのか想像よりは痛くない。

「そうだ、大丈夫か修、生きてるか!?」

「ケ、ケツが……ケツが、人生でいちばん痛い…………」

 思ったよりは大丈夫そうだった。

「いつまでそうしてるんだ、さっさと行くぞ」

「鬼……鬼畜……鬼畜生……。俺がこんなに苦しんでるのに……!」

「鬼畜でもなんでもいいが、いつまでも止まってたらここまで来た意味もなくなるぞ」

「じゃあ、急がないとかぁ……」

 俺が自転車を起こしながら言うと、修はフラフラと立ち上がり、荷台に腰掛ける。

「じゃ、再び案内頼んだ」

「案内っていっても、次の小路を右に入って、出た先を左に行ったら後は道なりだよ」

「っしゃ、もうすぐだな。気合い入れてくぞ!」

「はいはい。……うぁ、痛てて……」

 しっかりとしがみついてきたのを確認して、再びペダルを踏む。さあ、あと少しだ──!



 稲垣さんに聞いていたケーキ屋の前に自転車を停める。

「……というかこれ、パンクしてない? 舟入くんになんて言おう……」

「……そこら辺は後で考えればいいだろ。ケーキ、受け取ってくるわ」

 最悪全部修に押し付けられるし。

 そんな事より、とっととケーキを受け取ってそこらで休憩でもしよう。そんなことを考えながら、ケーキ屋の自動ドアを潜る。

「──えっ。御幸くん……?」

 奇遇なことに、店内には稲垣さんの姿があった。

「……待て待て、なんで稲垣さんがここに居るんだ。話が違うぞ」

「それはこっちの台詞よ。こんな雨の中、そんなにぼろぼろで、なんでここに──?」

「こちとらアンタの妹さんのために必死こいて来てやったってのに。用事で取りに来れないって言ってただろ?」

「ええ、それはそうだけど……。というか、傷なんかは大丈夫? 痛くないの?」

「まあ……それは大丈夫だ、このくらいの傷が問題になるほど俺はヤワじゃない」

 実のところ、アドレナリンが止まったのかさっきから傷は痛み続けるし、冷えきった身体は寒さを思い出して震え出しそうだし、何より疲れきって今にも膝は笑いだしそうだが、それはそれ。男子とは、大抵の場合、女の子の前でカッコつけないと気が済まない生き物なのである。

 例え、それが偏見から俺を敵視してきた進学科ゆうとうせいだとしても。

「それより、何だって稲垣さんがここにいるんだ?」

「ママに車で学校まで迎えに来てもらって、家に帰ってから歩いてきたのよ。知り合ったばかりの人にこの雨の中をはるばる取りに行け、なんて言うほど酷い人間じゃないわよ、私」

「根も葉もない噂に踊らされて初対面の人間を鬼のように敵対視するような酷い人間なのは確かだけどな」

「……それは、ごめんなさい」

 ばつが悪そうな様子で素直に謝罪の言葉を口にする稲垣さんに、かえってたじろいでしまう。

「あぁ、いや、分かってくれたなら別にいいんだが」

「ええ──たった今、とっても優しい人だってわかったわ。そんな悪い人が、ずぶ濡れになってはるばるこんな所まで来たりしないでしょ?」

「……あー……」

 いつの間にかやたらと距離感の近くなっていた稲垣さんが、上目遣いで微笑んできて、思わず目を逸らしてしまう。

 どうしよう。モテるために部活に入った末の行動だったとか、とてもじゃないけど言えない。

「ふふっ。そんなに照れなくていいのに」

「……別に、照れてるとかそういう訳じゃない」

 後ろめたい気持ちもあるが、口元を押さえて控えめに笑う稲垣さんは掛け値なしに可愛い。眼福だ。

「というか、酷い格好ね。ここに来るまでに一体何があったのか知らないけれど、そのまま店内にいたら迷惑になるわよ、早く出ましょう」

 改めて自分の姿を省みると、まさしく泥まみれの濡れネズミと言った感じのざまだった。

 店員に感謝の言葉を伝えて自動ドアをくぐった稲垣さんの後を追って、俺も店を後にした。



 店の外では、修がメガネを手に持って振り回していた。

「……何やってんだお前」

「ん、薫……? メガネのレンズが濡れてて見えにくいから、乾かそうと思って。──ってあれ、稲垣さん? 何で?」

 メガネをかけてようやく彼女の姿を認めた修は、さっきの俺と同じように驚いていた。

 そんなこいつに、改めて事情を説明する。

「なるほど。あのさ、口に出すと悲しくなるからあんまり言いたくないんだけど……もしかして」

「ああ。口に出すと悲しくなる事実を会えて口に出して説明するが、今回の俺たちの頑張りは完全に、骨折り損のくたびれ儲けだ」

 俺たちのそんな会話を聞いた稲垣さんは、さっきと同じように口に手を当てて笑っていた。

「でも、そのおかげで私は2人のことを信頼できるようになったんだから。そんなことを言わないでよ」

 困ったような表情の修と目を合わせる。多分、俺も鏡合わせのように似た表情をしているのだろう。

 やがて、修はため息をついて話を切り出す。

「あのさ、稲垣さん……実は」

「ん、何?」

「……その、俺たちは別に善意でこんなことをやってる訳じゃないっていうか」

「え、知ってるわよ。モテるため、だっけ? 伊羽名先輩に聞いたし」

 一瞬、稲垣さんの言葉の意味が掴めず固まる。

「……じゃあ、なんで信頼ができるなんて」

「例えモテたいっていうだけの偽善だとしても、偽善のためにそんなに頑張れる人を信用しない理由がないもの」

 残念なことに、俺が部活を始めた理由はモテたいからってだけじゃなく脅されてもいるからだ。比率にして4:6ほど。

 しかし、そんな俺の胸中を知ることは無いままに彼女は言葉を紡いでいく。

「それに……そうやって頑張るって、すごくかっこいいと思ったから」

 ────落ち着け、俺。浮かれるな、理性的に考えろ。

 これは、あれだ。女子特有の、男子を勘違いさせる言動。俺たちのことを異性としてみていないがために軽々しく口にできるようなセリフだ。

 そう、ここで勘違いしたら、一生モノの大きな恥を抱え込むことになる。

 ワンセット、軽く深呼吸。完全に落ち着きを取り戻──。

「ふふっ、やっぱり先輩の言っていた通りの人たちだった」

 したのも一瞬、稲垣さんが爆弾を投下した。

「待て、俺の与り知らぬところであの人は何を言ってやがったんだ……!?」

「……ひみつ♪」

「なっ!? やべぇ、またしても俺の悪評が広まる気配が!」

 俺の動揺をよそに、修は可哀想な目で俺を見ていた。

「おい修、お前だって他人事じゃないからな? それとも何か知ってんのか!?」

「……いや、知らないけどさ」

「あはは、やっぱり、先輩の言っていたとおりね。富塚くんも、御幸くんも」

「ま、こういう事でしょ」

「どういう事だ、やっぱり何か知ってるんじゃないのかお前!」

 なんとなく蚊帳の外な感じ。俺は孤独だ。

 と、不意に稲垣さんがなにかを思い出したように携帯を覗き込む。

「ごめん、私そろそろ帰るわね。電車、もう運行再開してるそうよ。ありがとうね、2人とも」

「ん、そっか。ばいばい、稲垣さん」

「ああ、じゃあな」

「──成美」

「へ?」

「私の名前。苗字じゃよそよそしくて寂しいから、今度から名前で呼んでほしい。それじゃあ、ばいばい」

 そう言って、稲垣さん──もとい、成美さんは傘を差して歩いていってしまった。

「それじゃ、俺たちも帰ろうか、薫。──くちゅん」

 修がくしゃみをする。そういえばさっきから、規格外の運動量に火照っていた身体もかなり冷え、服が肌に張り付いてくるのもあってめちゃくちゃ寒い。

 というか、疲れを自覚した膝は笑いだしそうだし、4月の風は濡れた身体に容赦なく吹き付けてくるし、そもそもこの時期の夕方なんて普通に寒いしで最悪の状態だった。

「そういえば、部室に荷物置きっぱなしだったけど、どうする? 明日取りに行けばいいかな」

「もしかしたら修は知らないかもしれないが、明日はなんと土曜日だ。俺は一日寝て過ごすが、お前が取りに行ってくれるなら俺の分も頼む」

「土曜日……。そっかぁ、もう週末か」

 そう。恐ろしいことに、今日は月曜の入学式から数えて5日目の金曜日。新生活において初めての休日だ。

「まあ、今週は新生活ってのもあって疲れてるからねぇ。俺も、丸二日寝て過ごそうかな」

「……ちょっと真っ当な疲れ方をしたとは言えない気もするけどな」

「あはは……。確かに、ここまでで苦労してきたこと、高校生になったってことと殆ど関係ないもんね」

 果たして、新春早々雨の中を爆走して寒さに震えているような奴がどれだけいるのだろうか。

 寒さに震える俺たちは、いつしか止んでいた雨の中、雲の切れ間から覗く空を眺めながら駅へと駆けるのだった。



*



『もしもし、成美ちゃん?』

 数秒の着信音の後、私の名を呼ぶ声が携帯から聞こえた。

「あっ、もしもし、伊羽名先輩」

『いきなり電話なんて、どうしたんだい? 昨日のことと関係あるかな?』

「はい、実はそれなんですけど……。今日のこの天気で他人に取りに行け、なんて言う訳には行かないと思って、やっぱり自分で取りに行くことにしました」

『おや、そうか。まあ、この天気じゃあ、そもそもあの二人は取りに行けないと思うけど……。それに関しては、私の方から伝えておくよ』

「ありがとうございます」

『でも、成美ちゃんの方は? 今日は部活の顔合わせって言ってたし、そもそもこの雨の中、大丈夫?』

「帰りは、親に車で来てもらうことにしました。部活は……先輩の皆さんも優しいので、大丈夫って言って貰えました」

『なるほど、わかったよ。ウチの後輩が思ったより悪くない子たちだって分かってもらう機会を失ったのは少し悲しいけどね』

 先輩の言葉に、以前から感じていたちょっとした疑問が、口から出てしまった。

「その……。昨日、先輩自身が知り合って間もないって言ってたのに、どうして彼らが“良い人”だって信じられるんですか……?」

『ああ、確かに傍から見たら不自然かもね。そもそもコウくんと健二くんは高校に入る前からの知り合いだったんだよ』

「なるほど、そうだったんですね。でも、あとの二人は……」

『そうだね、薫くんと修くんは──この間、2人を密室で脅す機会があったんだけど』

「あの、ちょっと待ってください。私たち、何について話してましたっけ……?」

 密室で脅……え? これ、本当に高校生の会話?

『ん? どうして工業科男子なんかを信用できるのかってお話だろう? いいから聞きたまえ』

「……は、はい」

『まあ、そんな訳で彼らと密室に閉じこもるという状況になったんだが、彼らは私に手を出して来なかったんだよ』

「…………えっと、ごめんなさい。やっぱり分からないです」

『う〜ん……。ほら、私って容姿が人並外れて優れているだろう?』

「えっ? まぁ、はい、確かに」

『そんな異性と密室に2人きり──まあ、正確には3人だったんだけど──そんな状況になったら、悪い男は性欲のままに相手を襲うはずだ』

「先輩は思春期男子の性欲を過大評価しすぎです──! そんな悪人は今頃刑務所の壁の向こうに行ってます!」

『……そ、そうかな?』

「そうです! その程度で彼らを信用するなんて、やっぱり私には──」

 そんな私の言葉を遮るように、電話の向こうがにわかに騒がしくなる。

『お、薫くんに修くん、お疲れ様。……ごめんね、今ちょうど2人が来たから……って、そんなに慌ててどうしたんだい?』

 どうやら、タイミングよくやってきた2人となにやらやり取りをしているらしい。男子の声はよく聞こえなかったが、二、三言の後に、先輩の少し慌てた声が聞こえてきた

『ちょっと、ふたりともいきなり脱ぎ出して何を──! もしかして、本当に私にエッチなことを……』

「──!!? せ、先輩!? 大丈夫ですか!!」

 私の声は向こうに届いていないのか、なおも先輩は男子たちと何か言い合っている様子だ。

『えっ!? ちょ、ちょっと待つんだ──! ……行っちゃった』

「…………あの、先輩。何があったのか聞いて大丈夫ですか?」

『あ、ああ。まあ、ともかく私は大丈夫だよ』

「えっと、男子ふたりは一体何を……?」

『あー、それなんだけど……』

 つかの間の後。

『成美ちゃん、案外早くあの二人を見直すことになるかもよ』

 そんな、不思議なことを言った。


 ……私がその言葉の意味を理解するまで、あと1時間。

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それでも俺は青春の為に! 八薪 和 @yamaki_nodoka

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