第16話ある棋士の安堵

 良かった。やっと負けることができた。これで国家の威信なんてプレッシャーから解放される。もう、盤上の囲碁のことだけを考えて生きていけるんだ。


 おそらく僕は嫦娥4号に囲碁で敗北したことで、国家の威信を傷つけた大罪人として収容所送りになるだろう。一生独房に閉じ込められるかもしれない。


 でも、それでいいんだ。もう囲碁のことは頭の中だけで考えていける。たとえ手足を鎖でつながれても、僕の頭の中の囲碁盤を取り上げることは誰にもできやしないんだから。


 思えば、故郷の村で囲碁の神童としておじいちゃんやおばあちゃんにもてはやされたのがすべての始まりだった。思えば、あのころが一番楽しかったのかもしれない。


 うわさを聞き付けた共産党のお偉いさんによって、僕は国の棋士養成所に放り込まれることになった。なにせ極貧にあえぐ僕たち一家にとって信じられないほどの大金が準備金として渡されるんだ。


 パパやママに涙を流されて、僕も自分が誇らしかった。


 棋士養成所では、何人もの精神を破綻させてしまった。二十歳やそこらの青少年が、それまでの人生の全てを賭けて来た囲碁で、十歳に満たない子供に完膚なきまで叩きのめされたのだ。発狂するのも無理はない。


 嫦娥4号に負けた直後の僕の気持ちもそうだったからだ。だけど今となっては、ただほっとした気持ちになっているだけだ。


 当時子供だった僕は対戦者を負かすことでただ得意になっていたが、今になってみれば彼らには本当に悪いことをした。彼らはいまいったい何をしているのだろうか。囲碁と言う自分の存在意義がなくなってしまったら、共産党にどんな扱いを受けるのだろうか。


 ひょっとしたら、強制収容所で再開するかもしれない。だとしたら、今度は国家の威信なんてものを考えずに純粋に囲碁を楽しめるのだろうか。


 いや、そんなことは夢物語かもしれない。もう何年も対局の前には『共産党魂の注入』だと言われて注射をされていたが、あれは間違いなく覚せい剤だ。なにせとにかく効くのだから。


 違法なドーピングで偽りの勝利を重ねてきたことは、対戦相手になにより申し訳ない。なにより囲碁を冒涜している。用済みとなった僕はもはや覚せい剤の投与をされることもなくなるのだろう。


 あの異常な高揚感と発汗から解放されるのかと思うとほっとする気もするが、これからの禁断症状を考えると気が沈む。僕は自我を崩壊させずにいられるだろうか。


 思えば、いままで数限りない僕の同胞である中国人のアスリートがたった一度の敗北をきっかけに精神を崩壊させていった。今から考えれば、あれはそれまで恒常的に投与されていた薬物を摂取されなくなったからではないのか。


 ならば、僕はこれから想像もできない大バッシングをされることになるだろう。中国の威信に泥を塗った戦犯として。


 それならばいっそのこと僕の精神が崩壊してしまった方がいいのかもしれない。僕の心は戦犯扱いには耐えられそうもないのだから。


 いったいどうして世界はこうなのだろうか。囲碁盤には宇宙の神秘があるなんて言っていた棋士がいるけれど、なぜ盤外でああもごちゃごちゃしたことが行われるのだろうか。


 国の威信なんて、盤上の碁石の美しさに比べればほんの些細なことなのに。それにしても、あの日本人には申し訳ないことをした。まさか、中国と日本の囲碁のルールの違いが勝負の決め手になるだなんて。


 彼とはもう一度純粋な勝負を楽しみたい。国家の威信なんて余計なものはほっぽり出して。しかし、僕の実力はいったいどれだけが本物の実力だったのか。


 たまたま僕に覚せい剤への適性があっただけで、本来の僕の実力はたいしたものではなかったのかもしれない。


 ひょっとしたら、そこそこの囲碁の強さで町道場の主でいた方がよっぽど幸せだったのかもしれない。


 囲碁が好きな子供たちに定石を教え、たまに来る賭けを吹っ掛けてくる真剣師を追っ払える程度の腕前の町道場の主。


 金勘定はまるで駄目だけれど、いざって時の囲碁の代打ちで日々の暮らしを送れる程度のつつましい暮らし。そんな人生も悪くないのかもしれない。


 少なくとも、お偉いさんのつまらないあいさつに付き合わされてばっかりの人生よりは。


 それにしても、僕の人生……いや、人類にとっての囲碁って何だったのだろうか。何千年も積み重ねて来た定石が、人工知能の一瞬の計算でひっくり返されるだなんて。


 いや、もし僕が純粋に囲碁を楽しんでいた男だったら、単純に自分の想像を超える腕前の棋士が現れたことに感動していたのかもしれない。


 国家の威信なんてものに振り回された結果、機械に負けたことがあんなにもショッキングに思えたんだ。


 願わくば、来世では機械に囲碁を教わることが恥でも何でもないような価値観に生まれたい。純粋に自分よりも格上の存在にこうべを垂れて囲碁を教わるという体験をしてみたかった。

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