湯治場にて4

「期待に沿えなくて悪かったな」

雅比古はセルフサービスのお茶を麻子の前に置く。

「全然大丈夫です。慣れてますから」

麻子はゆっくりお茶をすする。

並んだ店のはずれにある食堂。

この先は、街灯もない暗い道が続く。

「ここで飯を食おう。湯治場は基本自炊だから」

店の中に客はいなかった。

不愛想なおばちゃんが二人を見ている。

「今の現場で、他から流れてきたのは俺だけだ」

「少し前にはいたらしい。名前ぐらいは調べられるが」

「いいです。偽名を使ってるかもしれないし」

しばしの沈黙が店の中を漂う。

「俺は昔、ケンカの仲裁に入って、人を殺しちまってな」

雅比古が静かに話し出す。

「刑務所に入ってる間に、女房は子どもを連れて出て行ったらしい」

「俺も家には戻れずに、こうして現場を渡り歩いてる」

「家には誰もいないんですか」

「親父とお袋がいる」

「今のところ、元気でいるようだ」

「あたしの父も、同じようなものです」

「母に逃げられたらしくて」

ストーブの上に置かれたやかんが、

コトコトと音を立てて揺れはじめた。

「あたしは詳しいこと聞かされていないんです」

「突然父は、工場を閉めて消えちゃいました」

雅比古の前に大盛のカツ丼が運ばれてきた。

「ねえさんは、そばでよかったのかい」

「駅前で食べてきましたから」

「工場を閉めたって、借金とかはなかったのかい」

「業績は悪くなかったんです」

「それに不動産があって、家賃とか地代も入るし」

「だから生活には困りませんでした」

「でもそれだけに、どうしてあたしを残して消えちゃったのか」

雅比古はカツ丼を食べながら、麻子の話を聞いていた。

「それで捜してるのか」

「ずっとそうしたいと思ってたんですけど、やっと踏ん切りがついて」

「それで、家を友だちに任せて、出てきました」

「ずいぶん思い切ったな」

雅比古を見る麻子。

「実は、ある人と再会して」

「この人なら任せられると思ったんです」

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翻る落ち葉 阿紋 @amon-1968

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