第6話(3/3) シュレディンガーのコロナ

 真也しんやは野球とともに育ってきた。

 小学校低学年のころに引っ越してきた分譲マンションは県立球場に近い。

 10階にある真也の部屋からはグラウンドを見下ろすことができた。

 毎年、高校野球の大会が開かれるころには、カキンっとバットがボールを捉えた鋭い音が届くものだった。

 部屋の中にいても「回れぇー」なんていう球児の声だって聞こえてくる。

 今年、真也はそんな風に大声を出す側に回るはずだった。

 それは、幼いころから野球が常に身近にあった真也の夢であり、目標だった。


 だが、コロナは真也の目標を奪う。


 5月の初め、真也はベランダに立ち、球場を見下ろす。

 春の大会が中止となっただけでなく、夏の大会すら実施できないのではないかとささやかれている。

 努力を重ねてレギュラーの座を掴んだのは、何だったのだろうかと、どうしても空虚な思いに満たされてしまう。

 はあ、とため息が漏れたのと同時に、ポケットのスマホが震える。


『もう着いたんだけど』


 洋一よういちからのラインだった。小憎らしい表情をしたウサギのスタンプもすぐに送られてきた。


「やべっ」


 公園でキャッチボールをする約束をしていたのに、すっかり忘れていた。

 真也は「すぐに行く」と返信し、大慌てで家を飛び出した。



 公園入り口近くのベンチに腰掛けていた洋一は、公園に入ってきた真也に気付くと「よう」と手を挙げた。


「悪い、遅くなった」

「気にすんな。いろいろあるんだろ? 引きこもりの俺と違って」

「いや、今日は何もなかったんだけどな。それより、元引きこもりだろ?」

「あぁ、どうかな? 家からは出られるようになったけど、まだ学校もないし、よく分からん」

「分からんって……。自分のことだろ。堂々としてればいいんだよ」


 明るく肩に手をやってくる真也に、洋一は表情を和らげる。


「そうかもな」

「そうだよ。オンライン授業にも出てるしな」

「あれはいい。たぶんいきなり学校には行けなかったと思うんだけど、ネットを通してだと抵抗感が少ないからな」


 朗らかに話す洋一の顔を見て、真也は密かに胸を撫で下ろす。



 4月に突然、洋一がオンライン授業に出ていたのに気付いた時は驚いた。

 もしかすると、卒業まで会えないかもしれないと思っていたのに、洋一が学校に関心を抱いていることを知って、安堵した。

 ラインで連絡を取り続けていると、家の外にも出るようになったと言う。

 じゃあ、たまには会ってみようと、この日、公園で待ち合わせをしたのだ。


 洋一が不登校になった時に、何もしてやれなかったことに真也はずっと引け目を感じていた。

 半年ぶりに実際に顔を合わせるのは不安でもあったけれど、以前と変わらない笑顔に救われた気がした。

 だから、真也はもう一歩だけ踏み込んでみる。


「学校が始まったら、出てきてみないか?」


 拒まれたらすぐに冗談だと言えるように、できるだけ軽い口調を心掛けた。

 洋一の反応を窺うまでもなく、返事はすぐに返ってきた。


「そのつもりだよ」

「……まじか?」


 逆に動揺する真也に、洋一は拗ねたように言う。


「自分から聞いといて何だよ?」

「いや、そんなにあっさり言われるとは思ってなかった」

「まぁ、なんだ。俺も単に意地張ってただけだからな。なんかきっかけがあれば、学校には行こうと思ってた」

「そうか……」

「あー、先に言っとくけど、俺が学校に行かなくなったことで、真也は自分のことを責めたりしないでいいからな。……もう遅いかもしれないけど」


 洋一は視線を逸らして頬をかきながら、「だけど」と続ける。


「真也にはいろいろ感謝してるよ」

「何のことだよ?」

「分からなければ、いいよ。それより、さっさと始めようぜ。グローブ借りるぞ」


 洋一は照れを隠すように、真也が持ってきたグローブの一つをひったくると、真也から離れる。

 十分距離を取って、「いいぞ」と声を張った。


「いくぞ」


 肩を1回ぐるりと回すと、真也は洋一の胸元めがけてボールを放る。

 バシッとグローブに収まったボールに、洋一は「おお」と漏らす。


「野球部員に言うのも失礼かもしれないけど、いいボールだな」

「当たり前だろ」


 洋一からの返球を軽くさばいて、真也は応える。

 すぐに投げ返す。


「野球の大会、中止になったんだってな」


 寸分たがわぬコントロールのボールを受け、洋一は言う。


「そうだな」

「大丈夫か?」

「何が?」

「何がって分かってるだろ。真也が大丈夫かって聞いてるんだよ」


 行き交うボールに言葉をのせて、2人は会話を続ける。


「この間まで引きこもってた奴に心配されるようじゃ俺もまだまだだな」

「その言い草は、何だよ?」

「事実だろ?」


 真也の送球は少しだけ力強くなる。

 けれど、コントロールは良く、洋一のグローブにスポっと収まる。


「まぁ、そうだけど」


 洋一の投げた球は上ずったが、真也は軽くその場で飛んで難なくキャッチする。


「だから、気にすんなよ」

「俺に憎まれ口を叩けるところを見ると、平気そうだな」

「そう思うしかないしな。それより、洋一もちゃんと学校出て来いよ」

「分かってる」


 先ほどと同じように平然と返す洋一に、真也は感嘆する。

 心配していて損した、とすら思う。

 洋一がこれほど強かったなんて知らなかった。

 半年も部屋から出られなかった洋一がこれほど前向きなのに、自分が後ろ向きなのが恥ずかしくなる。


 ボールを握ったまま黙り込む真也のもとへ洋一が歩み寄ってきた。

「どうかしたか?」

「いや、洋一はすごいなと思って」

「変なこと言うなよ」

「いや、変なことじゃない。俺は、さっき大会が中止になったけど平気だって言ったけど、正直だいぶ堪えてるんだよ」

「まぁ、だろうな。俺は真剣にスポーツをしたことはないけど、目標がなくなるのがどんなことかってのは想像がつく」

「そうだな、かなりつらいよ。……でもな、洋一の悩みに比べたら俺が落ち込んでるのなんてちっぽけなことのような気がするんだよな」

「そんなことないだろ」


 洋一は首を横に振るが、真也は「いいんだ」と言う。


「俺がそう思いたいんだ。そう思わないとやってられないから」

「そっか。……でも、真也がそう思えるのなら、俺が引きこもってたのも無駄じゃなかったんだな」

「いや、その考えはどうかと思うけど」

「真也の考えに俺はもう口を出さない。だから、俺の考えもこれでいいだろ?」

「よく分からなくなってきたな」

「そうだな」


 そう言って白い歯を覗かせる洋一に真也も笑顔で応えた。



 ひとしきり汗を流してから洋一と別れた真也は、まっすぐ家には帰らず少し遠回りしていた。

 部屋からいつも見下ろしている球場前を通る。

 こうやっていつでも来ることはできるのだが、現実を見つめることが怖くて最近は近付いていなかった。

 けれど、洋一と話して、ちゃんとした実感を得る必要があると感じていた。


 ――青春の1ページが失われてしまったという実感を。


 陸上競技場が併設された球場一帯では、秋に開催を控える国体に向けた工事が進む。

 歩道沿いに植えられていた広葉樹はいつの間にか伐採され、業者が代わりとなるソテツを植樹している。

 真也が遠くから工事を眺めていると、駐車場に停められた1台の車が目に留まった。


 県外ナンバーのワゴン車だった。


 こんな時に、県外から来るなよ、と真也は思う。

 真也が暮らす地域では感染者はここ数日、報告されていない。

 県外から人が来るせいで、大会だって開けないんだろうと憤る。


 けれど、再びソテツに視線を移した真也は気付いた。

 トゲトゲの葉のように、自分の気持ちも刺々しくなっていることに。

 県内だけの移動なら問題ないというのなら、県大会はできたはずだ。

 それができなかったのは、きっともっと別の難題があるからだ。

 そんなことは分かっている。

 分かろうとしている。


「だけど、最後にもう1回だけでも、ちゃんと野球をしたい」


 そんな願いが叶うのか、真也には分からなかった。

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