第6話(1/3) シュレディンガーのコロナ
今がどうでもよければ、過去も未来もどうでもいいものなのだろう。
きっかけは、くだらないことだったと自分でも自覚している。
ある日の英語の授業中。
教師に指名され、和訳するように言われたのだが、できなかった。
予習が必須の授業なのに、していなかった自分が悪い。
そうは思っても、理不尽にそのまま授業時間中、ずっとその場に立たされたことには納得できなかった。
だから、次の日から学校に行くのをやめた。
最初の2、3日はどこか落ち着かなかったが、それを過ぎるともうどうでもいいという思いが洋一の心を支配する。
そうして、自分の部屋にこもっていることが当たり前になった。
不登校を始めた当初は友人や先生が家を訪ねてきたが、会う気にはならなかった。
それから半年余り。
テストも受けていないし、出席日数が足りていたのかもあやしいものだが、学校としても落伍者を出すのは避けたかったとみえる。
4月になり、洋一は3年生になっていた。
わざわざ自分からニュースを見ることはないけれど、ネットにかじりついていると、コロナウイルスなるものが世間では話題になっていることぐらいは耳に入ってきていた。
とはいえ、元から部屋にこもりっきりの洋一の生活には、大した変化はない。
洋一の部屋の中では変わらない時間が流れていた。
変化があるとすれば、楽しみにしていたいくつかの春クールのアニメ放送が延びたことぐらい。
それでも新番組の代わりに再放送される数年前のアニメを見たり、それまでのようにゲームをしたりして、洋一は時間を浪費していた。
変化があったのは、ある日の夕食時だった。
家族が寝静まったのを待ち、部屋の扉を開けると、トレイに載せられたカレーがあった。
そこまではいつも通り。
洋一の目を引いたのは、その皿の下に1枚のプリントが挟まれていたことだ。
引きこもりを始めたころは、こうして学校からの連絡事項などの紙が食事と一緒に届けられることがあった。
だが、年が明けてからはこんなことはなかったはずだ。
不思議に思って洋一は、トレイを部屋の中に入れると、皿を持ち上げてそのプリントを手に取る。
「オンライン授業を始めます」
A4の紙に、そう書かれていた。
そういえば、コロナとかいうののせいで、学校は休みになってるらしいなと、洋一は思い出す。
手にした紙には、時間割やログイン方法のほかに、先生は動画で授業を配信するが、生徒はチャット形式で質問などができることも記載されていた。
「教師がユーチューバーになるのか。そりゃ、面白い」
思わず口をついた自らの言葉に、洋一は驚く。
面白いなんて、ここ最近は感じることがなかったからだ。
何の気の迷いかと、洋一はプリントをまるめて床に投げる。
座卓に皿を置いて食事を始めた。
すっかり冷めたカレーは、いつもと同じ味がした。
翌日、洋一が目を覚ましたのは昼すぎだった。
寝ぼけまなこを開けると、ちょうど視線の先に昨夜投げ捨てたプリントが転がっていた。
ベッドに寝そべったまま手を伸ばして、くしゃくしゃの紙を手にする。
広げて時間割を見ると、もうすぐ古典の授業が始まるころだった。
担当するのは、ベテランの男性教諭。
昨年も不登校になるまでは、教わっていた教諭だ。
ざっくばらんとした感じで、偉ぶらないところに洋一は好感を覚えていた。
だから、というわけではない。ただの気の迷いだと、洋一は自分を納得させる。
ベッドから身を起こすと、座卓の前に腰を落とす。
ノートパソコンを起動して、インターネットブラウザを立ち上げる。
プリントに書かれた手順に沿って、ログインすると、既に古典の授業は始まっていた。
男性教諭の授業はいつものように、脱線していた。
洋一が授業を見始めた時、教諭は「シュレディンガーの猫って聞いたことがあるか?」と生徒たちに尋ねていた。
この日のテーマは竹取物語だったはずだ。
なんでシュレディンガーの猫なんて、話になるんだよと、洋一には話の流れが読めない。
まぁ、いろんなアニメとかマンガとかラノベとかで使われてる言葉だから誰かが応えるんだろうと、静観する。
けれど、チャット欄を眺めていても誰も応える気配がない。
画面の中の教諭が「高校生なら知ってるだろ?」なんて言っているが、それでも誰もタイプしない。
洋一は不思議な気分を味わっていた。
顔を合わせている中での沈黙なら慣れているが、パソコン画面を通しての無言は不思議と耐えがたい。
なら、と指をキーボードの上に置く。
「どうせチャットなら誰が言ったのかも分からないだろうし」
つぶやき、タイプを始める。
箱を開けるまで猫が生きてるか死んでるか分からないという定番の説明に加え、「逆に言えば、何かの結果に関して興味がなければ、結局のところ、どうでもいいってこと」なんて皮肉めいたことも書き込んだ。
ピコンと、チャット画面に書き込みが表示されてから、洋一は、しまったと気付く。
そこにはしっかりと、「辻洋一」と名前が示されていた。
教諭もその名前を見て、一瞬目を細める。
けれど、そこはベテラン。
すぐに「辻、ありがとう。まさにそういうことだよ」とスムーズに授業を再開した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます