第2話(2/4) 回らない観覧車
マスクを着けたまま歩き回っていたから、息苦しさを感じる。
小道から大通りに出て一歩。
マスクをちょっとずらして鼻で空気を吸い込むと、立ち止まって空を眺める。
瞳に映るのは、当たり前の光景。
急速に変わる毎日の中で、変わらない景色。
当たり前のことだ。
空には人はいない。
変わっていっているのは人なのだ。
けれど、それが七海にとっては面倒なことなのだ。
七海が撮りたい写真は、人のいる風景。
何気ない会話を交わしながら、自然な笑顔を浮かべる風景。
たぶん、そんな写真を好む兄の影響なのだと思う。
でも、外出自粛が要請されている今、通りを歩く人の姿はほとんどない。
商店街のシャッターも上がらない。
ほんとに困ったと、七海のため息は深くなる。
「何を撮ればいいんだろう?」
すっかり困り果てた七海は、兄を頼ることにした。
ジーンズの後ろポケットからピンクのカバーの付いたスマホを取り出す。
アドレス帳から兄の名前を探し出して、タップ。
鳴り続ける発信音に耳を澄ませる。
その間も、視線を動かして周りに被写体がいないかを探すが、夕闇に包まれ始めた街にはまばらな人影しか見当たらない。
たまに通りかかる人もマスクで顔を隠していて表情は窺えない。
そんな無機質な社会は、七海の撮りたいものではない。
兄は結局、電話を取ってはくれなかった。
「俺は写真で飯を食う」と上京して数年。ずっとフリーターみたいなことをしていたらしいが、今年の春にやっとプロサッカーチームのオフィシャルカメラマンとしての職を得ていた。
きっと忙しくしているんだろうと、七海はスマホの画面を眺める。
気付いてかけ直してくれないかなと、期待を捨てきれずにそのまま視線を落としていたが、スマホは鳴ることなくスリープモードに移行した。
スマホをポケットに仕舞い、顔を上げる。
視線が上がり、自然と目に飛び込んできた光景。
その光景に、七海は心を奪われた。
――七色に光る観覧車。
七海の住む街で一番大きい駅に併設された商業施設。その屋上にそびえる観覧車。
つい最近、ネオン管からLEDの照明に代わり、郷土の偉人をモチーフにしたキャラクターや街のシンボルを映し出すようになっていた。
けれど、七海が目を引かれたのは、その照明の真新しさのせいではない。
ただ単に、観覧車が輝いていたからだ。
緊急事態宣言が出され、商業施設は休業していた。
だから、遠目に見える観覧車は回っていない。
それなのに、照明は煌々と光り輝いていた。
街を照らし続けている。
ほんとに、ありがたい。
七海は胸を熱くする。
当たり前の光景は、面白くもなんともないって思っていた。
空が青いように、夕焼けが赤いように、雨がいつかやむように。
だけど、変わり果てた街を、いつもみたく照らしてくれる観覧車の明かりは、本当に本当に胸を打つ光景だった。
当たり前がこんなにありがたいだなんて、知らなかった。
七海は駆け出す。
観覧車が逃げるわけはないから、そんな必要はないのだけれど、目に映る感動を写真で表現したいと、七海ははやる気持ちを抑えられない。
三脚があればよかったなと思うけれど、今から取りに帰るなんてありえない。
心が弾んでいる今この時を切り取りたい。
普段のこの時間帯には通勤通学の人たちであふれかえる道路を手前に引っかけて、観覧車がてっぺんまで写る場所に立つ。
画質が荒れないぎりぎりまで感度を上げて、シャッタースピードをぶれない程度まで遅くする。
ファインダー越しに、光を放ち続ける観覧車を見据える。
心臓がうるさい。
「ちょっとだけ黙ってて」
右の拳で左胸を軽く叩く。
一つ深呼吸してカメラを構え直す。
ぶれないように、しっかり両脇を締める。
――カチャっ
シャッターを切った。
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