あたし(11)

 始発に乗っていつもより三時間は早く花屋に着いて、店先を植え込みの中までくまなく探したけれど、お気に入りのノートは見付からなかった。


 どうしよう。名前が書いてある。店長が拾って読んだら、あたしが妻子のあるひととお付き合いしていたことがバレてしまう。そんなことで気まずくなって、通い慣れたこの花屋を辞めることになるのは嫌だった。


 それに。こんな状況で浮かぶのは課長の顔のはずなのに、お兄さんの顔がポンと浮かんだ。だけどすぐに、その表情は怒りに変わる。


 ああ。そうだった。あたし、お兄さんを怒らせちゃったんだ。謝っても許して貰えなかったら、辞めるっていうのも選択肢のひとつかもしれない。深追いする恋の代償を思い知っているあたしは、そんな風に弱気になってしまう。


 鍵を持った店長が来るまで、あと三十分。所在なげに店先の段差に座って、あたしは膝を抱えていた。


 ん……? トラックのエンジン音? 似たような音がするんだな。同じ車種かな。あたしは膝に突っ伏して、夢うつつにそう思った。


 だけど、無意識に顎が上がる。名前を呼ばれた気がしたから。あのよく通るバリトンで。


 鈍く像を結んだ眼前には、お兄さんが昨日みたいに、あたしに向かって逞しい拳を差し出していた。

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