俺(10)

 昨日は俺も、動揺していたのかもしれない。花屋に配達するバケツの底に、ふやけた文庫本を見つけたのは、新たに水を入れようとした時だった。


 拾い上げると、文庫本にしては珍しくハードカバーで、表紙にキラキラしたシールで「MIKA」と貼ってあった。本好きだから分かる。これは本じゃない。ノートの類いだ。


 そう分かっていて、覗き見なんて悪趣味だとも自分を責めながら、恐る恐る水を含んで膨らんだページを開いてしまう。ノートを見付けたバケツに、青薔薇の花べんが一枚、散っていたから。


 でも中身のインクはスッカリ滲んでしまい、何と書いてあるかは分からなかった。良かった。俺はホッとしたようなガッカリしたような、複雑な気持ちで胸を撫で下ろす。


 ミカ、さん。口の中で小さく呟いてみたら、五年間麻痺していた、ひとを好きになるスイッチが押されたみたいに、胸がじんわり温まった。


 役立たずになったノートだけど、彼女との話題の糸口だ。大事に制服のポケットにしまって、本当に久しぶりに自分からひとに話しかけるのに相応しい言葉を、ああでもないこうでもないとシミュレーションしながらトラックを発進させた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る