あたし(9)

 暗い室内で掛け布団の上に横になって目を覆い、あたしはまんじりともせずにあの光景を脳内で繰り返し再生していた。


 結婚のご予定は? と訊いた時の、お兄さんの顔。凄く怒ってた。


 確かに、何とも思っていない小娘に、まだ結婚しないのかなんて言われたら、凄く腹が立つだろう。あたしだったら、セクハラです! って大きな声で言うかもしれない。


 そうしてまた、思い出したくないのに課長の顔を思い出す。あたしが本当に結婚したかったのは、課長だ。だとしたら、お兄さんへのこの感情は何なんだろう。友情? 違う。憧れ? 近いのかもしれない。


 リモコンで電気を点けると、午前三時を回っていた。だるかったけど身体を起こし、ベッド脇に置いていた鞄を漁る。


 あたしは課長と付き合うようになってから、毎日欠かさず日記をつけるようになっていた。はじめは恋する喜び、次に課長の癖や笑い合った言葉、そしていつか結婚する夢物語。でも最後にはたった一ページ分だけ、あたしを裏切っていた課長への恨み言が綴られていた。


 それきり日記は書かなくなっていたのだけれど、お兄さんが気になり出してからは、また書くようになっていた。文庫サイズでハードカバーのノートで、何だか自分が作家になったように思えるから、お気に入りだった。小さいから仕事中もポケットに入れて、メモ帳代わりにも使っていた。


 ――ない。ない。ない!


 そう言えばあたし、店先で派手に転んだんだっけ。誰かに拾われたりしたら、末代までの恥。そう思ってあたしは、始発に乗るべく熱いシャワーに飛び込んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る