あたし(7)

 ついにあたしは、お兄さんのことを思うと、夜も眠れなくなってしまった。徹夜明けでボーッとしながらも、何とか遅刻せずに出勤する。髪まできちんと巻いていったのだから、恋する乙女としては合格だろう。お兄さんの顔が見たい一心だった。


 お兄さん。そう、あたしの中で、「お兄さん」は「お兄さん」のままだった。店長に訊けばすぐに名前なんて分かるだろうに、何故か訊く気になれなかった。もっと親しくなってから直接訊きたいなんて、ちょっと大胆なことを考えていたら、いつものエンジン音が近付いてきた。


 おはようございますと挨拶をして、小さいバケツはあたしも手伝う。だけどあたしは、ミスをした。いや、ミス? 恋の天使の計らいだったのかもしれない。ボーッとしていたあたしは見事に、高級な青薔薇のバケツもろともひっくり返った。


 三輪入荷した内の二輪は無傷だったけど、一輪は茎が途中で折れてしまった。幸い水は被らなかったからこのまま働くのに不都合はないけれど、あたしは店先にぺたんとお尻をついて、泣きたい心地だった。


 寄りにも寄って、ブルーローズ。店長に知れたら、大目玉だろう。


 でもその時、お兄さんは慌てず騒がず、手を差し出してきた。大丈夫? のひと言よりも、しっかりと支えてくれる逞しい拳が頼もしかった。


 それから、生真面目な勤務態度とは裏腹に、お兄さんはある提案をする。他ならぬあたしを助ける為の、ひどく優しい嘘だった。

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