調布飛行場と猫娘と俺の風景

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調布飛行場と猫娘と俺の風景

 抜けるような青空だった。

 秋空の澄んだ大気の中、雲は遠く頭上にある。

 その中をゆらりゆらりと頼りなげに橙色オレンジの複葉機が飛んでいた。


 橙色オレンジの機体に赤い日の丸が描かれている。

 どうみても赤くはないが、通称赤とんぼと言われる練習機だ。


 ふわりふわりとその機体は旋回して目の前の飛行場に降りようとしていた。

 この田んぼと木造のちっぽけな駅しかない調布においてそれは殆ど唯一の娯楽と言っても良かった。

 この頃は大陸のほうで騒がしいが、陸軍さんの飛行機を見ていてもそんなに怒られることもなく偶にやってくる駐在さんに追い出されることがあるくらいだった。

 

 俺は息詰まると、いつもここでぼんやりと飛行機を眺めるのだ。

 このあたりは京王電軌が路線を伸ばしてきていて少しづつ活気が出てきてはいるが、まだまだ牧歌的な雰囲気が残っていた。


 心ゆくまでこの風景を楽しんだら自転車に乗って帰るのだ。

 甲州街道をのんびりと漕いでゆく。

 午後くらいに出ればちょうど暗くなるあたりで下宿につく。


 その間に色々と構想やら思索やらもはかどるというものだ。

 さてそろそろ自転車に乗って帰るかと思っていると、いつものが出た。


「どこへゆくのだ」

 そのいつものは、見た感じは少女のように見える。 

 昔は高価であったろう古びた着物のようなものを身に纏っている。

 やや伸ばした黒髪にくりっとした黒い瞳。

 風貌はやや大人びた印象はあるが小柄で概ねな印象は少女なのだが年齢は分からない。


 しかし奇妙なのは、やけにきらびやかな簪のあたりから生えている……耳だ。

 その耳は三角形で黒に白い斑がわずかに入り、ぴくぴくと時折動いている。

 いわゆる猫の耳だ。


 どうみても本物の"猫の耳"だ。

 俺はため息をついた。

「また出たのか」

「また出たとは何じゃ、失礼な」

 彼女は最近

 

 時には下宿で、時にはこの飛行場で。

 特に飛行場がお気に入りなのか、俺がのんびりと丘に座って飛行機を眺めていると唐突に横に出現していたりする。

 

 もしかすると俺の妄想なのだろうか、とも一時期悩んだがどうも実体のようだ。

 ただし他人には見えていないらしく、そば屋で出現したときに話しかけていると何とも憐みの混じった視線を感じたものである。


「下宿に帰るんだよ……分かってると思うが落合村だ」

「載せてゆけ」

「何時間もか? うーん……」

  

 奇妙なことにこの猫娘は重みはあるらしく自転車の後ろに乗せるとそれだけ疲れる。しかし彼女は言いだしたら聞かない。


「わかった、下宿までだぞ」

「……折り合いがついたな」


 俺は自転車にまたがり、猫娘をひょいと抱き上げて後ろに乗せた。

 彼女は澄ました顔で横座りした。

 俺はえいやとペダルをこぎ始めた。

 

――東京府多摩郡落合村についたのはすっかり夜になってからだった。さすがに調布のような田舎と比べるとまだまだ人通りも多く、そこら中にぽっと赤茶けた電燈が灯っていた。


 この落合村は別称で落合文士村と言われ、流行りのプロレタリア文学の文士たちや小説家の著名人たちが多数住んでいた。

 

 このあたりまで来ると西武鉄道の下落合駅と中井駅が最寄の駅だ。ここ最近は全日本無産者芸術連盟やらアナーキストなどよくわからない連中も住んでいた。


 ぎしぎしと自転車を漕いでいると林なんとかという女流小説家の自宅が見える。落ち着いた雰囲気の家屋の塀を回り、しばらく行くと俺の下宿だ。


 老夫婦が営んでいるタバコ屋の二階を借りている。木造でもともとは息子夫婦が住んでいたそうだ。

 もう一人、早稲田大学の学生が住んでいるが苦学生らしく授業が空いた日には家庭教師だの何だのと出かけていて顔はほとんど合わせない。

 俺は俺で日々の労働で口を糊しながら文学青年きどりで小説を書く毎日だ。

 しかし才能がないのか時代に合わないのか端にも棒にもかからずそろそろ青年と言い張るのもしんどい年齢になってきた。


 自転車を裏口に止めてひょいと振り返る。

「おい、着いたぞ……」

 しかしそこには猫娘の姿はなかった。いつも通り何も言わずにふっと消えたのだろう。

 いつものことで俺は気にせず、「帰りました」と奥の老夫婦に声をかけ二階へ上る。やけに急角度の階段をのぼり二つある部屋のうち右側に入る。


「遅かったな」

「……また出たのか」

 4畳半ほどの和室に小さな古びた文机が置いてある。

 その前にちょこんと猫娘が正座してこちらを見据えていた。


「1日に2回も出るとは珍しいな……」

「今日は特別じゃ……ほれ、腹が減っただろう」

 猫娘が何やら包みを放ってくる。

 開けると有名な菓子メーカーのドロップス缶だった。


「何だいドロップスじゃないか……」

「甘くてうまいぞ」

「だいたい金はどうしたんだ」

「対価を置いてきた、問題なかろう」

「……」

 この人外の考える対価がどのようなものか、それは窃盗にならないのか俺は考えかけたが途中でやめた。どうせ理解の範疇外だ。


「それにしても珍しいじゃないか1日に2度も出るなんて」

「今日は用事があってな、ほれそこの紙きれを見るのじゃ」

「……?」

 

 俺はその真っ赤な紙切れをみてしばらく固まった。

 赤い紙きれ……いわゆる陸軍省による召集令状だった。


 俺は深々とため息をついた。

「やれやれついに来たか……大陸のほうが騒がしかったもんな……しかしこれは本人に直接手渡されるものでは?」

「わしがお主に化けて代わりに受け取っておいた」

「……それはどうも」


 猫娘はそういうこともできるのか。

 俺は一度兵役の義務に服したことがあったので今回は帰休兵召集だ。

 前回はほとんど戦争らしい戦争には参加していなかったが今は満州がキナ臭い時期だ。


「しかしなんでわざわざ?」

「お主のことが心配なのじゃ」

 猫娘はくりっとした黒い瞳で俺を見つめた。

 哀愁のような悲哀のような入り混じった表情に見えた。


 俺はふっと笑った。

「ありがたい」

「これを持ってゆけ」


 猫娘は小さな鈴のようなものを俺に放った。

 ちりりと音を立ててそれは俺の手の中に納まった。

「これは何だ?」

 しかしその時にはすでに俺の四畳間から猫娘は姿を消していたのだった。


――俺は招集の期日が来る前にもう一度甲州街道から調布飛行場を見に行った。

 航空兵になりたかったわけではない。

 この武蔵の森や川や大地が好きだった。自転車でひた走ることによってさまざまな景色の変化も楽しめる。

 そして秋空の中、飛行機が飛ぶのを眺めるのだ。

 その日はプロペラが2つも付いた厳めしい陸軍機が何機か飛び立っていった。


 数日後、身辺の整理を済ませた俺は招集令状を使って電車に乗った。

 招集令状はそのまま部隊への移動の切符として使えるのだ。


 どうやら部隊は満州にいるらしく移動は実に大変だった。

 お偉いさんのように飛行機で飛んでいくわけにはいかない。

 先ず神戸に向かいそこから船で大連に向かう。大連から南満州鉄道に乗ってあの大会戦で有名な奉天を過ぎ新京だ。新京から国線に乗り換えて哈爾浜ハルビン経由で斉斉哈爾チチハルに到着する。そこでやっと部隊に合流だ。


 そこからの年月はあっという間だった。

 俺は満州でロシアとの厳しい戦闘に放り込まれた。ただひたすらに寒く寒く凍えた。あまりに凍てついていて戦死した味方の兵士を弾除けがわりに使うほどだった。凍った人間の死体は弾丸を通さないのだ。

 運よく生き残ったがなかなか招集は解かれず、5年兵になっても帰還できなかった。そのまま新しい戦争が始まり、今度は熱帯の比島フィリピンに放り込まれた。

 ジャングルは暑く、暑く、しかもこうした熱帯雨林での作戦要領についてほぼ何も教えられないまま今度はアメリカが相手だ。


 一度、友軍のそれと比べてやたら巨大に見える敵の戦車が目の前にやってきて砲塔の上についた機銃がこちらを向いた。

 俺はすっかり死んだと思った。

 しかし耳の奥のほうでちりりと鈴が鳴った気がした。


 気が付いたら俺は誰かが地面に掘ったタコ壺の中だった。

 周囲には誰もおらず味方の遺体もなかった。

 そしてそのまま俺は掃討にやってきたアメリカ兵に捕らえられた。


 俺が捕虜となってしばらくして戦争は終わった。

 武蔵野はあまり焼かれなかった。

 ただ中島飛行機のあった吉祥寺やら工場のあったあたりは爆弾でやられたらしい。

 俺は帰還兵となって船で日本に帰ってきた。


 東京の下町はすっかり焼けて、落合のほうでも目白文化村という住宅街は6割以上も焼けてしまったようだった。

 幸い俺の下宿先だったタバコ屋は残っていた。

 老夫婦も健在でひょっこり戻ってきた俺を歓迎してくれた。

  

 どう考えても比島フィリピンで俺は死んだはずだが生き残った。

 ぼうっと下宿の4畳間に転がっていると色々な想念が湧いてきて俺の中を通り過ぎて行った。

 ふとあの猫娘に無性に会いたくなった。

 しかし彼女は出てこない。


 そういえば戦場でも何となく気配は感じることはあったが姿は現さなかった。

 東京も戦後しばらくしてだいぶ復興してきた。

 調布飛行場の周辺にも調布銀座(!)なるものが出来て何やらずいぶん賑わっているらしい。しかし俺は自転車で走る気にもならず職を見つけて仕事を始めていた。


 ふと職場と下宿を往復していると、気になる寺があった。

 ちりりと耳の奥で鈴が鳴った気がして俺はそちらに向かった。

 

――その寺は落合では有名な寺だった。

 吸い寄せられるように向かうとその一角に猫の形をした地蔵がぽつんと鎮座していた。

 その猫地蔵は胸のあたりに小さな傷のようなものがあった。


――また会えたな――

 

 懐かしい声が聞こえた気がした。

 俺はその猫地蔵を見てすべてを悟ったのだった。

 猫娘はきっと鈴に託して俺についてきたのだろう。

 そして戦場で守ってくれたのだ。


 そしてこの猫地蔵は俺が上京したての頃にふと気になってお供え物をした地蔵だったのだった。俺はふと上を向きあの飛行場で見た秋空と同じ空を眺め、猫娘に感謝したのだった。雲の中にふんわりと彼女の姿が見えた気がした。

 


 


 

 

 

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