魔法の指輪

@SO3H

魔法の指輪

「私ね、魔法の指輪を持ってるの」

 センパイは左手をかざして、小指に嵌めた指輪を見せびらかした。

「なんですか、手品でもするんですか?」

 私はその指輪を一瞥すると、興味のなさそうなフリをして目の前の書類に意識を戻した。


 私とセンパイは、高校の頃の同級生だ。なぜ同級生をセンパイと呼ぶかといえば、私が彼女に1年遅れてこの大学に入学し、ついでにこの映画研究会に入会したからだ。脚本担当として上回生からも同回生からも信頼の厚そうな彼女を、ふざけてセンパイと呼んでいたら、それが定着してしまった。


 私たちのほかに誰もいない映研の部室。代々の部員が持ち込んだポスターで埋まった壁に囲まれて、私は文化祭委員会に提出する書類を書いていた。センパイはそこにふらりと現れ、壁際の本棚からサークルで所有する本を取り出し、ソファで読み始めた。


 彼女の代は既に半分引退したようなもので、この文化祭は私の代が中心となる。キャストやスタッフとして撮影に参加はしてもらうものの、脚本や演出といった役職には3年生が就いている。私にとっては、センパイ以外の脚本で初めての撮影となる。そんなわけで、4年生の中には部室にほとんど来なくなった人もいる。

 しかしセンパイは、こうして頻繁に訪れてはソファで本を読んだり、家より大きなモニタで持ってきた映画のDVDを見たりしている。


 さて、そんなセンパイが本に飽きたのか突如言い出したのが、冒頭の「魔法の指輪」である。

 彼女の小指に嵌っているのは一見なんの変哲もない金色の指輪だ。アンティーク調の少しくすんだ色で、小指につけるには少々太いように思う。

だが私は今彼女の気まぐれに付き合っている場合ではない。書類の提出期限が明日に迫っている。


「手品だと思う?」

 センパイは私を書類に集中させる気がないらしく、懲りずに浮かれた声を出した。

 私は手を止め、抗議の意を表明しようと顔を上げた。その時点でセンパイの思う壺だったような気がする。少々は不機嫌、残りはしょうがない人だという諦めを目に宿してソファにいたセンパイを見た。


 が、そこにセンパイの姿はなかった。立ち上がる音も聞こえなかったし、そもそも隠れるような場所はこの部室にないのに。私の手からボールペンが転がり落ちた。

「驚いたでしょう?」

 その声と同時に、ソファの上の寸分違わぬ場所にセンパイが現れた。それこそ下手な合成映像のように唐突に。

「どういうこと……?」

「言ったでしょ?魔法の指輪なの」

 そう言って、センパイはまた左手を顔の前に上げてみせた。


 センパイは楽しそうに小指の指輪を薬指側に回した。すると今度はセンパイの姿が消えた。パッとかポンッとSEを付けたくなるほど鮮やかに。

 私が瞬きする間に再びソファに姿を見せた彼女は、やはり小指に手を添えていた。反対側に回すと戻ってくるということだろうか。

「それは、どこかへ消えているの?透明になってるの?」

 私は書類を諦め(すまない皆、今夜徹夜で仕上げるよ)、困惑しながらもセンパイに近づいた。

「随分あっさり受け入れるね」

「まあSFやファンタジーへの耐性はある方だし?」

 身に付けると姿を消せる指輪なら、有名な映画にも登場する。もしくは小型の時空転送装置で、センパイはどこか別の場所に行っていたのかも知らない。

「姿が見えなくなってるだけ。ここにいるわ」

 そう言うとセンパイはまた指輪を回した。誰も座っていないように見えるソファの上の空間に手を伸ばすと、柔らかい肉の感触が確かにあった。

「優しく触ってよね」


 姿を現しながら、センパイはニヤリと笑う。


「は〜〜すごいな」

 捻りのない感嘆の声を上げる。

「で、そんな魔法の指輪が、ここにもう一つあります」

 そう声を弾ませて、センパイはジャケットのポケットから、同じ指輪を取り出した。

「そしてこれは、エイコちゃんにあげましょう」

 指輪を親指と人差し指で縦に挟んで片目を瞑り、真ん丸い穴越しに私を見る。私は手を出せと催促されて右手を差し出した。


 しかしセンパイがその手を取る前に、私は一度身を退けた。

「つけると悪意が増殖したり、力が暴走して戻れなくなったりしない?」

 代償は人知を超えた力のお約束だ。疑り深くなるのも許されたい。

「私、悪意に飲まれているように見える?」

 センパイが膝に肘をついて前のめりになり、ソファが少し沈んだ。

「まあ……見えない、かな?」

 顎に手を当て慎重に答える。この人は高校の頃からずっとこうだ。少なくとも私の目には、この気まぐれ女が指輪に囚われていたり振り回されたりしているようには見えなかった。

 我が意を得たりと唇を三日月型にすると、センパイは私の左手を取り、小指に金の指輪を嵌めた。

 指輪が肌に触れた瞬間、身体を魔法の力が駆け巡った、ということもなく私は実感乏しくまじまじと指輪の嵌まった左手を見つめた。




 この時の私は、何も考えていなかった。目の前の非現実的な現実に思考をかなり狭められていたと思う。

 ……そもそもセンパイは、この指輪をいつどこで手に入れ、何に使っているのだろうか。

 そして何故私にもう一つをくれたのだろうか。




 あれから時が経った。文化祭は撮影した映画を上映し、売上はそこそこだったが部員として満足して幕を下ろした。センパイは一足先に卒業、大手企業に就職。私も少し遅れて就活と卒論に明け暮れるうち、センパイとは疎遠になった。今は、某メーカーの営業部に入社して、2年目に突入したところである。


 春先とはいえ、動くとじんわり額や脇に汗が滲むような暑い日だった。挨拶回りでオフィス街を歩き回り、怠い脚を引きずり帰宅した私は、着替えもそこそこに下着同然の格好で冷蔵庫から缶ビールを取り出した。

 プルタブを起こすとプシュっと音がして、ダラけスイッチが入る。胡座をかき、ローテーブルに肘をついて、ツマミもなしにまずは一口。泡の舌触りと喉を流れる苦味とで、疲労を押し流す。


 スマホを手に取り、SNSアプリを開く。膨大な情報を、頭を使わずただ流していった。

 画面をスクロールする私の指が、一点で止まった。見覚えのある名前を、そこに見つけたから。


 有名なアマチュア映画脚本大賞の優秀賞。受賞者として、センパイの名前が掲載されていた。ニュース記事のリンクを踏めば、受賞式の写真にもしっかり写っていた。そしてドレスを着た彼女の小指には、やはりくすんだ金の指輪がいた。

「こんなに堂々と嵌めていいのかよ……」

 私はセンパイから貰った魔法の指輪を、あの日一度だけ鏡の前で回して以来、引き出しに仕舞い込んでいた。使い道も思いつかないし、センパイはああ言うがやはり少し怖かったのだ。


 あれからセンパイともほとんど連絡をとっていない。記事を読むと、会社員となっているので、働きながら賞に応募したのだろう。知らないうちにめでたいことになっていたものだ。そのサイトでは、受賞作のあらすじも読むことが出来た。


 同級生に脅されて犯した万引きから始まり、小さな盗みを癖のように繰り返してしまう男がいた。ある日祖母の部屋から大金を盗み出して以来、その規模が大きくなっていく。見つかってはならないスリルを楽しみながら、エスカレートしていく彼の犯罪。破滅へ向かう男の心の闇を克明に描き、予想外だが納得の結末に着地させた手腕が評価されたとある。何かが私の頭の片隅に引っ掛かった。


 大学の頃から、センパイの脚本は道を踏み外した人間の心理を描くのが上手かった。いや、たぶんその才能は高校の頃にはもう開花していた。

 演劇部で彼女が書いたオリジナルの脚本は、好評だった。当時の私は観客としてそれを観ていたにすぎないが、役者の発する台詞ひとつひとつが胸の奥に突き刺さった。何も悪いことはしていない筈の自分にも、何か懺悔すべきことがあるような気にさせた。

 彼女はどの教科も優秀で、先生からの覚えもよく、しかし生徒からも疎まれることなく一緒に馬鹿をやった。同じように遊んでいた筈なのに、さらっと大学も合格した。


 そういえばあの頃、私はよくモノを失くすことがあった。自分でもどこで失くしたか全く覚えていないようなものばかり。はじめは消しゴムやペン。それからノート、テスト範囲を書いたプリント、スケジュール帳……

 センパイ(当時は名前で呼んでいた)も、私のドジをケラケラと笑いながらも一緒に探してくれて、よく見つけてくれた。本当に何故見当たらなかったのかわからないところから。


 当時大事にしていたぬいぐるみが部屋から消えた時は、泥棒を疑い、パニックになり、けれど誰も部屋には入っておらず、泣き叫んだのに、センパイがあっさり机の下から見つけ出した。


 卒業し、彼女と会わなくなる時は、もう探してもらえなくなるなあと思ったのだが、不思議と浪人時代は失くし物に困った記憶がない。切羽詰まった状況でしっかりしたのかと親は言っていた気がする。


 昔を懐かしみ物思いに耽けるうち、缶は空になっていた。これはきっと酔った私の妄想だが、ひょっとして彼女は高校で私と出会った頃には、もうあの指輪を持っていたのではないか。

 透明になれる指輪。使い道はいくらでもある。気づかれずにテスト問題を見ることも、人の逢瀬や罪を覗き物語の種とすることも、事故に見せかけて誰かを陥れることも、本人のうっかりに見せかけてモノを盗むことも容易い。

 こんなことを考える自分を恥じた。友人を疑うなど。だがどうだろう?彼女が私の失くし物を見つけたのが、在り処を知っていたからだとしたら。


 私も物語を作る側だった人間。会社員になってからは筆を取っていないが、種を得ると話が膨らみ、妄想は加速した。

 彼女の作品群は、実体験の集合なのではないか。私の失くし物が止んだのは、彼女と会わなくなったからではないか。大学で再会した頃には、私より大きな獲物がいたのではないか。私の部屋の引き出しに収まるあの2つ目もひょっとして、どこからか盗んできたのではないか。


 私が目を奪われた彼女の文才も、先を越された勉学も、見透かしたような態度も、あの指輪で手に入れたものだったとしたら……

 指輪によって暴走したのか、悪意を持って指輪を手に入れたのか、それはわからない。いや、それどころか全て妄想だ。


 あれを嵌めれば私も彼女になれるだろうか。なりたいのか、私は?人知れず犯罪を犯しているかもしれない彼女に?


 あの日以来初めて、引き出しを開けた。

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