キュウとムサシノ
鉢山ハチ
第1話
彼の名前は「キュウ」
9月生まれだから、「キュウ」
カラダは、焼いた油揚げみたいな茶色。
つまり、キレイな茶色ではなくて、色々な茶色が入り混じったまだらな色だ。
いわゆる「豆柴」として我が家にやってきたキュウは、あれよあれよと成長し、3歳を過ぎた今となっては、いわゆる「立派なデカい柴犬」になった。
キュウは、弟であり、息子でもある。時として、彼氏や夫のようでもある。
不思議な存在。
私の相棒。
キュウは、とある地方のブリーダーから迎え入れた。
今から3年前、私の会社の同僚から、「実家近くのブリーダーが間も無く廃業するんで、今そこにいる犬達の引き取り手を探してるらしくて。横田さん、どう。まぁ引き取るっていっても有料なのだけど。」と聞かされた。
小さい頃から犬と共に生きてきた私。
家庭を持ったら犬とまた暮らしたいと思ってはいた。
しかし、夫は40余年の人生の中で、水の生き物を含めて動物と暮らした経験がない。
夫の協力なくして、犬を飼えるとは思わないし、飼っていいとも思わない。
「凄く興味はあるんだけど、力になれないや。ごめん。」
「全然!これ、一応そのブリーダーのホームページ。横田さんの知り合いで興味ある人いたら、教えてあげて。」
同僚からその場で私のスマホに送られてきたのは、ホームページのURL。タップしてみると、一昔前に作ったようなお手製のホームページが現れた。
「新着子犬情報!」の赤い文字が小刻みに点滅している。
その文字の下にいたのは、眉間にシワを寄せたこげ茶の子グマのような……いぬ?
それが私とキュウの出会いだった。
「犬…、…犬をね、飼いたいのだけど、どう思う。」
その日のうちに夫に話した。私の心は子グマのようなあの犬にすっかり掴まれてしまったのだ。
今となっては、夫がその時どんな表情で、どんな声色だったか思い出すことはできないけれど、
「…じゃぁ、引っ越さないとだね。」
夫がそう言ったことだけは覚えている。
それから1ヶ月もたたないうちに、私達は住んでいた都内の中心地にあったマンションから、埼玉県にある、東京の端っこと隣接する町に引っ越した。
「キュウ、散歩に行くよ。」
横になっているキュウに声をかける。
彼は寝たまま、まずこちらに鼻先だけ向けて、私が本気で散歩に誘っているのか様子をうかがう。
毎回のことだけれど、その度に私は、果たしてこれまで「散歩行く行く詐欺」を君にはたらいたことがあるだろうかと思う。
…キュウはじっとこちらを見つめる。
そして、まるで何かを諦めたかのような、ため息が混ざった吐息を漏らした後に、「…よっ!こいっしょッ」と声が聞こえてきそうなくらいに重い腰を持ち上げた。
前足を伸ばしてお尻を突き出し、続けて前に重心を移動させる。最後に後ろ足をこれでもかと伸ばした。
準備完了だ。
外に出ると、春の風が心地よく吹いた。
私と夫がキュウを迎えるために引っ越してきたこの町は、住宅地が広がる一方で、所々に雑木林があり、少し歩いたところには鴨が悠々と泳ぐ川が流れる。
最初は都心へのアクセスの良さで目に留まった場所だったが、調べてみると犬の散歩にちょうどいい自然がたくさんあった。この土地に暮らすことを決めた理由だった。
中古で購入した築35年の一軒家は、高台に位置している。家を出てすぐ眼下に広がるのは、東京の端っこの町。
高台のこの土地は扇状に広がっていて、東京の端っこをそっと包むような形をしている。
眼下に広がる東京の雑木林と団地、住宅の屋根、雑木林、屋根、屋根、雑木林。
遠くには池袋や新宿の高層ビル群。米粒よりも小さいスカイツリーも見える。
私と夫は、この景色が大好きだ。
引っ越してきたばかりの頃、この「東京を抱く場所」から望む景色を見て、興奮した。
「ムサシノノオモカゲだ!」
普段は物静かで声の小さい夫が、思わず叫んだくらいなのだから、相当な興奮だった。
「……武蔵野の面影、だね。」
私も隣でニヤリとした。
キュウも私の足元でその景色を見つめ、口角を上げ、目は輝いていた。
それからというもの、我々は胸にグッとくる、懐かしいような、新しいような、不思議と込み上げたり、ハッとしたり、心動かされる自然や光景を「武蔵野の面影」と呼ぶことにした。
武蔵野の面影の本当の定義は知らないけれど、きっとあながち間違ってはいないはずだ。
散歩に行くのを渋るキュウも、ひとたび外に出てしまえばご機嫌だ。
いつもの散歩道を、まるで初めて見た景色のように、ルンルンと歩く。
草木のにおいを確かめて、鼻先を宙に向け、風のにおいをスンスンと嗅ぐ。
馴染みのご近所さんに話しかけてもらって、シッポをブンブンと振る。
私にとってはいつもの散歩だけれど、キュウにとって、外の世界は毎日変化があって、新鮮のようだ。
「キュウ、今日は駅まで迎えに行こう。」
シッポを更にブンブンと振り、キュウは駅に向かって小走りになる。
駅に着くと、夫が改札から出てきたところだった。
「おかえり。」
「ただいま。」
キュウが嬉しさのあまり夫に飛びつき、夫も「やめろよー」と言いながらもニタニタとまんざらではないという表情を浮かべている。
「…駅、何の工事してるんだっけ。」
私達の最寄り駅は今、改良工事の真っ只中だ。改札出口が一つだけの「ザ・ローカルステーション」だが、近頃足場が組まれて何やら工事をしている。
「あれだよ、ほら、今度ミュージアム出来るじゃん。それにあわせて駅の外装変えたりするみたいだよ。」
「ぁあ、それでなのか!へぇ、楽しみだね。」
「うん。キュウの散歩でミュージアム近くまで行く時に見ると、本当に凄いのができたなぁと改めて思うよ。」
私と夫とキュウが暮らすこの町は、武蔵野の面影を未来に残しながら進化するようだ。
足元のキュウのシッポがフワリと揺れた。
彼にとってこの場所は、毎日が発見で溢れている。
キュウとムサシノ 鉢山ハチ @hachiyama_8
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます